第十節 はぐれ子ネズミと美味しい天ぷら
長閑で自由なジャパリパークでの日々の中、唯一の日課として僕が受け続けている授業。
それは毎日のように様々な分野の、大量の知識を頭に刷り込んでいく作業だ。
しかしながら先生のクオも一人のフレンズで、授業にだって休みの日がある。
休みの日には一切の勉強をしない。
ゆっくりと心身を休めて、翌日以降の英気を養うのだ。
だけど時には、ハプニングに見舞われて休息どころじゃなくなることも。
しかも大きなトラブルに限って、何故か休みの日を見計らったように起きるものだから些かも許しがたい。
これから僕が話すのは、休みの日に起きた事件の内の一つ。
あれはそう、いつもよりも風が冷たい日の出来事だった――――
§
「ソウジュー、アレ取ってー」
厨房の方から、可愛く間延びした声が聞こえる。
僕のいる居間まで忙しなく響いている調理器具の音からして、クオは今ご飯を作っているのだろう。
「…えっと、アレってどれー?」
「あのね、クオの後ろにある卵を取って欲しいの。ちょっと手が離せなくって~」
残念ながら、僕らはまだ”アレ”の一言で以心伝心できるような関係じゃない。
だから聞き返したけど、まあそういうことみたい。
「うぅ…うん。今行くよ」
授業に料理にその他諸々、クオは毎日のように頑張ってくれている。
普段は僕の方が頼りっぱなしだし、こうして頼まれた時くらいは手伝ってあげないとね。
お昼寝の後の眠たい目元をこすって、僕はゆっくりとその場に立ち上がった。
「…はい、これで良いかな?」
予想通りクオは料理中、鍋の中には熱々の油。
なるほど確かに、揚げ物の最中に目を離したら危ないよね。
「うん、ありがと! 折角だし、そこの粉と混ぜてくれない?」
「…これだね」
混ぜる程度なら、料理に慣れていない僕でも大した失敗はしないはず。
……しないから、期待しないでね。
まずは卵を割るところから。
直角に曲がった台の角に卵を当てて、真ん中に出来たヒビから殻を割る。
すると真下に落ちる影。
ポフッと僅かに粉を舞わせて、鮮やかな黄身がボウルの中に入った。
「…丸ごと入れていいんだっけ?」
「いいよ、後は馴染むまで混ぜちゃって」
長い菜箸をグルグル回し、粉と卵を混ぜていく。ボウルの中に塗れた粉が、少しずつ卵の水分と結びついて湿ってゆく。
グルンと大きく回してみれば、ボウルの壁にしぶとく残った粉が面白いほど綺麗に掠め取られていく。
それが楽しくて、ついついかき混ぜすぎてしまった。
「ソウジュ、周りに飛んでるよっ!?」
「え、あ、ほんとだ」
「…もう、おっちょこちょい」
「あはは、掃除しないとだね…」
液が飛び散ったのは近くの調理台と…あぁ、服も汚れちゃってる。
洗濯するのも手間だよね。
いくら楽しいからって、次からは気を付けないと。
「でもいい感じにちゃんと混ざってるね。これなら絶対、サクサクの天ぷらが出来るに違いないっ!」
ボウルを掲げてクオは上機嫌。
勢いよく液が零れたのは言ってあげた方が……あ、気付いて拭き始めた。
「よいしょっと。すぐに揚げて持ってくから、ソウジュは向こうで待ってて」
「うん、わかった」
小さな仕事を終わらせて、僕はまた居間で束の間のお昼寝。
何の変哲もない休日。
平穏なままに終わるはずだった休日。
―――事件は、音もなくやってきた。
「えっ……ひゃぁっ!?」
「ん…?」
甲高い声が鼓膜を揺らす。
数秒の沈黙の後、それがクオの悲鳴であることに気づいた。
その事実に思い至ったのと同時に、クオが僕を呼ぶ。
「ソウジュ、はやくきてえっ!」
「う、うん…っ!」
ちゃぶ台の脚に足の先をぶつけながら、僕は急いで厨房へと向かう。
「やだ、あっちいってっ!」
向かっている間にもクオは、何かを追い払おうと必死に格闘していた。
「はぁ、はぁ…!」
とても長く感じた十数秒。
彼女がいる厨房は、この扉の先。
力任せに開けて、向こうに広がる景色を確かめる。
「クオッ! 何が…出て…」
「助けて、ネズミが出てきたのっ!」
クオの言う通り、彼女が指を差した先にいたのは、揚げたての天ぷらをくわえながら部屋の隅で縮こまっているネズミだった。
「……あぁ、ネズミね」
セルリアンが押し掛けてきたのかと思えば、案外と平和なトラブル。もちろん、それに越したことはない。
「早くどうにかしてぇ!」
「はいはい、仰せのままに」
じゃあ、ひとまずネズミには対処しよう。
逃げる前に尻尾から捕まえ、逆さにしたザルの中に閉じ込めてやった。上に重しも載せれば完璧。
「さて…これで安心かな?」
「あ、ありがとう…」
床に手を突きよっこらせ、まだ少しふらつきながらクオは立ち上がる。
怯えた表情も時間と共に薄れてきて、この調子ならもう問題は無さそうだ。
「でも意外。クオってネズミを怖がるんだね」
「い、いきなり出てきて驚かすからだよ……いつもなら、全然大丈夫だもん」
「ふふ、そっか」
『ひゃぁっ!』
『はやくきてぇ!』
『あっちいってっ!』
『どうにかしてぇ!』
…かわいい。
「もう、信じてないでしょ!?」
「疑ってなんてないよ? それより、このネズミはどうしよう……逃がす?」
僕は温和な解決策を示す。
だけどネズミに”してやられた”クオは、そんな結末じゃ満足できないようだ。
ニタニタと悪い顔をして、彼女は言う。
「ううん、逃がすだけなんて生温い。二度とクオを驚かさないように、きっちりとおしおきしてやるんだからっ!」
わぁ、物騒。
「…何するの?」
「天ぷらにするっ!」
「……そう」
まあ確かに、このネズミがクオを驚かすことは二度となくなるだろう。おしおきと呼ぶには生温い、とても残酷な処刑によって。
流石に可哀想だと止めようとして一瞬、僕は考え直した。
『逃がす』という僕の案も、この雪国では大概の極刑なのではないだろうかと。
このホッカイ、逃がす場所なんて雪の中以外にはない。半日と持たずに、このネズミは息絶えてしまうに違いない。
「寒さで死ぬか、熱さで死ぬか…って感じだね」
それが嫌なら、ここで飼い馴らすしかない。
まさかクオがそんな提案を呑むとは思えないし……他に方法もない。悪いけど彼には、カラッと美味しく揚げられてもらうことにしよう。
「ふっふっふ…覚悟してね、クオを驚かせた罪は重いんだから…!」
クオはやる気だ。
僕は綺麗に揚がった天ぷらでも食べながら、彼女のおしおきを見物させてもらうとしよう。
「…おいしい」
噛めばサクッと鳴る衣。
中の野菜はホクホク食感。
飲み込んだ後の口もサッパリと、幾つでも食べられる。
「半分は残してね」
「うん、わかってる」
でも、忘れて全部食べてしまいそうだな。
先に別のお皿に取り分けておこう。
「もぐもぐ…」
あのネズミも、噛んだ瞬間に肉汁がじわっと溢れ出す美味しい天ぷらになってしまうのだろうか。
そう考えると唾液が出てくる。
うん、もう一ついただこう。
「さあ、諦めてバッター液まみれになるんだよ…っ!」
さあ、もう時間の問題だ。
自分の分の最後の天ぷらを口に運ぶ。
バキッ。
おおよそ天ぷらのものではない鈍い音。
バキッ。
何も食べていないのに鳴る音。
ドガッ。
床板を突き破って、セルリアンが飛び出す音。
「っ…!?」
セルリアンは、ネズミに夢中で事態に気づいていないクオの背中に飛び掛かる。
「クオ、後ろっ!」
「え、後ろ……?」
振り返り、偶然にもセルリアンを避けたクオ。
もう一度振り返って、セルリアンと目を合わせたクオ。
「…きゃーっ!」
彼女はネズミよりも大きい侵入者に驚き、彼女は咄嗟に手に持っているものを投げつけた。
そう、バッター液まみれのネズミを投げつけたのだ。
雫を撒き散らす剛速球。
予想に反して効果は抜群。
黄色いネズミは敵を貫き、パッカーンと砕けたセルリアンの欠片が厨房の中に飛び散る。
「あっ、倒しちゃった」
「もう、びっくりしたぁ~…」
緊張の糸が解ける。
全身からあらゆる力が抜けたように、クオはへなへなと膝から崩れ落ちた。
§
「あむ…ふふ、ソウジュも食べる~?」
「ありがとう、いただくよ」
サクッ。
軽やかな音が響く。
脇ではガラガラ鳴りながら、小さな車輪が絶えず回り続けている。
「…で、結局飼うことにしたんだ」
「ん、まあね」
ネズミは一命を取り留めた。
身体を張ってセルリアンを撃破した功績がクオに認められたらしい。
というか、ハムスターみたいに扱うんだね…?
しかし、それを差し引いてもいい待遇だ。
車輪なら沢山運動できるし、籠に閉じ込めているからその中なら移動も自由。エサも種類が豊富な、美味しいものを用意している。
一体、どんな心変わりがあったんだろう。
「うふふ、楽しみだな~」
「…何が?」
「え? 何って、あの子がふっくら太ることだけど」
「……え?」
えっと、じゃあまさか、あのネズミを生かしたのって……
「あーあ、とっても美味しい天ぷらになるんだろうなぁ」
「あ、あはは…」
まあ、色々と思うところはあるけど。
普段では分からない、クオの新しい一面を知ることが出来た有意義な休日だった……んじゃないかな?
……是非ともあのネズミには、早くフレンズになって逃げ出してほしい。
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