『Blink Signal』

「兄さま、お料理をしませんか?」


 読書をしているボクのところにやって来て、ひかりはそう言った。


 返事をしようと顔を上げると壁掛け時計が視界に入り、針は14時頃を指していた。ボクは読んでいたミステリー小説を机に置いて、彼女の方へと身体を向けた。


「うわ、もうこんな時間か」

「うふふ、ずっと本に夢中でしたね」

「…ずっと見てたんだね」


 微笑むひかりに、ボクは頭を抱える。

 この頃、というか今になって思い出してみれば昔から兆候はあったけど―――彼女はボクに対して、なにか兄妹という関係を超えた感情を抱いているような気がする。


 そしてどうやらボクは客観的に見て『鈍い』と形容される人間であるらしく、最近ひかりのアプローチが積極的になってきて、やっとその事実に気づいたのである。


 もはや彼女は、行動を隠そうともしない。


 好かれることは順当に嬉しいが、今はまだ困惑の方が強い。


 まあ、閑話休題。

 ボクは、料理をすることはあまり好きではないのだけど……。


「料理か…今日はどうして?」

「だって折角の日曜日ですよ! たまには一緒に、兄さまと仲睦まじく共同作業をしたいのですっ!」

「あぁ、まあそれは良いんだけど……料理か」

「……あら? 何か不都合でも?」


 ボクは首を振る。

 今は特段、そういうことは無い。

 …過去にはあった。



「……いや、何でもないよ」



 態々言う必要もなく、ボクは誤魔化した。

 ひかりも、彼女の反応を見る限りは覚えていないだろう。


 それでいい。


「で、何を作るの?」

「キッチンに来れば、すぐに分かりますよ」


 既に材料は準備してあるみたいだ。

 自然な流れでひかりに手を繋がれて、キッチンに行った。


 ―――ホント、気が付いたらこういうことしてる。


 最高にご機嫌なステップでキッチンに入ったひかりは、冷蔵庫の中から銀色のバットを取り出して僕の目の前に差し出した。見ると、色々な食材が一挙に載せられている。


「じゃーん、ですっ!」

「…なにこれ?」


 きっと詳しい人ならこれだけで解るのだろう。

 しかし残念ながら、僕はそうではなかった。


「兄さま、お分かりにならないのですか…?」

「…ごめん、こういうのには疎くて」

「ふふっ、そんな兄さまも好きですよ」


 ……息を吐くように言ってくる。

 僕ばかり照れくさく感じて、とても不公平に思う。


「ヒントは、”お菓子”ですよ」

「へ、へぇ…」


 ヒントでジャンルを絞ってくれるのは嬉しい。これで選択肢が大幅に減って、無数のお菓子の中から答えを選ぶことが出来るようになった。


 だけどまだ分からない。

 バットの中身を見ると、バターと粉類が目に留まった。

 この際不正解でもいいから、何か言ってみようか…。



「もしかして……クッキー、とか?」



 恐る恐る、答えを言う。

 ひかりの顔から色が抜けたような気がして、僕は身構える。


「兄さま」

「や、やっぱり違…」

「正解ですっ! 流石兄さま、頭脳明晰ですね…!」

「あー、うん。ありがとう」


 僕は内心安堵しながら、相変わらずの称賛具合に呆れて声を漏らす。

 別に不正解でも何も無かったと思うけど、まあ正解できて良かった。


 だけどそうか、クッキーか。


「ってことは、オーブンで焼くの?」

「その通りですけど、それが何か?」

「ううん、何でも」

「……そうですか」


 オーブンなら、別に火は使わないよね。

 とても熱くはなるけど、使い方を間違えない限り何も起きないはずだ。


 当然火だって、扱いを間違えなければ大丈夫なんだけど……ね。


 少し、というかとても、嫌な記憶があるものだから。

 とにかく、火は使わないようで安心した。


「兄さまはこれを混ぜてください。わたくしはオーブンの準備をしておきます」

「分かった。どれくらいやればいいかな」

「粉っぽさが無くなるまで混ぜれば大丈夫です!」


 僕は、ひかりの指示に従って材料を混ぜ合わせた。

 良い感じの滑らかさになるまで、大体10分は掛かったかな。

 慣れない動作の連続で、少し腕が痛くなってしまった。


「それでは生地を絞って、オーブンで焼きましょう」


 疲れた腕をひかりにマッサージしてもらいながら、クッキーが焼き上がるのを待つ。真っ赤に染まったオーブンの炉が少々物珍しい光景で、僕はつい目を釘付けにしてそれを眺めていた。


 赤い、赤い、とても赤い。

 あの日のように、どこまでも。

 こんな炉なんて目じゃない程に、熱かっただろう。


 ……嫌なことを思い出してしまった。


 やっぱり、火は嫌いだよ。



「焼き上がりまで、長くなりますよ。紅茶でも淹れて待ちませんか?」



 マッサージを終えてポンと僕の二の腕を叩いて、ひかりはそう言った。彼女のお陰でとても楽になって、もう筋肉痛に怯える必要は無くなったね。


 これなら、クッキーに紅茶を添えて優雅なティータイムを過ごすことだって出来るかも。


「…そうだね、そうしよう」

「うふふ、美味しいアップルティーを淹れてあげますよ♪」

「それはいいね、楽しみだよ」


 アップルティーは、紅茶の中でも僕が一番好きなフレーバーである。

 強すぎない甘みと、やっぱりリンゴの香りが好みなんだよね。

 ……まあ単純に、リンゴが好きなだけだ。


「茶葉はどこに仕舞ったでしょうか…」

「確か、こっちの棚の中だったと思う」


 記憶を頼りに、キッチン外の食器棚の上の方を探る。


 食器棚と言っても下の方に入れられているのは本ばかりで、本来ここに入れられるべき食器類は数が少ないためにキッチンの小さな収納で事足りてしまっている。


 そして、上の方にはあまり使わない物が保存されている。

 数か月前の記憶の中で、茶葉の入った緑の缶をここに仕舞っていた気がするのだけど……。


「お、あった……わっ」


 視界の端を落ちるモノ。お目当ての缶を手にしたら、別の何かが腕に当たって落ちてきてしまった。慌てて掴むとそれは平たく、指に触れた冷たいガラスの感触で、僕はそれの正体を即座に理解できた。


 それは写真立てだった。


(……暫く見ないと思ったら、こんなところに仕舞ってたんだ。写真立てなんて、見えるところに飾ってなんぼなのにさ。でも、仕方ないのかな)

「…兄さま?」


 ひかりの声で、僕は現実に帰ってくる。


「あぁ、ごめん。ボーっとしてた」

「兄さま、手に持っているそれは……あっ」

「……っ」


 どうしてか、思わず写真立てを背中に隠してしまう。

 ひかりは僕をじっと見据えて、腕をまっすぐこちらへ差し出す。


「兄さま、それをこちらに。わたくしが片づけます」

「いや、これは…」


 彼女にはとても似つかわしくない、底冷えするような甘く優しい声で囁き掛けてくる。


「大丈夫ですよ。しっかり保管しておきますから」


 ずんずんと寄ってきて、手の中の写真立てに指を掛ける。しっかりと握っていた筈なのに、彼女に引かれた写真立ては滑るように僕の指の隙間を抜けて、結果強引に奪い取られてしまった。


 写真立てをポケットにしまうと彼女の雰囲気は元に戻り、またニコニコと可愛らしい表情を浮かべる。


「茶葉も見つかったようですね。では、わたくしはを仕舞ってきますので、ほんの少しだけ待っていてくださいね?」


 茶葉の缶も手に取って、ひかりは行ってしまった。

 僕は呆然としたまま、後姿を眺めていた。


 冷たいガラスの裏側の、赤くて熱いあの記憶。


 脳裏に残った写真の向こうの、忘れがたい景色が動き出す。



「―――ごめんね、ひかり」



 誰にも聞こえない謝罪に、15時を報せる時計の音が応えた。

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