泣いた男

きさまる

泣いた男

「あんた、一体ここで何をしていなさるのかね?」


「待っています。……九尾きゅうびきつねを」


男はそう言って再び笛を吹こうとした。


「九尾の狐はもう退治し尽くされたって言う話だがよ、それでもここはまだ物の怪が多いところだから、あんた、悪いことは言わねえ。早いとこお帰んなさい」


「どうも有難ありがとうございます。しかし、もう私には、死をいたんでくれる人がこの世にいないのです。世捨てびと酔狂すいきょう道楽どうらくだと思って好きなようにさせてもらえませんか?」


「それじゃあ、まあ。あんたがそう言うんなら。

ああそうだ、おら、七日に一度、そう、昼間のちょうど今頃はここを通るがよ。あんた、充分気い付けなされや」


 そう言って、彼に声をかけてきた人の良さそうな行商人は、森の外を回る道に向かって歩いていった。彼が去ってからしばらくのち、一陣の風が吹いて、森の木々をざわめかせるとやがてやみ、静寂が戻った。

 森へ入る道のすぐ脇にある、やや大きな岩の上に腰掛けていた男は、行商人の姿が見えなくなるまで彼を見守っていたが、やがて、膝の上においていた横笛を手に取り、また静かに笛を吹き始めた。あたかも今の男の存在は、夢幻ゆめまぼろしであったかのように。

 全ては行商人がくる前と変わらなかった。

 森の入り口あたりでたわむれていた鳥たちが、彼の笛のかれてやってきて、彼の肩や彼の周りに止まる。そしてそのまま、彼が笛を吹き終わるまで動こうとはしなかった。




「おぬし、そこで一体何をしておる?」


「……待っています」


「ほう? わしには笛を吹いとるようにしか見えぬが。して、笛を吹きながら一体何を待っておるのじゃ?」


 声をかけてきたのは、鼻が高く、背に翼の生えた赤ら顔の天狗。

 森の奥から、滑るように歩いてきたかと思うと、男が気付いたときには、もう目の前にいた。

 今は夜。男がたいているとう色のたき火の光に照らされて、山伏姿の天狗の形相は一層恐ろしげだった。

 だが、天狗におびえた様子もなく、男は答える。


「九尾の狐」


「この森の九尾狐は、もうすでに絶えて久しいぞ? 人間どもに討ち滅ぼされての」


「それでも待たせてもらえませんか? 九尾の狐がこの森にいようといまいと、私の気が済むまで」


「儂はよいが、他のあやかしが何というか……。おぬし、とって食われてしまうかもしれぬぞ?」


「それでも構いません。もはや私は、私の死を悼んでくれる人もいない天涯孤独の身。とって食われても、いっこうに気にはしません」


「うむ、左様か。……ここで終わらせるには惜しいほどの笛の音だが」


 そう最後にぼそりと呟くと、天狗は男に背を向け、また森のほうへ、滑るように歩いていった。

 男は、天狗の姿が夜の闇にまぎれて見えなくなるまで見送っていたが、やがて、また笛を手に取り、吹き始めた。




「やあ、随分ときれいな笛の音が聞こえると思ったら、こんなところに人がいた。……一体ここで何をしているのです? あなたの出立いでたちを見るかぎり、旅の途中の休憩というわけでもなさそうだし……」


 その旅の若い男は、腰に刀をさして武装はしていたが、武人というわけではなさそうだった。


「ええ、待っているんです。九尾の狐を」


 彼は、自分が話しかけたその男の返答に、少し怪訝けげんな表情を見せた。


「なんですって!? 九尾の狐といえばあなた、物の怪ですよ?」


「ええ、分かっております。……無論私は正気ですよ」


「では何故そんなものを待っているのです?」


「魅せられた……と言えば簡単にあなたを追い払うことができますが、そこまでして人を拒むことはありませんね」


 そう言って男は、少し含羞はにかみの混じった寂しげな表情をして、理由をその若い男に話し始めた。


 旅の若い男はこの国の決まりにより、ここよりもまだ遥か西の地方へ防人さきもりに行くところだった。

 男が話しているうちに夜になってしまったので、明日の朝早く出発することにして、若い男は一晩ここで野宿することにした。途中、彼は森に獲物を狩りにいき、ふくろうを一羽とってきて、二人で焼いて食べた。

 話し終わってからしばらくして、男が笛を吹き始めると、この前の天狗がまた笛を聞きに現れて、若い男の肝を冷やさせた。

 その晩は、男のたっての願いにより、若い男の安全のために天狗が寝ずの番をすることになった。但しその代償として、男も一晩中起きて天狗のために笛を吹くことになったが……。

 墨をひいたような闇の中に、焚火の燈色の光に照らされた地面と草と岩、そして三つの人型ひとがた




「この森にいつまでもとどまっておるとは、つくづくな人間よ」


 ある日、胴回りが三、その尻尾は一体何処にあるのかも分からぬような大蛇おろちが、青銅の巨大な鐘を鳴らしたように、低くて良く響く声で男に声をかけつつ、彼の前に姿を現した。

 男は眉一つ動かさず、大蛇の目を見据えて言った。


「私は九尾の狐を待っています。どうか待たせてもらえませんか?」


「本来ならば、このまなこでおぬしにをかけて、ひと飲みにお主を食ってやるところだが、その笛の音に免じて、勘弁してやっておるのだぞ? 天狗の奴めはどう言ったかは知らぬが、この森は主等人間の来るところではないわ。

 九尾の狐を待っておるじゃと? ふん、この森の九尾狐なぞもうとっくに滅びてしもうたわ」


「それでも待たせてもらえませんか? ……もし駄目なのだとしたら、今、この場で貴方に食われたほうがいい!」


 男の、静かだが強いもの言いに、大蛇は興味深げな目つきになった。


「むう。何故じゃ、何故そこまでこだわる? この森ではなく、他の地の九尾狐ではいかぬのか?」


「ええ。それもただの九尾の狐ではありません。……いや、貴方にとっては何の変哲もないただの九尾狐でしょうが」


 男は理由わけを話し始める。大蛇は心無しか目を細めているよう。蛇は決して目を閉じないというのに……。大蛇の尻尾が鳴らせているのか、どこかの草むらが、風もないのにがさがさと音を立てている。


「……ふん、人間らしい理由だな。だがやはり、この森にお主のような人間がおることは許さん。今この場で儂に食われるか、早々にこの森を立ち去るかの二つに一つじゃ。但し!!」


 大蛇は理由を聞いた後、こう言って言葉を切ると男が気押される程の威圧感を発し、彼の顔が青ざめるほどの眼光で男をにらみつけた。

 気も狂わんばかりの重苦しい沈黙が続く。男の額には、じっとりと汗が浮かび、やがて一筋の滴となって顔の側面をつたい降りる。笛を握り締めた手が震え、それを止めようとしてもどうしても止まらない。

 脇にも胸にも背中にも、汗が吹き出し着物に吸われる。身体が妙に熱く感じる。男は心のどこかでそれらを感じ、そしてそれらに気が回るだけの余裕があったことに気が付き、そんな自分に心の中で苦笑した。


「但し、その笛を吹き続けるのならあと七日留まることを許そう。だがそれ以上留まるのならば、儂は手下のあやかしに命じて、二度とここへ戻ってこられぬほど遠くの、異境の地へ放り出す。ぬしのその笛の才あらば、どの地でも身は立てられよう。……これがぎりぎりだ」


 そう言って大蛇は、男の返事も聞かずに森の奥へ帰っていった。

 次の日、一日森が震えた。




「心配するな。ぬしは七日と言わず、気の済むまでここに留まることができるぞ。昨日のことはもう忘れろ」


 そう言って、天狗はよたよたと森の奥から歩いてきた。

 昼間の森の中の騒動は、昨日の大蛇おろちとこの天狗が相争ったことが原因であることは明白だった。

 その日、鳥はあちこちで騒ぎ、飛び立ち、森のあちらこちらで木々が折れ、倒れ、動物たちは次々と森から避難していた。その動物たちは、男の所へもたくさんやってきて、騒ぎがやむまで彼の笛の音を聞き、周りにたたずんでいた。

 男が笛を吹くのを止めると、その場にいたものは皆思い思いの格好で休み、首は森のほうへ向けて、ことの成り行きを見守った。

 森からは、幾度となくかすかな怒号が聞こえ、時折小さな竜巻が、森のあちこちに起こった。男は一度だけ、翼のある人型が空を飛んでいるのを、森の上でちらりと見たような気がしたが、確かなことは分らない。なにぶんにも、彼の近くに生えている木々が視界をさえぎっていて、よく見えなかったのだ。

 騒ぎは、夕方になってようやく静まった。


「……どうも私のせいで、いらぬ争いを引き起こしてしまったようですね……。何も私のわがままの為だけに、貴方がそこまで傷付くことはなかった。……やはり、昨日大蛇に警告されたとき、速やかに立ち去るべきでした。どうも済みません。何と詫びれば良いのか」


 男が満身創痍の天狗に向かってそう言うと、天狗は、いつものしかめ面からは想像もできないような含羞はにかんだ笑いを浮かべ、恥ずかしげに男に言った。


「いや……実は、儂が奴とここまで張り合ったのは、お主の笛をいつまででも聞いていたかったからでな。

 ふ、ふふ。あやかしが人に、人が奏でる音色に魅せられるとは……」


 その夜、天狗は男のところで傷を治しながら、夜が明けるまで笛の音を聞いた。




「もし、そこの御方。済みませぬが私をかくまってくれませぬか」


 そう言って声をかけてきたのは、類稀たぐいまれなき絶世の美女。しかし、髪はほぼざんばら。辛うじて結った跡が判る。元は上等な着物であったろうが、今はボロ同然。顔も薄汚れている。もっとも、男のほうも彼女ほどではないにしろ、似たりよったりの姿をしていたが……何日も着のみ着のままなら当然そうなる。素足で何里も歩いてきたのだろうか、足の爪がいくつか割れている。

 だが彼女の顔は、男であれば誰であろうと保護の手を差しのべたくなるような、か弱くはかなげな美しさがあった。それでなくとも彼女の姿は哀れで、人の同情を引くには充分すぎるほどでもある。


「旅の途中で山賊に襲われ、とものものは皆殺されまして、私一人が命からがら逃げのび、ようやくここに辿たどり着いたのでございます。

 ああ、どうか食べ物と寝床ねどこを分け与えてくださいませ」


 女の声はとても哀れっぽく、普通の人であれば、すぐにでもできうるかぎりの救いの手を差しのべたであろうが、男は笛を吹き続けながらちらりと女を一瞥いちべつしただけで、顔色一つ変えずに笛を吹き続けた。

 女が涙を浮かべながら、黙って唇を固くへのじに曲げて突っ立っているのを見ると、男は片足で、焚火跡に突き刺さっている、食べ残りの焼いた肉を示した。そんな男の傲慢ごうまんな態度に対して、女はきっと男をにらみつけたが、しばらく後に、座り込んで肉を食べ始めた。

 彼女は食べ終わった後、しばらくその場にじっとしていたが、やがておずおずと男の隣に移って座り込み、男の横顔をじっと見つめ始めた。

 男は相変わらず笛を吹き続けながら、自分のとなりに座った女を一瞥した。それだけだった。


「一応、助けてくれた御礼は言っておきます。しかし、貴方は本当に血の通った人間なのですか? 貴方の態度はとても人と付き合うものとは思えぬほど冷たい」


「貴方だけですよ、こんな態度で人と接するのは」


 ようやく笛を吹くのを止めて、開口一番に女に対していった言葉がこれだった。そして、言うが早いかまたすぐに笛を口にくわえた。


「笛を吹きながらここに座り続けて、一体何をしているのですか!?」


 女は、男が笛を吹き始める前にこう言い放つと、男は溜め息をつきながらこう答えた。


「貴方に答える義理などは無いのですが、まあいいでしょう。私はここで九尾の狐を待っているのですよ」


「もしかして貴方は、女には全く興味を示さぬやから……」


「私は、魅力的な女性だったら充分に心ひかれるぐらいは、世俗的な価値観の持ち主ですよ。……しかし貴方はとても鈍いですね。ここまで近くにいるのにまだ気付かないとは」


「一体何のことですかっ!?」


 女が、たまりかねたようにこう叫ぶと、男の後ろから、黒く大きな人型の異形が身を乗り出してきて言った。


「つまり、わし貴奴きやつの後ろにおったというのに、儂の気配に全く気付かぬお主は相当な間抜けということだ。下賤な力持たぬ鬼よ」


「貴方が私に声をかけてくる前に、彼が教えてくれたのですよ。

 それに貴方はうまく化けたつもりでしょうが、言葉の端々にボロが出ていましたしね。いや、でも普通なら男は皆引っ掛かっていたかもしれない……」


 男がこう言った瞬間、女は、いや、鬼は本性を現して元の姿に戻り、彼に襲いかかる。が、天狗が、持っていた団扇うちわで軽く触れるとたちまち塵になって消えてしまった。そして後には、元の持ち主を食って得たのであろう例のぼろ同然の着物が、鬼が消えるまで残っていたが、やがてパサリと地に落ちた。

 男と天狗は、着物の持ち主が成仏することを願って手を合わせ、しばらく微動だにしなかった。

 着物の上で塵が踊る。

 風が森をざわめかせて去っていった。




「これ、そこの笛吹き。私のために笛を吹け」


 と、見るからに国司こくしの服装をした男を中心とした一団は、男の手前で止まると、横柄な態度で彼を見下したようにこう言った。

 人々の悪評高い国司の中でも、受領ずりょうと呼ばれるたぐいの強欲な人間であることは一目で判る。無論、男にもすぐに分かった。

 彼等は道端の真ん中で座り込み、道からはみ出した者は、道端のたけの高い草を無造作に刀で斬り払って、座る場所を作った。


「どうした、早くこちらへ来ぬか。私がせっかく貴様のような下賤な者の笛を聞いてやろうと、有り難くも声をかけてやったのではないか。

 本来なら、貴様は私に頭を下げなかった罪で、首をはねておってもおかしくはないのだぞ? ただ貴様の笛が余りにも絶品なゆえに、そう、それだけで生かしてやっておるのだ」


 男はぐっと腹立ちをこらえながら、つとめてうやうやしく、そしてたっぷりと皮肉を込めて言った。


貴方あなた様のところへせ参じあげたいのは山々なのですが、実は、私はこの森のあやかしたちに、ここを動かずに笛を吹くように言われております。

 もしここを動くようなことあらば、たちまち私は彼等にとって食われてしまうでしょう。私だけならよいのですが、彼等は怒ると見境がなくなる故、貴方様まで襲い食うやもしれませぬ。

 それ故に、今、ここを動くわけにはいかないのです」


 これを聞いてもその受領は、高圧的な態度を崩さずに平然と、男を馬鹿にしたように笑ってこう言ってのけた。


「貴様、それで私を脅したつもりでおるのか? あやかしなど臆病者の作り出した、たわけた作り事に過ぎぬ。それにもし妖がおったとしても、この私の勢力ちからの前には怯えてわ」


 彼がそう言って高らかに笑うと、男の後ろの茂みから巨大な影が起き上がり、その場にいた者全てを縮みあがらせた程のおそろしげな声で、


「では本当に貴様にへつらうかどうか試してやろう」


 と、言い放つが早いか、受領とその周りを取り囲んでいた側近たちに襲いかかり、くわえ込んだ。たまらず彼は男に叫ぶ。


「お、おい貴様、この私を助けろ! 苦しい……」


 彼をくわえ込んだ大蛇は、そのまま彼等を飲み込まずに物問いたげな目を男に向けた。しかし、男は暗い目をして首をゆっくりと振り、彼にさとすようにこう言った。


国司こくし様、貴方あなたは、下賤げせんだなんだと自分に言った相手を助けたいと思いますかな? 貴方は今までそうやって救いを求めた人を、救って差し上げたことはおありか?」


「何を寝ぼけたことを言っておるのだ。私を助ければ恩賞は思いのままだぞ! 早く助けねば払ってやらぬぞ! い、いいのか!?」


 男は溜め息をつき、笛を口にくわえてまた吹こうとした。


「た、助け……」


 声が聞こえなくなった。男が大蛇の腹を見やると、まだ何かが動いている。大蛇は満足げな声で言った。


「全て溶けてしまうまであと半日。しばらくすれば息ができずに、もがき死ぬであろ」


 そう言って、受領の残りの従者を見やる。が、もうそこには人ひとりいない。大蛇おろち若干じゃっかん残念そうな目をして、ふん、と鼻を鳴らすや再び森の中へ戻っていった。

 男は再び頭をゆっくりと振ると、笛を吹き始めた。しばらくすると鳥たちが集まりだし、そして動物もやってきて彼の笛の音を聞いた。




「もうすぐ盂蘭盆うらぼんだな」


 ある日、男のところへ笛を聞きにきた天狗が、ぼそりといった。


「ええ、確かにあと七日もすれば、盂蘭盆になりますね。……しかしそれがどうかしましたか?」


 男が笛を吹くのを止め、天狗の言葉にそう答える。天狗はむずかしげな顔をして、しばらく黙り込んでいたが、やがて男にいった。


「盂蘭盆だぞ? お主、言葉の意味が分っておるのか? 死者たちが黄泉比良坂よもつひらさかより戻ってくるときだ」


「ええ、一族が住む家に先祖の御霊みたまがやって来るときですよ。私も本来なら先祖を祀って慰めなければいけませんが……」


 天狗はやれやれといった顔をして、顔をゆっくりと振り、


「やはり何も分かってはおらぬ。全く人というのは何故そう言ったことを忘れたり、都合良く変えたりするのか……。確かにそういった面もあるにはあるが、この時期に黄泉比良坂から戻ってくるのは、祀られ、供養されている霊だけではないわ。

 恨みを残して死んでいった者や、死んでも死にきれぬものが、生者を黄泉路よみじに誘いこんで引きずり込む時期じゃ。この地にもそうした霊はいくらでもおる。そしてわしは、そのものたちからお主を守ってやるすべを知らぬ……。ぬしは死者のいざないにあらがうすべを知るまい?」


 そう言われて男は考え込んだ。男の笛の音に絡めとられた動物たちの呪縛が解け、心配げな表情を彼等二人に向ける。

 天狗はそのまましばらく考えこんでいた後、ふところから紙を取り出すと、右手の人差し指をと口にくわえる。注目の中、やおらに口のあたりでという音がする。そして天狗は、血のしたたる少し噛み切った指先で紙に何かを書き始めた。


「儂のおらぬときにもがあるかどうか、まだ全く分からぬ。まだそんなことは試しておらぬからな。だが、いまさらそれを言うても仕方がない。とりあえずこの護符をもっておけ、せめてもの気休めだ」


 そう言って天狗はその紙を男に押しつけた。

 はたして、盂蘭盆は来た。


「あああ、苦しいよう……」

「恨み。苦痛。狂気。怨嗟。孤独。無常。流転。災疫」

「ひひひひひひひひ! ひひ! ひ……」

「助けて! 助けて! 助けて! 助けて!」


 彼等は、三日目の盂蘭盆が終わる夜にやってきた。男は笛を吹く。


「ぎゃああああ!」

「おいでよ……」

「食う。食って殺す。殺して叫ぶ。叫んで砕く……」

「何故だ! 私は何もしちゃいない! なのに何故奴ばかりが良い目を見るのだ!! 悪事を行っているばかりの奴が……」

「いやだ、あんな寒くて暑くて痛いところは嫌だ」

「貴様も我等と来るのだ!!」


 あたりに声だけが響く。男の額に汗が浮かぶ。男は焚火の明かりさえ恐ろしく感じた。この日に限って揺れ動く炎。

 声がやんだ。焚火の炎がはぜる音だけしか聞こえない。夜風が吹く。風に揺らされて森の木々が葉をかき鳴らし、さざめく。……踊る炎。

 影が絶えず濃さと動きを変える。男は笛を吹き始めては止め、吹き始めては止めていた。夜風は草木に呟きを強要する。

 馬の足音が聞こえた……だがやんだ。剣を打ち合わせる音が聞こえた……だがやんだ。何かを引きずる音が聞こえた……これはやまない。何かを引きずっては休み、休んでは引きずる。うめき声。だんだん彼に近付いてくる……だがやんだ。男は身動き一つしない。

 森の奥で何かの影が素早く動いた。人のような気もする。少しするとかすかに嘲笑が聞こえた。焚火の木がまたはぜた。

 男が気が付くと、焚火の火が随分小さくなっている。木を足さなくてはいけない。しかし折り悪く、薪は手元にはもうなかった。森に取りにいかなければならない。男は決めかねたようにしばらく炎を見つめていたが、やがて手頃な木を焚火から抜き出し、森に向か……おうとすると、またさっきの影が森の奥でうごめいた。

 男はえてその影のことを頭から追い出し、腰に笛をさして、森に薪を取りにいった。

 しばらく男は、闇夜に目を凝らして薪を拾い集めていたが、突然背後でパキリと音がしたので、全身から血の気が引いた。何か、この世のものでは絶対にない気配が背後に感じられる。天狗の言葉を思い出した。


『良いか、死者が後ろに立ったときは、決して振り向いて目を合わせてはならぬ……』


 男は叫んで逃げ出すか、振り向いてしまいたくなるのをこらえた。そして、男の肩にぞっとするほど冷たい手がおかれたとき……手元の火が消えた。

 男は走った、焚火に向かって。しかし男が近付くと、嘲笑うかのように焚火も消えて、あたりは真の闇になった。ガラガラと音を立てて男は薪を落とし、その場に立ち尽くす。そして……。

 馬の足音が聞こえた……だがやんだ。剣を打ち合わせる音が聞こえた……だがやんだ。何かを引きずる音が聞こえた……これはやまない。何かを引きずっては休み、休んでは引きずる。うめき声。だんだん彼に近付いてくる……だがやんだ。男は身動き一つしない。

 何かが、彼の全く知らぬ何かが、彼に忍び寄る。凶々まがまがしい気配がふくれ上がり、彼は凍りつき、闇は沈黙し、森はざわめき、亡者はさまよう。

 ……ふと気が付くと、気配は急速に弱まっている。空を見ると、夜明けの前兆である何とも言えぬ青白さがあった。

 その日の夜明けから一日中、男は死者をとむらうための旋律せんりつを紡ぎ続けていた。




「いたぞ! ここだ! 今度は思い知らせてやるぞ!」


 それはある日のこと、男がいつも通りいざないの曲を吹き続けている昼下ひるさがりに彼等はやって来た。

 男の周りにはいつものとおりに動物がはべり、不意の乱入者に、怯えた目を向ける。男は笛を吹くのを止めて、彼等を見る。この場に留まるための足かせが無くなった動物たちは、慌てて森の奥へ逃げ込む。


「てめえ、今度は前のようにはいかねェぞ! この前みたいに化け物呼ぼうとしたって、こっちにゃどえらい法力を持った坊様がついているんだぜ! 何を呼ぼうが、坊様の力の前には一発で御陀仏よ!」


 彼等は以前に、大蛇に飲み込まれた受領の、逃げ出した家来だった。

 彼等は男の周りを、太刀を構えたまま取り囲み、眼をやってきた方向に向ける。そこには、頭をそり上げた、いやに強欲な笑みを顔に浮かべた僧らしき者がいた。


「ほっほっほっ。貴様がこやつらの言っていた化け物使いか。そなたには何の恨みもないが、死んでもらうぞえ」


 しかし、周りを取り囲んだ男たちの一人は、心配げにいった。


「おい、本当に化け物は来ないんだろうな?」


「案ずるな。拙僧せっそうが経を唱えれば、どんな化け物でも近寄れぬ」


 そう言って、その僧は怪しげな言葉──それは決して経などではなかった──を呟き始め、懐に手を入れたまま男に近寄り始めた。

 男は動こうとしたが、周りの刀で身動き一つできない。

 薄笑いを浮かべて近寄る僧侶。そのとき男は、彼が唱えているのは、ただでたらめに並べた言葉に過ぎないことに気が付いた。

 『この男は僧などではない! こいつはおまえ達をだましているのだぞ!』そう男が言おうとしたとき、そのインチキな僧は、男の口を左手で素早くふさぎ、懐から出した小さな刀で男の腹を刺した。


「今じゃ! こやつの腹を刀で刺せ! 但しわしにはあてるなよ!」


 立て続けに、痛みとともに男の腹へ、冷たい異物が前後左右から侵入してきた。男の身体が痙攣し、眼が大きく見開かれる。


「…………!!……」


 声にならない悲鳴が出、そして身体を貫いていた刀が抜き取られる。男の手の中から、笛がこぼれ落ちて岩に一度あたり、と音を立てると、地面に落ちた。そして男たちが彼から離れると同時に、彼の身体も岩から転げ落ちた。

 ……激痛に薄れゆく意識、自分の血にまみれゆく彼の笛。


「お前さんに恨みはないが、おかげで儲けさせてもらったよ。ひひ……」


 イカサマ坊主が手を合わせて屈んだとき、小さな声でそう呟いた。

 そしてその場にいた男たち全員が、彼の真っ赤な血が流れ出るさまを見下ろした時、一陣の突風がいきなり吹いて、森の奥から世にも恐ろしげな声が鳴り響いた。


『貴様等、いかな理由でその男を殺したかぁ!! たとえ訳が何であれ、ぬし等は絶対に許さぬぞぉ!!』


 彼等の目の前で、風が集まったかと思うと、凄まじい悪鬼の形相を顔に張りつけた、赤ら顔の天狗が立ちはだかった。

 イカサマ坊主を先頭に、男達は我先に逃げ出した。が、いつの間に立ちはだかったのだろうか、うろこおおわれた壁が、逃げ道をふさぐように配置されていた。男達はなじるような目で、彼等が法力僧と信じる者を見た。しかし、その男はただ蒼顔そうがんで震えるばかり。


「こ奴等は、以前に儂が食らいそこなった者どもじゃ。主は手を出すでないわ。儂の獲物じゃ、儂が食う」


 壁のはしが持ち上がってこう言った。僧侶もどき以外の男たちには、それが何であるのかは、嫌というほど判り過ぎていた。

 天狗はその壁……いや、大蛇おろちの言うことなど意にもかいさずに、手にした団扇うちわで風を起こした。その風は、鋭利な刃物となって男たちに襲いかかり、身体を切り裂いてゆく。風が収まった後に残ったのは、手足が無くなって、苦痛に悶え、恐怖に駆られて逃げようとしつつも、果たせずにもがき続ける、肉のかたまりがあるだけだった。


「あとは主の好きにせい」


 ぼそりと低い声でそう呟くと、天狗は、倒れて血を流し続けている、笛吹きの男へ駆け寄った。後ろで、思わず耳を塞ぎたくなるような悲鳴が次々と起こる。だが、やがてそれも静まった。

 天狗は男をそっと抱え起こし、話しかける。


「気を確かに持て! 左無さなくば、なおる傷もなおらぬぞ! 主は九尾狐を待っておるのだろうが!! 死ぬるな、死ぬるな、死してはならぬ!」


 天狗の声はだんだん大きく、悲痛になっていき、最後のほうはほとんど叫び声になっていた。


「たのむぅ! 儂にもっとあの笛を聞かせてくれぇッ!!」


 男は薄く目を開け、血がのどからんだ、小さなわかりずらい声で、ようやく天狗に、岩にまた乗せてもらえるように頼んだ。


「馬鹿な。この身体で笛を吹くつもりか。確かに笛は聞きたいが、別に今すぐと言った覚えはないぞ。無理はするな」


 男はうつろな目で薄く微笑ほほえみ、口のはしから血をしたたらせながら言った。


「いえ……もう判っています。もう……この……この傷では長くもたないことは……。ならば、少しでも……少しでも長くをこの笛で呼んでいたい……。お願いします……」


 天狗は首を振ると、自分の着物を裂いて傷口に巻き、止血を始めた。が、しかし、その作業を続けながらも、天狗は途中から顔をくもらせはじめた。そして止血が終わると、しばらく男を見詰めて考え込んでいたが、意を決したように男を抱き抱えて、岩のところへ連れていった。

 男を岩に座らせると、拾ってきた血塗ちまみれの笛を、腰に下げていた瓢箪ひょうたんの中の水で洗い清め、男の手に付いた血も洗い流してから手渡した。

 荒い息で笛を握り、吹き始める。それは、今までの笛のの寂しげな美しさとは違った。天狗も、そしていつの間にか男のかたわらにに近寄って、様子を心無しか心配げに見守っていた大蛇おろちも、その笛のを聞くやその場で硬直して目を見張った。

 動物たちが、まるで魂を抜き取られたような顔をして、森の奥から次々とやってくる。男の、文字通り血のにじむ笛のに、天狗も大蛇おろちも我を忘れて涙を流した。

 そのまま、いかばかりのときがたっただろうか、男はついに森の奥から一人の女が現れるのを見た。

 夕暮れの、濃いとう色の黄昏たそがれに染まる森の木々の間から、彼女は静かに歩いてきた。……それは、彼がその生涯で最も愛した女性。彼のもとから去っていった、人ならざる良き伴侶。彼がこの地で待ち続けた理由。

 笛のが止まり、かたわらのあやかし怪訝けげんな顔で彼を見詰める。

 その、魔性の美しさが漂う女は、恋しさと寂しさのあふれる表情で彼にゆっくりと頭を下げ、そしてゆっくりとかなしげに笑った。それから彼女は、九つの尾の狐に姿を変えながら後ろを向き、森の奥へ去っていった。森の奥の遠くから、男の耳のもとへ、狐の悲痛な鳴き声が一つ漂い聞こえてきた。


 男は、自分が涙を流していることに、気付きもしなかった。

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