承節 ここは”けもの”がいる世界

「おはよう、気分はどう?」

「……え?」


 時間が、飛んで過ぎ去ったような心地だった。

 気付けば僕は恐らく神社の、白い布団の上にいた。


 こんな場所に来た記憶はなくて、ましてや身体を起こした覚えさえなくて、雪を被せられたように明るく白んだ視界が日光のせいだと――即ち、今が朝だと――気づくのに、僕は数分の時間を要した。


 自分の出した曖昧な声が、クオのアホ毛を揺らす。

 彼女の頭のてっぺんで、ぴょこんと踊り舞っている。


「ん、ええと…」

「…まだ眠いかな? 待ってて、濡れたタオルを持ってくるから」


 クオはそう僕に告げてから立ち上がり、襖を開けて部屋を出て行く。


 ピシャリと襖を閉める音。

 それがハッキリと響き渡った後も、僕の意識は朦朧と、未だに雪景色の極寒を夢に見ていた。


 あれから一体、どうなったんだろう…?


「そうだ、クオにおんぶされて、そのまま眠っちゃって…」


 眠ってしまった理由は…まあ、二つくらい思い浮かぶ。


 一番は、寒さに体力を奪われていたこと。今は、いつの間にか着ていた暖かい服があるから多分大丈夫。


 そして二番目は、僕の名前。

 まだ欠片ほども思い出せない、だけれどきっとあるはずの物。

 思い出せない事実に触れた心労が、おそらく僕の意識を眠りに沈めてしまったのだと思う。


「……寒い」


 僕は身震いをして、ボリューミーな布団を肩まで被った。

 建物の中と言えど雪国で、暖かいものが欲しくなってしまう。


 クオが持ってきてくれるという濡れタオルだけど、もちろんお湯に浸けたものだよね? これで冷たいのが出てきたら、僕は今度こそ凍死してしまいそうだ。


 そんな不安を抱えつつクオを待っていると、十数分ほど経った後に、襖を滑らせる音が部屋に響いた。


「ごめん、お待たせっ! 思ったより時間かかっちゃった…」

「いいよ、どうせ暇だから」

「じゃあ…するね?」


 バシャバシャと桶にタオルを浸けて、ギュっと絞った水音の後。僕の顔を、暖かく湿ったタオルが覆い隠した。

 冷たくないことにちょっと安心、直後にやって来た眠気の不意打ち。


 どうやら、暖かいタオルの方は本末転倒だったみたいだ。


「ふわぁ~…」


 自分でも驚くほどの大きな欠伸。

 クオはもっと驚いて、少し申し訳なさそうな表情をしている。


「そっか、あったかくちゃダメなんだ…!」

 

 僕からすれば何も悪くない、笑い話にできるくらいのミス。だけどクオはそれを重く受け止めて、頭の上に付いたキツネ耳をパタンと伏せている。


 そんなクオの姿が、僕の目にはとっても可愛らしくて……え?



 ―――キツネ、耳?



「……あれ、どうしたの?」


 ある。

 確かに、付いている。

 キツネの耳が。

 

 瞼を擦って、もう一度まじまじと見つめてみても……やっぱりある。

 キツネの耳が。


 ……きつね?


「…ええぇぇっ!?」

「わわっ!? 急にどうしたの?」

「み、耳、頭の上、狐、なんで……!?」


 驚きのあまり布団から跳び上がって、勢い余って本棚に背中をぶつけながら、僕はわたわたと慌てふためいてクオの頭を指差す。


 上手く回らない呂律で全力の疑問をぶつけて、深呼吸で息を整えつつクオの答えを待つことにした。


 そうだ、ステイ。落ち着くんだ僕。

 確かに耳は奇妙だけど他はそうでもないじゃないか。


 肩ほどまで元気に伸びた橙色のくせっ毛。

 くりくりと可愛らしく、宝石シトリンのように透き通ったオレンジの瞳に、幼くも整った顔立ち。


 首元に下がった星型のペンダント、そして彼女の見た目によく似合う巫女風の和装。


 耳以外は…多分普通だ。


「…この耳って、珍しいの?」


 オッケー、おそらく理解した。


 どうやら、ここではコレが当たり前みたい。


 ただ純粋に、こんな感じの耳やが普通に備わっているような世界に僕は迷い込んでしまったと。そういうことだろう。馬鹿げてるけど。


 …あ、尻尾もあるのか。


 ……もう何も言う気はない。


「でも、言われてみれば付いてないね、キミ」

「あはは、僕は普通のヒトだから」

「ヒト? そっか」


 妙に納得した調子で、わさわさと風呂敷を漁り始めたクオ。


 僕はまだ驚きで身体が動きそうにないけど、クオにとっての僕は然程の驚愕に値する存在では無かったらしい。

 妙に悔しいな、なんでだろう。


「はい、ジャパリまんをどうぞ」

「あ、ありがとう」


 手渡されたのは青い饅頭。

 何故か食欲減退の色が使われているけど、美味しそうな匂いのお饅頭だ。


 試しに一口かじってみると、何味とも言えない不思議なうまみが口いっぱいに広がった。食感からはなんとなく、野菜の気配を感じたりする。


 僕はそれなりに空腹だったようで、溢れ出す食欲のままに”ジャパリまん”とやらを3つ、胃の中にすとんと収めた。

 

 食べている内にキツネ耳と尻尾への驚きは鳴りを潜め、今ではただ、一度触ってみたいという欲求が頭の中を渦巻いているだけ。


 これなら、落ち着いて話を聞けそうな気がする。


「ねぇ、ここって何処なの?」

「ん? ここはホッカイちほーだけど」

「…ホッカイちほー?」


 似たようなのは知ってるけど、聞いたことのない地名だ。

 まあ、地名なんて碌に覚えてないけどさ。


「あれ、知らない? ジャパリパークの…こっちらへんにあるんだけど」


 妙なジェスチャーを交えられても、分からないものは分からない。それよりも、もっと気になる言葉があった。


「ジャパリパークって……何?」

「えっ、ジャパリパークを知らないの!?」


 今度こそ、クオの方が驚いた様子で立ち上がる。

 大きく腕を広げて、その正体を僕に教える。


「ここだよ、ここのこと! とっても広い、動物園!」

「…動物園っ!?」

「そう、動物園。……は、知ってるよね?」

「う、うん…」


 流石にそこは一般語彙の範疇だ。

 

 けど、驚いたな。

 まさか、知らないうちに動物園に来てしまっていたなんて。


「それで、どうやったら帰れるの?」

「え、帰る? どうやって?」

「えっ?」


 クオのこの反応。

 まさか…帰れないの?


「えっとね…クオたちは、ジャパリパークで生まれたの。だから、最後の瞬間までクオたちはジャパリパークにいるの。まあ…お客さんは、帰ってたと思うけど」

「だったら、お客さん…ううん、ここのスタッフさんに紹介してくれれば…!」


 ようやく見えた希望の光。帰れるのなら話は違う。

 まだ思い出せない記憶も、帰ってからお医者さんに診てもらえばなんとかなるかもしれない。


 そう、思ったんだけど。


「…いないよ」


 戻ってきたのは、無情な返答だけだった。


「い…いない?」

「お客さんも、スタッフさんも、もういない。このパークには、けものしかいないの」

「そん、な…」


 …訳が分からない。


 気付いたらここに居て、僕と同じヒトは何処にも居なくて、名前も何も思い出せなくて、たった一人で放り出されて。


 どうして僕が、こんな目に遭わなくちゃいけないんだ?


「そういえば、まだ聞いてなかったね。キミの名前は? どこから来たの?」

「………分からない」


 そう答えるよりほかに、選択肢はなかった。

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