転節 夢を目指して、君の願いを
「……そっか」
答えを聞いて、寂しそうにクオは微笑んだ。
僕は居たたまれない気持ちだった、クオが気に病むことなんて一つもないというのに。
たとえ今からでも、ずっと掛けていたメガネを見つけた時のように、パッと泡が弾けるように、何もかもを思い出すことが出来たら。
「ごめん、本当に…何も憶えてないんだ」
こんな陳腐な言葉だって、言わずに済んだというのに。
「いいんだよ、仕方ないよ」
「…うん」
タオルを桶のお湯に沈めて、脇の方にそっと滑らせて。
クオは袴の裾を引っ張りながら、僕の隣に体育座りで腰を下ろした。
何を話せばいいのか分からない僕に向かって、クオはこんな話を始めた。
「クオね、大好きな絵本があるんだ」
そう言って背後の棚から、一冊の本を引っ張り出す。
それは双子の兄妹が両親に内緒でこっそりと森を探検する、いかにもな内容の絵本らしい。
あらすじを説明して、クオは僕に絵本をグイっと押しつける。
読め…ってことなのかな。
じゃあ仕方ない。
僕は表紙をめくって、内容に目を通すことにした。
「どう?」
「もう、まだ読み終わってないよ」
「…あはは」
僕が困ってそう言えば、クオは苦笑いを浮かべて後退り、それでも前のめりになって読み終わるのを待っている。
宝石のようにキラキラした瞳からは、僕の感想を本当に心待ちにしていることがうかがえる。
これは…ちゃんと読まなきゃ。
「…うん」
パタン。
そっと、絵本を閉じた。
「……どう、だった?」
「…うん、素敵だと思う。ワクワクするお話だった」
山あり谷あり川もあり。
絵本ってこういうものだっけ? って思うくらい中身の詰まったストーリーで、読み終わった時の満足感もひとしおだった。
最後まで心臓の高鳴りが収まらない展開だったけど、最後はやっぱりハッピーエンド。
どんより沈んだ僕の気分も、幾らかは浮かんで戻って来れたように思う。
「ありがとう。なんとなくだけど、元気になれた気がするよ」
「えへへ、よかった…!」
胸を撫で下ろし、安堵したように息を吐いてクオは微笑んだ。
僕に向けられる屈託のない笑みが、隙間から入る日の光のように眩しい。恥ずかしくなって、僕は本棚の方へと顔を逸らした。
「…どうかした?」
「ううん、なんでもない」
…別のことを考えよう。
「……」
本の中であの双子は、奥が全く見えなくなるほど霧の深い森の中を、臆することなく進んでいた。
僕は、どうだろう?
今……目の前も、背後さえも、霧掛かったように不明瞭だ。
地に足がついていないようで、何処にも安らげる”家”が無いようで……とても恐ろしい、探すことさえも。
もしも、人生の全てを掛けても答えが見つけられなかったとしたら、僕は絶望してしまうのではないか。
あるいは、その結論さえ出せないまま僕は死んでしまうのではないか。
それもまた、僕にとっては恐ろしい。
ああ。
願わくばずっと、この場所で立ち止まっていられたら―――
「クオね、夢があるんだ」
「……夢?」
「うん。あのね…旅がしたいの」
「…そうなんだ」
旅。それは住み慣れた場所を離れて遠くに行くこと。
それを夢見るクオは、僕とは正反対だ。
僕の手から絵本を取って、胸にそっと抱きながら言う。
「この本の二人が探検したのは森だったけど……クオは、もっと広い世界を見てみたいっ!」
夢を見上げて元気に話す、さながらクオはお転婆少女。
だけど一転、太陽のように明るい顔を曇らせて、何かに怯えるようにこちらを向いた。
「でも…でも、ね?」
「う、うん…?」
本を右腕で抱えたまま。
左手で、僕の手首をそっと引き寄せて言う。
「ちょっとだけ…怖いんだ。やっぱり、知らない場所に行くってことだから。だから一人じゃなくて、一緒に行ってくれる人が欲しくて……ね、ねぇ!」
そっか。
そういうことか。
クオが言いたいことって、つまり。
「……おねがい、クオと”ふたご”になってっ!」
「…へ?」
つまり……どういうことなんだろう?
「ふ、双子ぉ…?」
「だ、だって! ふたごだったじゃんっ!」
「あぁ、そういうこと…」
絵本を突き出し、目の端に薄っすらと涙を浮かべながら叫ぶクオ。
なるほど。つまりクオはずっと、この絵本に登場する双子のような関係に憧れを抱いていたんだ。
だからこそ旅にも、一緒に来てくれる誰かが居て欲しかったってことだね。
……その役目が僕に務まるかどうかは、これまた怪しい話だけど。
あともう一つ。
言うまでもない、そもそもの話なんだけど。
「双子って、なるものじゃないよね…?」
「うっ…!」
尻尾をだらんと耳をぺたんと。
突きつけられた事実のせいで、より一層大きな涙の雫を浮かべるクオ。
あとほんの少しでも手を出せば目の端のダムは決壊して、思い浮かべるも恐ろしい大洪水が発生してしまうことだろう。
それは、僕の望むことじゃない。
「でも……もしもクオが一緒に来て欲しいなら、僕は行っても良いと思ってるよ」
だって、僕の命を助けてくれたクオのことなんだから。
「…ほんと?」
「うん。僕も、これから何をすればいいのか全然分からなかったところだし……旅の途中で、何か思い出すきっかけを見つけられるかもだし」
「そっか、えへへ…!」
こすこすと涙を拭って、ぱあっと明るく笑ったクオ。
「じゃあ、約束して」
小指を差し出して言う。
「えっと、『旅について行く』って?」
「…『クオとふたごになる』って」
「あはは、わかったよ」
正直、よくわかんないお願いだけど……クオがここまでこだわるのなら、僕がわざわざ突っぱねる理由は無い。
なってあげよう、”ふたご”ってものに。
指切りげんまん、呪文を一つ。
「嘘ついたら、”ジャパリまん激辛わさび味”を千個だからね」
「わさび味なんてあるの…!?」
「ほら、ここに一つ」
「………う、辛い」
ワクワクと不安と驚きと、あとはわさびの鋭い辛さ。
いろんなものをごちゃ混ぜにして、僕らの約束は結ばれた。
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