第七十二節 きつね色の…

「よいしょ、っと……」


 浅い水たまりを飛び越して、柔らかい泥濘ぬかるみに足を沈める。昨晩から途切れ途切れに降り続いた雨の名残が、そこらの枝葉から滴り落ちている。

 雲の隙間に目を細めれば、朝焼けは群青色。湿気を含んだ冷たい風が、驚かすように頬を撫でていく。


 ドアをノックして、オオアリクイが出てくるのを待つ。


「おぉ、来たか。今日は早いな?」

「…クオに言って」

「ハハハ、中で顔を洗うといい。目が覚めるはずだぞ」


 頬を叩いて意識を保ち、僕は頷く。


「クオ、入るよ…」

「はーい!」


 早朝にも関わらずクオは元気だ。

 夜行性など知ったことかという強い気概を感じる。


「オオアリクイのお料理、楽しみだね!」

「そうだね」

「…ソウジュ、眠いの?」

「さあね。立ったまま眠れそうなくらいには元気だよ」


 回らない頭で絞り出した軽口への返答は、限りない沈黙だった。


 まあ仕方ないか。

 ちょっぴり…ショックだけどね。


「……顔、洗ってくるね」

「うん、行ってらっしゃい」


 洗面所に行き、冷たい水でサッと顔を洗うと、さっきまでの朦朧具合が嘘のようにパッチリと目が冴えてしまった。

 なるほど、冷水って眠気覚ましに効果的なんだね。


 僕は毎日ぬるま湯で顔を洗ってきたけど、冷たい水で顔を洗うのは刺激が強すぎる気がするから……普段の洗顔は、これまで通りぬるま湯を使おう。



 ―――やっぱりさ、暖かいって正義なんだよな。



「うむ、洗ってきたか」

「ありがとう、とってもスッキリしたよ」

「ふふふ、そうだろう。やはりお前は、それくらいシャキっとした顔の方が似合っているぞ」

「そう…?」


 そんな風には言われたけれど、近くに鏡が無いからよく分からない。

 とりあえず、近くにいたクオに聞いてみることにした。


「僕の顔、シャキっとしてる?」

「うん、カッコイイよ!」

「……そっか」


 ――冷たい水で洗うのも、案外アリなのかもしれない。



「おはようございますっ!」

「お、おはよう…ですぅ」


 しばらく時間を潰していると、イエイヌとヒメアリクイが姿を見せた。

 並び立って買い物袋を抱えていた二人は、デザートに使うフルーツをマーケットから持ってきたらしい。


 テーブルに袋を乗せれば、鮮やかな色が次々と転がり出ていく。


 そのうちの一つを手に取って、オオアリクイは満面の笑みを浮かべた。


「新鮮で良い果物だ。二人とも、ありがとう」

「えへへ、どういたしましてですぅ」

「他にもお仕事があったら、何でも頼んでくださいね!」

「なら、そうだな……」


 オオアリクイは二人を肩を抱き寄せ、耳元でこっそりと何かを囁いた。

 秘密のお仕事、みたいなものかな。

 二人は彼女の言葉を聞いて、一緒に元気よくうなずいた。


「お安い御用です、任せてくださいっ!」

「ひ、ヒメも、ですよね…?」

「ああ、期待してるぞ」


 ポンポンと、髪の毛のトランポリンで手が跳ねる。

 ヒメアリクイは柔らかくはにかんで、イエイヌと一緒に奥の部屋へと姿を消した。


 …さて。


 のんびりしていられる時間も、そろそろ終わりだろうか。


「僕たちも、何か手伝えない?」


 しかし意気揚々と尋ねるも、オオアリクイは首を横に振った。


「頼みたいのは山々なんだが……実は、他にもう仕事がないんだ。だから、二人は椅子にでも座ってゆっくりしていてくれ」

「…そっか」


 なんか拍子抜け。

 そしてもどかしい。


「ソウジュには、昨日に遭わせてしまったからな。その分だと思って、申し訳なく感じる必要はないぞ」

「そうそう、ソウジュ、がんばったっ!」

「…じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 僕は、ゆったりと椅子に腰かけた。

 背中を背もたれにくっつけ、押し出されるように息を吐く。


 こうして背もたれに体重を預けると、妙な安心感を覚える時がある。言葉など要らず、その存在だけで僕のことを受け入れてくれるような、体ごと全てを包み込まれるような感じだ。


 そんな椅子の暖かさに触れていたら、冷水で追いやっていた眠気の塊が僕の手元まで舞い戻ってきた。それを強く握りしめて砕くと、破片が手に突き刺さって麻酔のように僕の意識を拭い去っていくのだ。


 そして次に、窓を貫く太陽の光に目蓋をこじ開けられるまで、僕は心地よい微睡みの中でうたた寝をしていた。


「んっ…」

「あ、起きた」

「…あぁ。おはよう、クオ」


 顔を傾けると、じっとこちらを見つめていたクオと目が合う。


 もしかして、ずっと寝顔を見られてたのかな…。


 一抹の恥ずかしさに僕は顔を固め、クオも同じように浮かない顔をしていた。何と声を掛けようか迷っていると、先にクオが口を開いた。


「ごめんね、ソウジュ」

「えっ、何が?」

「朝、眠かったのに、無理に起こしちゃって」


 何かと思えば、そんなことか。


「気にしないよ。代わりに、ついさっきまで眠れてたし」


 朝になれば起きるし、クオが起こせば起きる。

 それこそ、起きた時に置いてかれていたら寂しくなるもの。

 この旅を始めた時からずっと、僕はクオに付いていく所存だ。


 ……でも、若干機嫌が悪くなっちゃうのは、ご愛嬌ってことでね?


「クオも気にしないで、ほら、笑って?」

「…えへへっ」


 口角を横向きに伸ばして、にんまりとクオは笑った。


 よし、これでこの話も終わりだね!


 僕は椅子から立ち上がり、軽く屈伸を重ねて身体に血流を取り戻す。

 そろそろ何かがある予感がして、そしてその通りに、オオアリクイが仕事を携えて現れた。


「起きたばかりで申し訳ないが、仕事だ。キッチンに来てくれないか?」

「分かった。行こう、クオ」

「うんっ!」


 僕とクオはワクワクを胸に、キッチンに足を踏み入れた。




§




「二人には、を茹でてもらいたい」

「…この袋に入ってるの?」

「ああ、お湯はそこで沸かしてある」


 オオアリクイが指さした先には、グツグツと音を立てて沸騰している大鍋。火と泡と音の大きさに僕は戦々恐々としながら、たった今受け取った袋の方へと意識が向く。


「中、見てもいい?」

「もちろん。遅かれ早かれのことだ」


 袋の端に指を挟んで、ビニール製のチャックを開く。


「クオにも見せてっ!」


 横入りしてきたクオにも見える様にと、僕は袋の口を彼女の方に傾けながら自身もその中身を覗き込んだ。


「はい、こんな感じだよ」

「おぉ~、なにこれ~」


 感心した様子で、何も分かっていない。

 かくいう僕も、コレの正体に皆目見当がついていない。


「オオアリクイ、教えて?」

「いいや、完成してからのお楽しみだ」

「えー、けち」


 ……正直な一言だ。

 この言い草にはカチンとくる所があったようで、不敵な微笑を浮かべながら、オオアリクイは揶揄うように言い返してきた。


「そんなことを言っていると、クオの分はナシにしてしまおうかな」

「ごめんなさい…」

(…負けるの早いなぁ)


 食べ物への欲求は、好奇心よりも強かった。

 つまり、そういうこと。


「さあさあ、立ち話もここまでだ。他の食材はもうすぐ出来上がるから、遅れないように茹で上げてくれよ」

「ど、どれくらい茹でればいいの…?」

「安心しろ、タイマーはラッキービーストに頼んである」


『任せテ。完璧な茹で時間ヲ測定するヨ』


 タイミングよく、野菜を詰めた木箱の陰から現れたラッキービースト。


「…頼もしい」


 彼が持つ大いなる文明キッチンタイマーの力を借りることで、謎の物体を茹でるお仕事は鍋をかき混ぜながら時間を待つだけの作業と化した。

 茹で終わった何かはオオアリクイに手早く回収され、食堂に戻された僕たちはもう完成品が出てくるのを待つだけ。


(そういえば、あの二人の仕事ってどんなのだったんだろう…)


 ありがたき巡り合わせかな。

 ふと頭に浮かんだそんな疑問は、すぐに解消されるのだった。


「こ、これで…いいんですかぁ…?」

「よく似合ってますよ、ヒメアリクイさんっ!」

「イエイヌさんこそ、素敵ですぅ…」


 和やかに談笑しながら階段を下りてきた二人。

 何やら見慣れない服を着ているけど、これは…?


「カフェの制服、らしいです! オオアリクイさんが、これでお皿運びをしてほしいとのことだったので!」


 あぁ、お仕事ってそういう。

 ……だけど、オオアリクイも結構いい趣味してるじゃん。


 クオが着ても似合いそうだなぁ……。


「良いだろう? 常々、良く似合うのではないかと思っていたんだ」

「確かにいいけど…これじゃ、僕たちがお客さんみたいだね」

「ハハハ、”みたい”も何も、その通りじゃないか」


 この服装だと、メイド喫茶ってところかな。


 もしも本当にフレンズの従業員がいる喫茶店がオープンしたら、場合によっては物凄く繁盛しそうだけど……人気になりすぎて、色々と大変そうだね。


「…おっと、そうだ。ついに料理が完成したぞ! 二人とも、さっそくお皿……いや、どんぶりをここに運んできてくれ」


 その合図から数十秒後。

 目の前のテーブルに、四人前のどんぶりが置かれた。

 得意げに腕を組んで、オオアリクイは言った。


「名付けて『きつねラーメン』。よく味わって食べてくれ」


 立ち上る美味しそうな香りの湯気に、僕は息を呑む。


 見るからに濃厚そうな、味噌風のスープ。

 表面を覆う、もやしを筆頭とした大量の野菜。

 スープの中から顔を出す、つやつやと光る麺。


 そして何より目を引くのが、短冊状に刻んで散りばめられ、そしてどんぶりの中央に鎮座するかのように乗せられた……油揚げだった。


 ラーメンに油揚げって、合うのかな…?


「ん~、おいし~!」


 僕がラーメンを観察している間に、先にクオが手をつけてしまった。

 …でもまあ、けっこう好評な感じ?


 見れば、イエイヌとヒメアリクイも夢中になって食べている。


「…えっと、いただきます」


 箸を手に、野菜の山を崩さないように苦心しながら、てっぺんの大きな油揚げを口元に運ぶ。そして一思いにかじり取ると、味噌の風味をふんだんに含んだ甘辛いスープの味が口の中いっぱいに広がった。


 あ、意外と合うかも。

 甘くて辛くて、いい感じ。


 なるほど、だから味噌なんだ。

 じゅるじゅる。

 

 油揚げとの相性を考えて、他のフレーバーにはしなかった、と。

 もぐもぐ。


 しばらく無心で食べ続け、食堂には麺やスープを啜る音だけが響く。

 

 気が付けばオオアリクイもテーブルに着いて、一緒にラーメンを食べていた。


「……ごちそうさま~!」


 スープまで綺麗に飲み干して、上機嫌なクオの尻尾は揺れていた。

 僕にも尻尾があったらあんな風になっていたのかなと、敢えて最後に残しておいた油揚げの最後の一片を口に入れて、僕も完食した。


 感想は、他に無いから一言。


 とっても美味しかった。




§




「気が向いたら、またいつでも食べに来てくれよ」

「うん、今日はありがとう」

「また来るねっ!」


 天頂に昇ったお日様に向かって背を伸ばして、清々しい様子で声を出したオオアリクイ。


「これで、キッチンも通常営業に戻れるな…!」

「…そういえば、そんな話だったっけ」


 アイデアを形にするまで他の料理作りに手をつけられないなんて、難儀な職人気質を抱えてしまったものだなあと、傍目ながらに僕は思った。


 ところでこのキッチン。

 出せる料理の種類って、どれくらいあるんだろう?


「もちろん、メニューは沢山あるぞ。カントーにいる間に食べきれると良いな?」

「全部食べるよ、覚悟しといてねっ!」

「……あはは」


 相変わらずの食い意地だ。

 ジャパリパークにまともな通貨が流通してなくて良かった。

 もしお金があったとしたら、食費に幾ら飛んで行くことやら。


 まあ、もしも仮にそうなったとすれば、その責任の一端は僕たちにこのキッチンを紹介したイエイヌにも存在することになるだろう。


 ニコニコとご満悦な様子で、イエイヌは僕に言った。


「ソウジュさん。私の言った通り、美味しかったでしょう?」

「そうだね。随分な回り道をさせられちゃったけど」

「確認不足でしたね、すみません…」


 それもこれも後の祭り、もう気にしたって仕方ない。

 結果オーライって感じで、水に流そう。


「お二人は、これからどうされるんですか?」

「…それがさ、決まってないんだよね」

「クオは、ヒグマのとこ行くよー?」

「あぁ、そんな話もあったっけ」


 やっぱり戦うつもりかな。

 …ケガだけはしないように、注意しておかなきゃ。


「でもでも、その後のプランはないんですよね!? でしたら私が、探検ができるとても面白い場所をご紹介しますよ!」


 ふむ、トラブルの気配がする。

 水に流すと言ったばかりだけど、前例があったからね。


 それでも一応、話だけは聞いておく。


 イエイヌはとても上機嫌に話を続けた。


「ふっふっふっ……聞いて驚かないでくださいね。なんとそこは…、なんですっ!」

「…へぇ」

「迷宮…!」


 この時の僕は、ロマンに溢れる話を聞いて、星のように目を輝かせたクオのことをただ微笑ましく眺めていただけだった。


 でも、後になって思う。

 この迷宮の話こそが、一つのターニングポイントだったのだと。


 袋小路への分かれ道に、その入り口に、僕は爪先を載せていたのだ。

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