第八十節 世界は壊れた鏡のように

 ―――砕けた結晶の雨が降る。


 中心にあったコアを破壊した瞬間、ミラーセルの身体が花火のように弾け始めて、ガラスの欠片が吹雪となって周囲を漂い始める。行き場を失ってきらめいてしまった透明な哀しみはそれ単体で美しく、もう何かの光を跳ね返して姿を真似る必要などなかった。


 美しいのは良いとして、飛び交っているのは鋭いガラス。僕はぎょっとして身構え、無作為に取り出した星座図鑑を頭上に構えて、せめて動脈だけは守ろうと屈んで体を小さくした。


 縮こまった体勢のまま、僕は吹雪が過ぎるのを待つ。


「……ん?」


 しかしどれだけ時が過ぎても、破片が刺さるどころか勢いよく当たってくる様子もない。あるのはほんの少し、砂のようなものが背中を撫でていく感触だけ。


 まさか…何もない?


 僕は恐る恐る、右手をゆっくりと天に掲げて、伸ばした手に周囲を飛び交うガラスが当たる瞬間を待つ。


「あっ…!」


 一つ当たった。

 でも痛くない。


 破片は僕の手に当たった瞬間にボロボロに崩れ落ちて、サラサラと指の隙間を流れていった。もう一つ、今度は掴もうとしても同様に指先から逃れていく。


「……もう、結晶を維持することも出来ないってことか」

 

 セルリアンが消える瞬間、それを普段より鮮明に体験してやや神妙な心情を抱えつつ、危険がないと分かった僕は立ち上がる。目元を覆って砂が目に入らないようにだけ気を付けて、キュウビのいる方へと歩いていく。


 ……さて。


 これでキュウビは、クオに戻るのだろうか?


「キュウビ、調はどう?」

「今のところは……いえ、少し眠くなって来たかしら。もしかすると、私の意識が眠りに就き始めている兆候かもしれないわね」

「じゃあ、効果はありそうかな」


 まだ確信は出来ない。

 でも、多分大丈夫な気がする。


「そうね。ならその前に、言うべきことは言わないと」

「…言うべきこと、って?」


 尋ね返すと、キュウビは彼女の言う通り眠たげな、憂いを帯びたような瞳をこちらに向ける。紡がれた言葉はそれまでの高飛車で威厳のある声色ではなく、むしろ懇願するような、春を過ぎた頃の雪のように曖昧で潤んだ儚さを含んでいた。


 僕を見上げて、彼女は言う。


「もう一度、私を方法を見つけて欲しいの。肝心の方法は……あそこに落ちているとか、良い線行くんじゃないかしら」

「……本?」

「ほら、さっきまでミラーセルのいた場所よ」


 言われて振り返ると、確かにそこには落ちていた。

 僕はそこへ歩み寄って、意外と大きなそれを両手で抱え上げる。


「本当だ、本が落ちてる」

「…洒落のつもりかしら」

「違うよ、気にしないで」


 勝手に掛かったダジャレは置いといて、パラパラとめくって中身を確かめてみる。


「…ミラーセルが落としたのかな」

「十中八九、そうに違いないでしょうね」


 中には数十枚もの絵と、裏表紙の裏に貼り付けられた六角形の鏡。絵は全て星空を模したような画調をしており、ところどころに星座図鑑で見かけたような絵と星の図が描かれている。


 ぼんやりと霞んだ意識でそれを眺めていた僕は、無意識のうちに言葉を呟いていた。


「―――『ウラニアの鏡』」

「…何か言った?」

「名前だよ、この本の名前」


 尋ねられて、反射的にそう返す。

 どうしてか直感で、心の底から確信していた。


「早いわね、もう付けたの?」

「ううん、そうじゃなくて……この本が、そう言ってる気がした」


 果たして声が聞こえたのかも分からない。

 だけど気が付いたら、その名前が頭の真ん中を占めていて、この本をそう呼ばなくてはいけない衝動に駆られていた。



 ―――鏡を見つめた瞬間に。



「……霊的な力の籠った書籍かしら。時折、自らの思念が周囲の人間に影響を及ぼすくらい強い力を宿した物品が現れることがあるの。もしもその輝きを奪って生まれたのがミラーセルだとしたら、あの強さにも納得ね」


 ミラーセル。


 鏡。


 『ウラニアの鏡』…。


 これもセルリアンに力を与えていた石板と同様に、何か不思議な輝きを宿しているのだろうか。だとしたら、もしかして、『同調』で……。


「…あっ!?」


 …と。

 キュウビの叫び声で、思考が止められてしまった。

 何かあったのかなと、僕は彼女の方を見る。


「思い出したわ。そういえば、この迷宮をいじくり回してるフレンズもいたわね。私はこれきり眠ってしまいそうだから、貴方がキチンと始末を付けておくのよ」


 そういえば、当初の目的はそうだったね。ミラーセルに意識を割いていて、この迷宮の不思議なことも忘れてしまっていた。そうするとまだ迷宮の中に、ミラーセルよりも強い誰かが居るかもしれないということか。


 ……クオは喜ぶかもね。

 謎が尽きなさそうでさ。


「それと、私の存在は隠しておくこと」


 まあ、隠してほしいならそれでいいか。


「あぁ。あと、最後に」

「……うん?」


 キュウビは胸に手を当てて、僕を正面より見つめて言う。


クオこの子のこと、大切にしてあげなさいね」

「…うん」

「くれぐれも、置いて逝くなんてこと絶対にしちゃダメよ?」

「……当たり前だよ」


 何があったって、見捨てるものか。


「そう。その答えを聞けたから、今はそれで満足よ」


 キュウビはそう呟いて、憑き物が落ちたように頬を緩めて、近くの床に腰掛けて壁に背中を預けた。いつ眠ってしまっても、崩れ落ちてクオの身体を傷つけてしまわないように。


「じゃあおやすみ。また起こしてね……」

「……おやすみ、また」


 キュウビは瞼を閉じた。

 すると、彼女から感じていた強い霊気が薄れていく。


 その反対に彼女の髪の毛の色は鮮やかに濃くなっていって、数十秒としないうちに、いつもの見慣れた橙色のクオに変化した。


 それを見て、漸く安心して、僕は床に座り込む。


 たった数時間。きっと半日も経っていない。

 なのにクオの姿がとても懐かしく、数割増しで愛おしく見えてしまって、手が自然と彼女の頭を撫でていた。


「おかえり、クオ」


 まだ眠る彼女に、僕はそう声を掛けた。




§




「ん……」

「あ、起きた。おはようクオ」

「ぇ…ソウジュ…?」


 クオが目を覚ましたのは、あれから暫く経った後だった。隣に座って星座図鑑を読みながら待っていた僕は、彼女の呻き声が聞こえる度に本を閉じ、落胆してまた本を読み始めるということを何度か繰り返していた。


 しかし、とうとうである。


「うーん……あれ、クオ何してたんだっけ」

「あはは、忘れちゃった?」


 ようやく起きたクオは大きく身体を伸ばして、ぼんやりと涙に滲んだ目元を手でこする。僕が尋ねると、クオは記憶を思い出そうとして首を傾げた。


「んー…?」

「迷宮に入って、鏡みたいなセルリアンに追い回されて、それで―――」

「―――あっ!?」

「っとと、心配しないで。半分はもう済んだことだから」

 

 突然立ち上がろうとした彼女を引き留める。

 静寂とした周囲の様子を見るよう促し、落ち着くように宥める。


 クオはキョトンと目を丸くして、言った。


「…ソウジュが、助けてくれたの?」

「まあ、そういうことになるかな」


 事実はもう少し複雑だけど、話すことはできない。キュウビにも、彼女の存在は隠しておくようにお願いされている。


 だから、全て僕がやったことにする。


 彼女の手柄を取ってしまう形にはなるけど、まあ致し方ないだろう。


「えへへ、ありがとねっ」

「どういたしまして。無事でよかったよ」


 キュウビの件然り、完全にとは言い難いけど、それでも僕の知るクオは何事もなく帰ってきてくれた。


 今は、その事実だけでとても嬉しい。


 その他のことはこれから、まずはこの迷宮を脱出してから考えよう。


「クオ、立てる?」

「多分、出来る……ってわあっ!?」

「…ほら、捕まって」

「あ、ありがとう…」


 よろめいたクオに手を差し伸べる。


 最終的には肩まで貸して、ようやく歩くことが出来そうだ。


 これはミラーセルの影響か、はたまたキュウビの術の反動が響いているのか。

 どちらにせよ、今のクオに自分で歩かせるのは酷なことだと思った。


「歩くのは難しそうだね、僕が負ぶっていくよ」

「…ふぇ!?」


 僕はクオを背中に乗せようとする。突然のことに驚いてクオはちょっと飛び退こうとしたけど、最後には納得して頷いてくれた。


「お、重くない…?」

「クオの体重くらいなら平気だよ。色々あって大変だろうし、辛いなら無理して歩くよりも僕を頼って欲しいな」


 コクリ。

 若干申し訳なさそうな表情をして、クオは静かに頷いた。


「よいしょ…っと!」


 僕は屈んで、クオを背中に負ぶさった。

 こうしてみても、やっぱり軽いね。


「クオ、乗り心地はどう?」

「ちょっと、恥ずかしい…」

「あはは、そっか」


 それはお互い様だね。自分から提案しておきながら、僕も内心ではドキドキしている。こんな風な形で彼女と密着するのが、初めてかは分からないけど珍しいから。


 だから、しっかり堪能しないとね。

 何をとは言わないけれど。


「じゃあ、行くよ」




§




 クオを背負って迷宮の出口を目指す道中。


 いつか目にした大群を成したセルリアンが、階段の下の方でたむろっているところに出くわした。


「あ、セルリアンがいっぱい」

「音沙汰がないと思ったら、こんな所に大群が…」

「ソウジュ、どうする?」

「任せて、僕に考えがある」


 クオを階段に座らせて、僕は虚空間から一枚の石板を取り出す。


「少し前の僕たちなら、打つ手なしだったかもしれないけどね」


 今では違う。



星質同調プラズム・シンパサイズEridanusエリダヌス!』



 光が僕の身体を包み、服装が流れる水のような流線型のローブに変化した。


 今回『同調』に使ったのはエリダヌス座の石板。これは川の名前がついた星座で、石板を落としたセルリアンと僕たちはサンカイで戦っている。


 ……まあ、途中で水蛇座に共食いされて消えてしまったから、本当に「戦った」と言えるかどうかはちょっと怪しいけど、エリダヌス座の力が僕たちをそれなりに苦しめたことも事実。


 今度の戦いでも、きっと大いに役に立ってくれるに違いない。


「ソウジュ、それは…?」

「新しい力だよ。クオを助けるために手に入れたんだ」

「えっ……も、もうっ!」

「ふふっ」


 照れちゃうクオも可愛いなぁ。


「じゃあ、少し下がっててね」

「な、何するの?」

「簡単な話さ。セルリアンは下の階層なんだから、水に沈めればいいんだよ」

「…そっか!」


 ね、簡単でしょ?


「よーし、流すよ~」

「やっちゃえー!」


 階下に向けて手をかざし、力を込める。すると手の平から恐ろしい量の水が現れて、階段を流れて下の階層を水に沈めていく。


 一秒、一分、時間が流れてゆけばゆくほど、流れる水の音は小さくなっていく。ついに階層の全域を水が浸してしまって、もうこれ以上は水かさが増えていくだけだ。


 しかし、エリダヌス座の力を使い切って。

 水の放出が止まった頃に、僕は異変に気づいた。



「あれ? 水が抜けていく…」



 何かして抜いているわけでもないのに、水が勝手に引いていく。


 セルリアンは大方沈めて倒せたから別にいいけど、理由が分からないのは不思議だ。現在も、ものすごい勢いで水位が下がっていって、こうして悠長に眺めているうちに全てなくなってしまった。


 僕が首をひねっていると、横でクオが言った。


「下の階段に流れちゃった~…とか?」

「それにしては、水捌けが良すぎる気がするんだ…」


 階段はあって一つ。

 その程度の隙間から流れていくには、流すべき水量があまりにも多い。


 この現象には明らかに、何か別の原因が存在している気がしてならない……。



 その原因を確かめるために、僕たちも階段を降りて問題の階層に足を踏み入れる。



「…ん?」

「あっ」


 だけど、階段を降り切って床に足をつけた瞬間―――地面が消失した。


「ゆ、床も抜けるのっ!?」


 あまりのことに驚くけれど、そんな暇はない。

 足場を失くした僕たちは、真っ逆さまに穴へと落ちていく。


「うわぁ~っ!!」

「クオ、手を放さないでっ!」


 絶対に離れ離れにならないように彼女を強く抱き寄せる。思ったよりも長い穴の中を落ちていきながら、いつでも妖術を使えるように喉元に力を込めておく。


(地面にぶつかる直前で、『言霊』でなんとかするしか…!)


 やがて見えてきた終着点。

 決して声を失ってしまわないよう、僕は大きく息を吸う。


 そして吐き出す、その瞬間……。


「『和ら…げ……?」


 ―――僕たちの落ちる勢いは、ひとりでに弱まって消えてしまった。二人分の身体はボフッと、ソファの上に落としたクッションのように、とても柔らかく着地した。


 目まぐるしい状況の変化に戸惑って、僕たちは顔を見合わせる。


「…クオたち、無事なの?」

「ああ、理由は分からないけど、そうみたいだ」


 周囲を見回して、この場所の出口を探す僕たち。

 そこへ、コツコツと近づいてくる足音。


 音の主の姿が見えるや否や、の刺々しい声が耳を刺した。



「…君らやね? ウチの迷宮で好き勝手暴れてたのは」



 ……割と、内容も耳に痛かった。



「あ、暴れてたというか…まあ…」

「ふーん…? ま、始末はキッチリ付けてもらうから。ほら、正座」

「せ、星座…?」


 一瞬、この人は何を言っているのだろうと思った。

 まあ、普通に勘違いだった。


って言ってるの! ほら、ウチにしばき倒されたいの?」

「す、座りますっ!」


 しばかれるのは嫌だ。

 どうせならクオにされたい。


(クオ、ここは大人しく…)

(そ、そうだね…)


 僕たちは揃って、大人しく正座をして彼女を見上げる。

 それを見てニヤニヤと、少女は嗜虐的な笑みを浮かべた。


「さぁて、じっくり話を聞こうやないの」


 ゴクリと、僕たちは息を呑む。


 ミラーセルを倒して、長閑な雰囲気から一転。

 床の穴から奥深くに落ちてきた僕たちは、迷宮の管理者らしきフレンズに捕らえられてしまったのだった。

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