『Your Eyes On The Stars』

 空の涙が降り注ぐ。

 水が配水管を通る音がベランダに響く。


 手元のカップを傾ける。

 紅茶が食道を流れる音が体内に響く。


 隣に目をやる。


 自分より十センチほど身長の低い少女が、望遠鏡を抱えて空を眺めている。


「……今夜は何も見えないよ?」

「いえ、そんなことありません」

「あるんだよ、そんなこと」


 見ての通り、今夜の空模様は非常に悪い。

 彼女が大好きな星はおろか、月の光さえ雲越しにも見えやしない。


 望遠鏡を覗き込んだとて、見えるのは底知れぬ暗闇だけであろう。


 それとも、その暗闇が良いとでも言うつもりだろうか。


「まあ、君の好きにしてよ」

「いえ、暫しお付き合いください。本日こそわたくしが啓蒙して差し上げます」


 ガシッと腕を掴まれ逃れられない。


 いったい何処からそんな力が出るのだろうか。

 それともトレーニングを怠った自分のせいなのだろうか。


 真相はずっと闇の中に居て欲しいものである。


「……はぁ」


 溜め息は暗に示す肯定。

 こうなってしまえば彼女を止めることは出来ない。


 それは丁度降り注ぐ雨のように。

 

 低気圧が通り過ぎるまで、ボクはそれが止むのをただ待ち望むことしか出来ないのだ。


 それはそれとして嫌いではない。

 せめてもう少し、強引さがなければと思うのだが。


「こうでもしないと、聞いてくれないではありませんか」

「……そうかもね」


 長らく同居していながら、あまり彼女に構ってあげられていないと思う。

 それには様々、本当に複雑な理由があるのだがここでは割愛。


 彼女の授業が始まる。


 これを受けるのも、もう何度目だろう。


「さて、まずは月です。正しい知識を持って月を眺めれば、現在の時間を時計無しで知ることが出来るのです」

「雨さえ降ってなければね」

「む、それは仕方ないことです。時計を使いましょう」


 お月様についてつらつらと。

 よくもそんなに話すことがあるなと思うくらいの饒舌さでとやらは進む。


 本職とは違うじゃないかと思いつつ、改めて考えてみれば同じようなものであった。


 やがて、一区切り。


「…さて、分かりましたか?」

「いや、あとで復習しないと覚えられそうにないや」

「素直でよろしいです。ではわたくしのノートをお貸ししますね」


 渡されたノートには整然とした文字が並ぶ。

 やっぱり綺麗にまとまってるね、復習は案外楽そうだ。


 ボクは適当に目を流し、また本を閉じる。


「…で、これで終わり?」

「とんでもない、まだ本番が残っていますよ」


 本番、それは彼女の本懐。


 月とは近く、また遠い。

 月より大きく、しかし小さい。

 月に似ていて、決定的に異なっている。


 ここからでは絶対に手の届かない輝き。


「さあ、星のお勉強をしましょう」


 彼女の瞳の輝きは、ずっとずっと星の上にある。


「……ん?」


 ちょうどその時、雨が止む。

 しばらく降り続きそうだと思っていたけれど、天気とは本当に分からないものだ。


 案の定、彼女はその変化に喜ぶ。


「あ…! 今なら星が見えるかもしれませんよ、!」

「いや、雨が止んでも雲は消えてくれないよ?」

「ですけど、そうですけど…!」


 彼女は事実から目を逸らしながら、望遠鏡で星に目をやろうとする。

 

「ああ、雲を貫く望遠鏡が欲しいです…!」

「なにそれ、中身作るの大変そうだね」


 輝かしい、実直に夢を見る姿が。


 自分に夢はないから、毎日を蒙昧に過ごし、昨日の自分の姿すら覚えていないから。


 光から目を逸らした。


 輝きが憎らしかった。


 ああ。

 夜は嫌いだ、眩しすぎる。


 このベランダだけでも、朝になってしまえばいいのに。

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