第五十五節 狩り人の夢は遠く


「リカオン」


 オアシスから帰還したリカオンをいの一番に迎えたのは、彼女の名前を呼ぶキンシコウの声であった。

 リカオンは指で耳朶を挟み、間が悪そうに目を伏せながら振り返る。


 キンシコウは息を切らして駆け寄ってきて……思わず一歩、距離を空けてしまう。


は、終わったみたいですね」


 穏やかな声色。

 しかし微かに震えて、不安混じりだった。


「……キンシコウさんには、関係ないと思います」

「ごめんなさい。私、どうしてもあなたと話しておきたくて」

「…謝らなくて、いいです」


 ”秘密のオアシス”を、この数か月の夢を現にして、類のない有頂天を手にしていた筈の心地は、”キンシコウ”という負い目を目の前にして泥濘に沈みゆく。


 或いはそれは、自然の成り行きだったのかもしれない。

 リカオンが、”ミステリーハンター”などという性に合わない職業に手を出した所以を省みてみれば。


「一杯、飲みに行きませんか」


 キンシコウが手を出す。

 リカオンは躊躇う。

 一度払った左手故に。


「パークにお酒はありませんけど、静かに話すには丁度良い場所だと思います」

「……はい」


 これが転機と考えた。

 ハリボテとは言え掲げ続けてきた目標を成し遂げた今こそ、あるべき場所に戻る決意をする時なのだと。


 肝心の決意をすることなく、時節の有難さだけを反復し、キンシコウの後ろ姿を追うリカオンなのだった。

 


 転じて。



 かつてソウジュたちと談話を交わした酒場。

 此度こそずっと求めていた相手を連れ、キンシコウは一番のお気に入りを注文する。


「はい、どうぞ」

「…ありがとうございます」


 カウンターを滑るカップの音、紫色の甘さを喉に流し込む音。

 リカオンの普段の味覚からすれば濃すぎるが、緊張に痺れた味蕾にはむしろ心地いい塩梅の甘味。


 カン、と軽く、響く透明。

 渇きを潤す横顔を眺める、藍の溶け出した瞳であった。


「最近はどう? 元気にしてました?」

「…なんですか、その入り?」

「重くない世間話は大事ですよ? それに、サンカイに来てからのこと、私も色々話したいから」


 先延ばしになった安堵は、来るべき瞬間までの真綿。


 じわじわと引き絞り、リカオンの呼吸を乱していく。


 更にその上に圧し掛かる不運は、この行いがキンシコウの優しさであること。苦悩の袋小路に迷い込み始めた瞬間を、リカオンは言われるまでもなく自覚している。


 毛色の違う黙秘に気掛かりなキンシコウ。

 リカオンはやんわりとそれが杞憂であると断じ、キンシコウの望み通り世間話に花を咲かせた。


 キンシコウからは、カントーで流行っていた遊びや、片付けられなかったヒグマの部屋の末路、使われていない建物を使って最近に造られた迷宮のアトラクションの話。


 リカオンからも、市場で特に美味しい屋台とか、サンカイで暮らしてみて感じた不便だったりとか、本当に当たり障りのないお話。


 話していなかった分だけ、溢れるように話題が出てくる。

 されどそれでもは枯れ、互いに終わりを感じ取る。


「そろそろ、かな」


 キンシコウは、抜けた髪の毛を指で弾く。


「リカオン。私たちの所に、戻ってくるつもりはないのですか?」

「…そんなこと、出来ません」


 予想通りと謂ったところか。

 芳しくない返答に狼狽えることもなく、説得は続く。


 みんな、戻ってくることを願っていると。

 これから何度だって、やり直すことが出来るのだと。

 強くなるために、キンシコウも助力を惜しまないと。


 だがリカオンは首を横に振る。


 幾つも重なる”許し”はむしろ、自己嫌悪に陥った彼女への重圧となる。


 キンシコウが優しさを向けるほど、手を伸ばしてリカオンを救い上げようとするほど、彼女の足場は奈落へと沈みこんでゆくのだ。


 届かない空に手を伸ばせるだけの気力は、とうに失せている。


 もしも奇跡がラッキービーストを甦らせたとしても、彼を守るために彼女は、セルリアンから逃げることを選択するのだろう。


「私には、無理です」

「待って、リカオン…ッ!」

「――ごめんなさい」


 もう、ハンターには戻れない。


 ドアベルだけが鳴り。

 生ぬるい風が吹く。


「よっ」

「…どうして」


 窓から死角となる陰で、タレスが待ち伏せていた。

 驚くリカオンには構うことなく、馴れ馴れしく肩を叩いて言う。


「どうせお願い蹴っ飛ばしてきたんでしょ。だったら、この後暇よね?」

「……」


 呆然としたまま返事も出来ない。

 その反応を肯定と捉えたのか、タレスは続ける。


「アタシたちが出会った場所に来なさい。アンタがもし、『もっと強くなりたい』と思うならね」


 反応を確かめるように笑い、風のように去ってゆく。


「……私が、強くなれる?」


 取り憑いて捨てられない希望に導かれるまま、記憶の中の廃墟に向けて吸い寄せられる。




§




「ふふっ、アタシの予想通りね」


 せり出した屋根の上から声がする。

 そこにいるのは勿論タレス。


「さっき言ってたこと、本当なんですか」

「アタシ嘘なんてつかないわ。みっちりと鍛え上げて、その辺の有象無象なんて目じゃないくらい強くしてあげる」


 確信に満ちた返答は、非常に好ましいものだった。

 すっかりと乗り気になってしまったリカオンだが、タレスは険しい顔をして最後の釘を刺す。


「ただし、死ぬほどキツイから覚悟してよね?」

「分かってます。それでも、もう後悔したくないんです」

「それは別の問題な気がしなくもないけど……ま、いいわ」


 長年生きてきた経験から、力の強さが必ずしも後悔を未然に防ぐものではないとタレスは知っている。


 しかし力に夢を見ることも、また初々しさ。


(挫折は経験済みだけど、見たところ性根も曲がってなさそうだし、鍛える間に心構えも自ずとついてくるでしょ)


 むしろ彼女はリカオンに肯定的な印象を抱いていた。

 純粋な想いは、適切なガイドを添えてやればそうそう道を踏み外しはしない。



「そんじゃ、さっさと始めましょうか」


 面倒事が嫌いなタレス。

 彼女は最も手っ取り早い特訓の方法を知っている。

 だから、尻尾の毒針をリカオンの胸に突き刺した。


「…うっ!?」

「うふふ、さっさと倒れちゃダメよ?」


 驚愕と焦燥と倦怠が三つ巴になってリカオンの身体に集まり、吐いた息にすら毒が混じっているかのような錯覚。

 髪の毛の端から指先まで均一な痺れが襲い、唯一許された行動は疑問の言葉を吐くことだけ。


「こ、これは……?」

「身体に凄まじい負荷を掛ける猛毒。これを克服してアタシに一撃食らわせられたら、アンタを一人前と認めてあげるわ」


 戦闘の構えを取って、クイクイっと挑発的に手招く。

 朦朧な視界にも美しい、完璧な型だ。


「最初だしちょっとは手加減してあげる。かかって来なさい、動けるならね」


 言葉でも煽り立てるタレス。

 普段なら反感の一つもあろうものだが、今回ばかりはそうもいかない。


(全身が重い……頭も、自分のものじゃないみたい)


 終わりの見えない苦痛の中、せめて掴みかかろうと腕を伸ばす。

 必死に目指して手を握っても、掴むのは空で距離が分からない。


 目標は遠く、雲の上。


 そう理解したのを最後に、繋ぎ止めていた意識を手放した。


「……ま、最初にしてはよく持った方ね。見込み違いじゃなさそうで安心したわ」


 気を失ったリカオンはそっと日陰に寝そべらせ、また胸に針を刺して治癒効果のある毒液を注ぎ込む。

 

 およそ一時間後に、彼女は目を覚ました。


「うぅ、ここは…?」

「起きたわね。まずはこれを飲みなさい」

「あ、ありがとうございます…」


 目覚めを待つ間に取ってきたスポーツドリンク。

 脱水症状を案じ、急ぎで調達してきたという経緯がある。


 リカオンはリカオンで、意識を失う前の記憶を――毒に負けてしまったことを――思い出し、タレスの期待を裏切ってしまったのではないかとの罪悪感に襲われる。


 故に継ぐ句は、弱い声。


「ごめんなさい、折角手伝ってくれたのに…」

「いいの! まさかアタシも、たったの一回で克服できるなんて微塵たりとも思ってないんだから」


 強い語調が飛ばすのは、風のみにあらず。

 心に巣食い始めた不安を消し飛ばし、多少無理やりにでも前を向かせるのだ。


 仄かな安堵の色を認めて、タレスは更にリカオンを鼓舞する。


「体力が戻ったら続きをやるわよ。アンタが出来るまで、明日もその先も特訓は続くんだからね!」

「……はい、よろしくお願いします!」


 こうして、二人の特訓が始まった。

 全てはリカオンが過去を越え、自分を信じられるようになるために。

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