第三十二節 弓使いのフレンズ
むかしむかしあるところに、一人のフレンズがいた。
彼女のお家は滝の裏にある洞窟。
そこで生まれた彼女は他の誰とも知り合うことなく、一人ぼっちで星を眺める日々を過ごしていた。
彼女の他には誰もいない。
時に姿を見せるのは、彼女の輝きを狙ってやってくる怪物共だけ。
持ち前の弓矢を使いこなして難なく倒せはするものの、撃てども撃てどもキリはない。
いくら倒してもまたやって来るのだ。
きっと外は怪物がいっぱいで、とても危ないのだろう。
そう思った彼女は洞窟に引きこもり、”フレンズ”も”セルリアン”も、彼女自身のことさえ何も知らないままに生きてきた。
だから彼女には、名前が無かった。
誰にも呼ばれないから、必要さえなかったのだ。
そして彼女の生活習慣を形容するなら、それは”奇妙”の一言だった。
昼間はひたすらに眠りこけ、夜には起きて星を眺める。
もしも途中で怪物に水を差されれば間もなく倒し、また岩の隙間から空を眺める無為な時間へと戻る。
そんな繰り返しに、彼女が疑問を持つことはない。たとえわずかな疑念が芽生えたとしても、その芽が真っ暗な岩場に根差すことはなかった。
何日、何か月、何年と。
知り得ぬ時間は流れ落ち、知り得ぬままに消えていく。
このまま微かな波すらないまま、終わりまで道が続くのか。
勿論、そうはならない。
ある日、彼女の日常は脆くも崩れ去る。
―――そう、洞窟に足音が響き渡るのだ。
首を傾げて、彼女は頭にハテナを浮かべた。
彼女の知る世界の音色は、とても静かで穏やか。
水の流れる音、岩が風を切る音、セルリアンの這いずる音。
しかし彼女の耳に届いた断続的な音は、そのどれにも当てはまることはなかった。
「だ、誰だ…?」
声が上ずる。
継ぐ句も飲み込み、驚きにただ目を見開く。
「はじめまして…で良いよな。ああ、驚かせて悪かった」
現れたのは一人の青年。
袴のような和装を着こなす若々しい男。
そう、他でも無い彼こそが―――
「――へぇ、外に出たことが無いんだな」
「ああ…必要なかったからな…」
二人はおしゃべりをする。
話題はもっぱら彼女の生い立ちと、彼から聞く外の話。
出会って間もないが、初めて目にする「他人」と言う存在に興味は湧くのだろう。いまだ若干ぎこちなく、彼女は言葉を紡いでいく。
「…ん? じゃあ食べ物はどうしてたんだ?」
「ここにある。我が仕留めた化け物どもだ」
「……ハハッ、こりゃたまげた。そんなことが出来たなんてな」
驚きに溢れたひとときだった。
彼も彼女もお互いに、知らない世界を耳にしていた。
「なぁ、もっと話を聞かせてくれないか…!?」
だがしかし、より強い情動を抱いたのは彼女の方だ。
それも当然のことだろう。未知の世界の大きさは、彼女の方が圧倒的に上だったのだから。
「…いんや。おしゃべりはここまでだ」
「そ、そうか…」
願いを拒まれ、落胆に頭を垂れる。
しかし直後、彼女に向かって差し伸べられた彼の左手。
「一緒に行こうぜ。百聞は一見に如かず、自分の目で世界を確かめるんだ」
なぜ、取らない理由がある?
「……ああ!」
彼女は強く手を握った。
彼が顔を思わず歪めてしまうほど。
それでも満足そうに彼は笑って、”忘れてたよ”と一つ尋ねる。
「ところで、名前はなんて言うんだ?」
「…すまない、我に名前はないんだ。付けてくれないか?」
「おっ、俺がか?」
突然のお願いには流石の彼も驚いたようで、自分を指差しながら尋ね返す。
頷き、確かにそうだと示す彼女。
彼もその言葉が冗談ではないと知るやいなや、目を閉じて真剣に考え始めた。
「……じゃあそうだな。”ルカ”、なんてどうだ?」
「”ルカ”……良い名前だ、大切にする」
「へへ、妙な気分だぜ。初対面の奴に名前を付けるなんてさ」
勿論まんざらでもない様子。頑張って付けた名前への好感触に、彼もルカと同じくらいの喜びを感じているようだった。
「…なあ」
「分かってるって、俺の名前だろ? 耳貸せ、俺は―――だ」
「…とても、良い名だな」
「よせよ、照れるじゃないか」
耳元で、そっと伝えられた名前。
あの日の記憶は、流れる滝の勢いに削り落とされたのだろうか。現在のルカは、もう彼の名前を覚えていない。
「さ、話はここまでにしようぜ。もうすぐそこに、広い世界が待ってんだ」
光は近づく。
足を動かす度に。
届かない輝きではなかった。
手を伸ばしていなかっただけ。
「ようこそルカ、ジャパリパークへ」
引きかけた手首を逆向きに引いて、外へと連れ出す。
「……なんてな」
そう、彼の名前は―――
§
ルカが初めて外へと出た日。
その日には丁度ホートクで、スカイレースが開催されていた。
「なんだ、あれは…?」
初めて目にした、無限に広がる青空。
頭上を飛んで行く何人ものフレンズを目にして、自然と疑問の呟きが漏れる。
「鳥のフレンズだ。俺たちと違って、翼を使ってあんな風に飛べるのさ」
「……綺麗だ」
静かなる感嘆。
心の底から湧き出た声が、彼女が受けた感銘の深さを物語っている。
「お、もしかして気に入ったか?」
「……気に入った、とても」
ルカの返答を聞き、満足そうに彼は笑う。
連れ出した甲斐があったぜと、どこか不思議にも得意げだ。
「じゃあ、しっかり守ってやらなきゃな」
しみじみと決意を口に、彼は誰もいない筈の背後を振り返った。
それにつられてルカも後ろを見る。
斯くしてそこには蠢いていた、忌々しきかの存在たちが。
「っ、怪物…!」
ルカは咄嗟に身構えたものの、予期せぬ事態に動けない。
そんな彼女を庇うかのように前に立ったのは、やはりと言うべきか彼だった。
「出たな、俺たちはアイツらをセルリアンって呼んでる。フレンズの輝きを奪うためにちょこまかと動きやがる面倒な奴らだ」
そんな説明を口に、懐から長い剣を取り出す。
ルカは驚いた。
あんな物を何処に隠していたのだろうと。
服の中から滑らかに剣を引き抜くその姿は、まるで何も無いところから引き出しているかのように錯覚させる程の鮮やかさだった。
「…戦うのか?」
「ま、そのために俺が呼ばれたからな」
「……?」
返答の意味を掴めず、目をぱちくりとさせるルカに彼は優しく微笑み掛ける。
そしてセルリアンの方に向き直ると、今度は敵意に染まった妖しい笑みで彼らを威嚇する。
「さあて、化かされろっ!」
その言葉を皮切りに始まった戦闘。
いやむしろ、それは蹂躙と表現するべき光景だった。
剣を振るえば、セルリアンは豆腐のように両断される。
言葉を唱えれば、無より現れし妖術がセルリアンを灼き凍らせ砕き滅ぼす。
そこにセルリアンが何か抵抗できるような余地は介在せず、ただあるのは彼らが打ち倒されるという結果のみ。
「…ふぅ、こんなもんか」
お仕事完了。
そう呟いた彼の周囲には、一切の穢れも残っていなかった。
「つ、強い…」
「まあ、俺に掛かればざっとこんなもんだぜ」
刀身を陽の明かりに光らせ、彼は真っ白な歯を見せて笑う。
「ところでさっき、”呼ばれた”と言っていたが…?」
「あぁ、あれか? この時期はセルリアンが増えるんだ、集まって来たフレンズたちの輝きに釣られてな。だから俺みたいな強い奴が、お掃除のために呼ばれるって訳さ」
ニコニコと言い放った彼の軽口にルカは乗らない。
むしろ若干うつむいて、思い詰めるようにポツポツと呟く。
「我も……セルリアンと戦えるだろうか…」
「おぉ、お前もお掃除に興味があるのか?」
ルカは、彼の問いに顔を上げた。
「…我はこの催しが気に入った。だが我は飛べない。彼女たちの輪に混ざることは出来ないだろう。だからせめて、裏側からでも支えたいのだ」
情熱的な語り口にて、ルカは想いを口にする。
生まれて初めて外で見上げた、それはとても大きな空。
そこを悠然と飛び行くフレンズたちの姿は、ルカに憧れ以外のどんな感情をも抱かせることはなかった。
彼女は飛べないが、矢は飛んで行く。
その矢を彼女は心の底から、何かを守るために番え放ちたいと感じたのだ。
「…へへ、泣かせるじゃねぇか」
彼は、感銘を受けたように拳で胸を打つ。
「……泣いているようには見えないが?」
「比喩だよ比喩。細かいことは気にすんなって」
満足げに笑い、彼は次の標的を探しに歩き始める。
「……」
そういえば、彼はどうやって自分を見つけたのだろう。
なぜ会いに来たのだろう、どこで自分を知ったのだろう。
邪魔をしてしまわないように、ルカは浮かんだその疑問を飲み込む。
そしてそれきり、別れの時まで、その問いを彼に投げかける機会はやってこなかった。
§
あれから、何日もの時が過ぎた。
毎日のように彼はルカの元を訪れ、様々なことを彼女に教えた。
「じゃあ、これは…?」
「ああ、それはだな……」
彼女の世界は変わった。
無知という名のベールをはがされ、洞窟という名の目隠しを外され、何物にも遮られない視界を手に入れた。
だから克明に見えてしまうのだ。
刻一刻と近づいてくる、彼との別れの瞬間が。
「……ルカ?」
違和感に気づき、彼が声を掛ける。
ルカは心中の不安をごちゃ混ぜにした声で、漸くの疑問を彼へと投げかけた。
「なあ…お主はもうすぐ、ここを去ってしまうのだろう?」
「…なんだ、気付かれてたのか」
驚きに彼は笑う。
突如訪れた予想外を楽しむように、口角を高く吊り上げた。
「そうだ。俺には行くべき……いや、帰るべき場所がある。今回の遠出も、アイツにかなり無茶言ってOK貰ったしな」
「…アイツ?」
「へへ、気になるか? 特別に教えてやると、キュウビキツネだ。なんと尻尾が九本もあるキツネのフレンズなんだぞ」
指を立て、努めて彼は明るく振舞う。
しかしその茶化しにも、今までのようなキレはない。
「……まあ、色々見たくなるのさ。こうも長生きしてるとな」
見開いて、閉じて、ゆっくりと開けて。
彼は、観念したかのように力なく笑う。
「お前を見つけたのは言うなれば、『不思議な力』ってやつだ。すげえだろ、俺も今回のことはかなり驚いてる」
多分、もう会えないだろうなと呟く。
失意に言葉さえ失ったルカを、宥めるように慰める。
「旅人ってのは一期一会、道を分ければもうそれっきりさ」
それでもまだ、ルカは何も言えない。
「悲しむな…っていうのは無茶か。まあ、気が済むまで悲しんだ後にでも立ち直ってくれや」
ころり、天井から石ころが落ちる。
「…どうか、元気でいてくれ」
「ハハッ……健気すぎるだろ、そりゃあ」
それはきっと、檻の壊れる音。
彼女を包んでいた無知の牙城が、ゆっくりと崩れ去る静かな断末魔なのだ。
「じゃ、元気でな」
最後の挨拶は簡単で。
もう他に交わすべきものは何も無かった。
これが彼女の、”ルカ”の始まり。
だけど彼女の記憶に、在りし日を思い出す明瞭な景色はもう残っていない。
永い時は、大切な想い出さえも簡単に色褪せさせてしまうから。
―――だけどただ一つ。
スカイレースをセルリアンから守ろうとする、ルカの抱いた原初の想いだけは。
どれほどの時が経ったとしても、その形を変えることはなかった。
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