『Just Call My Name』
「――兄さま、今日は何の日だか分かりますか?」
「えっ、何かあったっけ…」
唐突に投げ掛けられた質問にボクは戸惑った。きっと忘れているのだろう、錆び付いていた脳をぐるぐると回転させ、記憶から手掛かりを手繰り寄せる。
誕生日? ここに来た日? それとも初めて何かをした日?
口惜しいことに、どれを取っても心当たりはない。
このまま答えられなかったら文句を言われはしまいか。そんな緊張に身体が熱くなり、冷や汗が背中を垂れていく。夜とはいえ暑さも厳しいんだし、勘弁してほしい。
「……うーん」
三十秒とその半分の熟考。
斯くして成果は得られなかった。
「むう、兄さまったら」
「ごめん、本当に思いつかなくて」
少なくとも、記念日という雰囲気ではない。この子が何か準備をしていたような覚えも特にないし、ボクたちの誕生日だって少し前に祝ったばかりだ。
ボクは悩み続けるけど、きっと答えは出ない。
見ていた彼女もそれを察したのか、答えを教えてくれた。
「じゃあ言いますよ。…今日は、新月ですっ!」
「……それだけ?」
「そっ、”それだけ”とは何ですかっ! 新月の日は、お星さまがよく見えるんです…!」
想像したよりも特別感は薄く、されどこの子にとっては大きな出来事。星を見ることが趣味である彼女だ。月明かりがなく、星の輝きが際立つ新月の夜に感じる想いは、ボクのそれとは比にならないほど大きいに違いない。
語るうちに興が乗ってきたらしい。
ボクの手を引いて、一目散にベランダへと駆け出す。
「ほらっ、兄さまも空を見てみてください! 今日はよく晴れていますから、射手座が綺麗に光っていますよ」
「……本当だ」
隣で分厚い本を取り出す彼女。『星座図鑑』と銘打たれているそれには、長い時間を掛けて記された膨大な量の書き込みが見える。
「射手座は『
指で文章をなぞりつつ、手を掲げては星を詠む。
新月の日の暗い夜空と、ランプに照らされた横顔が強いコントラストになって、儚くも美しい景色にボクは見惚れてしまう。
その間にも、射手座にまつわる講義は続く。
「夏至の日の夜空に南中して、11月から12月生まれの人の星座になるんですよ」
「あれ、夏生まれの星座じゃないの?」
「その時の地球から見た、太陽の通り道が重なる星座を、その時期の生まれの星座としているらしいです」
「…勉強になるね」
話を聞くたびに、ボクは感服する限りだ。
喉の潤いに紅茶を飲み込み、彼女のお話は続く。
「ギリシア神話によると、ケイローンというケンタウロス族の弓の名手が……色々あって、射手座になってしまったらしいです」
「あ、そこは教えてくれないんだ」
「えへへ…神話は不勉強なものでして」
その後も彼女は流暢に、射手座にまつわる知識を並べ立てていく。時に真剣に、時に冗談めかして、コロコロと調子を変えながら。
ただどんな風に振舞っていようと、瞳だけはある日の満月よりもずっと明るく輝いていた。
圧倒的な想いの手前、ボクに紡げる言葉は無くて。
「本当に熱心だね。君は」
意図なく零れたその声が、ボクの飾れぬ本心だった。
「……兄さま」
ボクを呟く消え入りそうな声。
ランプの明かりが強まって、染まったように見えた頬。だけど暑さに溶ける氷のように、あの子の表情はすうっと色を失って。
「どうして、わたくしを名前で呼んでくれないのですか?」
冷たく、悲しく、恐ろしく。
太陽を失った月のように、瞳は昏く光無く。
突き刺すような言葉を手にして、ボクを責め立てるのだった。
「っ……」
「何度も何度も、お願いしてきましたよね?」
言葉を失ったボクへの糾弾は止まない。身を乗り出して肩を掴み、瞳を覗き込みながら抑揚のない声を発し続ける。
「兄さま、目を逸らさないでください」
曲げようとした首は、手で無理やりに正面を向かされた。
その間にも、間隙なく呪文は並ぶ。
「何故ですか? どうしてそんなに余所余所しく……普段からそうです、兄さまの方から関わろうとしてくださらないのですか?」
「……それは」
理由を伝えようと口を開いて、しかし葛藤に言葉が詰まり、挙句の果てには容赦なく突っぱねられる。
「言い訳なんて聞きたくありません、理由なんてどうでもいいのです。呼んでください、わたくしを、わたくしの名前で」
射抜くようにボクを見つめる、熱さと冷たさが交じり合ったような視線。
言う通りにする以外、もはや方法は無いのだとボクは悟った。
「わかったよ―――ひかり」
「っ、ん…」
ぱちぱち。
自分で頼んだことなのに、驚くようにひかりは瞬きを繰り返す。
予想外の反応にボクも面食らい、もう一度名前を呼び直す。
「……ひかり?」
「はい、兄さまのひかりです」
今度は明るく満面の笑みで、耳を塞ぎたくなる一言を投げ落とす。
先程までの凍てつくような視線は何処へやら、もうボクの前には普段通りの優しいひかりしかいなかった。
ひかりは満足げにボクの膝から降りて、星空に輝かしい視線を戻す。
ボクの肩にはまだ、思いきり掴まれた感覚が色濃く残っている。
「兄さまっ、なにも星座は射手座だけじゃありませんよっ!」
むぐぐっ…と声も手も力強く、今度は地平線に近い夜空を指差して言う。
「見てください。あそこに
へえ……名前は聞いたことがあるけど、あんな形だったんだね。
ボクが新しい学びに感激していると、横から差し出されたひかりのコップ。振り向くと、怪しげな笑みを浮かべながら口元に押し付けてくる。
「……ところで兄さま、わたくしの飲みかけの
「もちろん、遠慮するよ」
「…そうですか」
当然、間髪入れずに断る。
しゅんと落ち込むひかり。
その悲しそうな姿を見ていると、こっちに理があるはずなのに妙な罪悪感を抱いてしまった。
バツの悪さを感じながら、冗談めかしてボクは提案をする。
「じゃあ、代わりにボクのコップを…」
「いただきますっ!」
稲妻よりも速くコップを奪い取り、中の紅茶に口をつけるひかり。
「あぁ…うん」
我ながら、変な妹を持ってしまったと思う。
可愛いんだけど、ね。
「ひかり、襟に飛んでるよ」
「あ、ごめんなさい。わたくしとしたことがはしたない…」
ハンカチで紅茶を拭き取り、視線を上げて、ニコニコと笑うひかりを見つめる。
「……兄さま?」
首を傾げるひかりに、あの人の姿が重なる。
こうして距離を近づけて、改めてボクは心に決めた。
僕の隣にいてくれる、ただ一人。
ひかりだけは絶対に、何があっても奪わせはしないと。
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