聖女の最期2

 魔族と魔王の記憶がなくなったからといって、私が聖女でなくなったわけではない。夫を事故で失った聖女として教会を治めることになった。

 フィーネが何度か心配して私の様子を見に来たが、普段はルースレスと共に生活しているので頻繁に来られるわけではない。

 魔族はもはや存在していない生き物だ。人前に出てこられては困る。


 ラストを通して魔王にお願いして、ノイジィの歌をラストの風に乗せて大陸中にばら撒いてから二ヶ月が経過した。


 胸のむかつきと吐き気から、妊娠していることはすぐにわかった。父親が誰なのかは、考えるまでもない。


 魔族の協力がなくなったことにより、身分問わず魔法について学べる場所の設営は予定よりも大幅に遅れている。

 忙しいときに、なんと間の悪いことだろう。


 だが、この子どもを産まなければ新たな夫が宛がわれることは目に見えている。教会を治める立場の人間がいなくては、教会はままならなくなる。


 私の夫はマティス様だけだ。歪な関係だったが、私と彼は確かに夫婦だった。


 安静を強いられたことによって無事子は産まれたが、学園の完成はより遅れてしまった。

 遅れを取り戻すためには、一刻も早く復帰して計画を進めなくてはいけない。


 腕に抱いた子は私と似た黒い髪に青い瞳をした女の子だった。可愛いか可愛くないかと聞かれたら、可愛くないと言えば嘘になる。

 だがそれでも、かまけているような暇はない。


 忘れたくないと思っていた人の記憶まで奪い、築き上げてきたはずのものを壊した私は、一日でも早く成果を出さないといけないと考え、がむしゃらに動いていた。


「リリア」


 子どもを産んでから三ヶ月が経ったある日、ライアーが私を訪ねてきた。

 ライアーには魔王を通して魔族と魔王について載っている書物を処分してもらっている。

 忙しすぎるのだろう。こうして会うのはあの日以来だ。


「子どもを産んだんだって?」

「三ヶ月も前の話なのに、今さら?」

「忙しかったからね」


 文机の上に置かれた蝋燭に火を灯し、寝台に腰を下ろして私を見つめる彼はいつまでも変わらず、いつもどおりだ。


「じゃあ、あまり長居すると魔王に怒られるんじゃない?」

「別にいいよ」


 よくない。文献が残っていては困る。

 すべてなくして、それから作り直さないといけないのに、悠長に構えてほしくはない。


「ねえ、キミが魔王にお願いしたって聞いたけど、本当?」

「……うん。そうだよ」

「どうして?」


 ――どうして、そう聞きたいのは私のほうだ。


 どうして後少し待っていてくれなかった。どうしてマティス様を殺した。どうして、私に会いに来る。


「ライアーなら灰も残さず燃やせるから適任でしょ」

「……リリア」


 赤い瞳が揺れ、伸ばされた手が水の膜に弾かれる。


 濡れた指先をライアーは茫然と見つめていた。


「……どういうつもり?」

「どうって?」


 呆然とした顔はすぐに怒りに染まった。

 拒絶すればライアーが怒ることは嫌でも知っていた。だがそれでも今の私を殺すことはできない。魔王にそう命令されているはずだから。


「キミはボクのものなのに、こんなことをしていいと思ってるの?」

「違うよ」


 首を横に振ると、ライアーは目を瞬かせ、言葉の意味を飲みこめずにいるのか固まった。


「私はもうライアーのものじゃないよ。マティス様の妻になったからね」

「だからって――」

「マティス様との結婚を許してくれたのはライアーでしょ?」


 好きにすれば、とそう言って私をマティス様のもとに送り出した。あの時点で、私はライアーのものではなくなった。

 そして今はマティス様もいなくなり、誰のものでもなくなった。


「私はもう、私のことを好きじゃない人のものになるのは嫌だよ」


 マティス様と結婚すると報告したときのノイジィを思い出す。愛なきこんいんになんの意味があるのかと激昂していた彼の言葉に、今ならば「意味なんて何もなかった」と返すことができる。


「リリア、ボクは……」


 そこまで言って、黙りこむライアーに私は苦笑を返す。


「ほら、もう行きなよ。早くしないと魔王に怒られちゃうよ」


 もしもこのとき、嘘でも言ってくれていたら何か変わっていたのだろうか。

 ああ、でもすでに手遅れだったろう。それに彼が私に向けてそんな言葉を言うことはないと、わかっていた。


 何も言わず私に促されるまま姿を消した彼とまた会えたのは、私が死ぬ瞬間だった。


 落石に巻き込まれ、馬車から這い出た私は搭乗していた人たちに向けて治癒魔法を施した。生きているかどうかはわからない。

 だがそれでも、かけなくてはいけなかった。学園の設立を急いで馬車を急かしたのは私だった。


 なけなしの力を振り絞り、力つきた私の前に水色の髪を私のあげた髪紐で結んでいる魔族が現れた。


「なんで」


 呆然とした声を遠のく意識の中で聞いていた。


「なんで勝手に死んでるんだよ」


 漏れ出たようなその声に、動くことをやめようとしている胸が痛んだ。


 死ぬつもりはなかった。そんな声をさせるつもりはなかった。

 なら私は、どうしたかったのだろう。


 幸せにもなれず、何も成せず、何もできなかった。


 ――ごめんなさい。


 それは目の前にいる彼と、私が歪めてしまったすべての人に向けて。




『俺の名前?』


 きょとんとした顔が瞬くのを見ていた。


『勇者って名乗ったらいけないって言われたんだけど』


 そんな決まりはない。


『え、マジで。あー……んー……じゃあ、そうだな。あんたが幸せになって笑えるようになったら、また女神に連れてきてもらうよ。そんで、そのときに教える』


 だから、知りたかったら幸せになれよ――そう言った彼との約束すら私は果たせなかった。



 だけどせめて、彼のくれた言葉を笑って言おう。


 ――ざまあみろ。


 ちゃんと言葉になっていたのかどうかはわからない。目も耳も、すでに意味を失っていた。

 ぐちゃぐちゃになった、もはやどうすることもできない気もちを抱いて、私は意識を手放した。









 暗い闇の中で夢を見た。


「マティスと結婚することにしたよ」

「――は?」


 ライアーがぽかんとした顔でカップを落としかけたのが少し面白くて、小さく笑みを零す。


「何故だ!? どうして! そこに愛などないだろうに!」

「教会の後ろ盾を強固にするためにはその方がいいって言われたから、かな」

「愛なき婚姻などになんの意味があるというのか! そうか、俺への挑戦だな。いいだろう、その挑戦を受けてやろうではないか! そしてその身に愛の素晴らしさを叩きこんで――」


 ノイジィがわめくのを、ライアーが机の上に叩きつけて黙らせた。

 痛そうだ、と他人事のように考えていた私に深い溜息が向けられる。


「勇者のためだからって、キミがそこまですることないんじゃないの?」

「勇者さまのためだけじゃないよ。そりゃあ勇者さまには幸せになってもらいたいとは思うけど、私とお姉ちゃんと気兼ねなく笑い合うためでもあるからね。それに、物語はハッピーエンドじゃないと」


 ライアーが何を言うかなんてわかってる。好きにすれば、と言ってあっさり私を手放すのだろう。

 何を言ってほしいのか、何を言ってほしくないのか、このときの私はよくわかっていなかった。


「――別に、あいつと結婚しなくてもハッピーエンドにはなれるんじゃないの?」

「え?」


 その予想外の言葉に、私は目を瞬かせた。


「キミはボクのものなんだから、他の奴にやるわけないでしょ」

「いやいや、そこは置いておくべきだよね。このほうが皆にいいんだし、魔王だって――」

「どうでもいいよ」


 あっさりと言い捨てるライアーの手が頬を撫でる。柔らかな動きに、私は言葉を失って立ちつくした。


「なるほど、我が友は我らの王の命などよりも、愛した女を取ると言うことか。我が友にも愛が芽生えるとは、愛とはなんと素晴らしいのだろう。これはもはや世界中に広めるべきだろう。そうとなればここで立ち止まっているわけにはいかないな。今すぐにでも皆にこのことを知らせねば」

「いやいやいや! それは飛躍しすぎだよ!? というか、何しようとしてるの! やめてよ!」


 復活したノイジィが部屋を飛び出そうとするのを必死に止めていたら、ライアーの噛み殺したような笑いが聞こえてきた。

 こんなときにまで遊ぶだなんて、本当にこの男はどうしようもない。


「ライアーもからかわないの。私はマティス様と結婚する! はい、決定!」

「いやだから、駄目だって言ったよね」


 ひょい、と重さなんてまったく感じさせない動きで私を抱えると、ライアーはこれまでしたことがないような、優しい笑みを浮かべた。


「あ、あの?」

「愛、愛ねぇ。うん、まあそれでもいいか」

「いや、よくないよね。何言ってるの。ノイジィに魔法でもかけられたの?」

「そんなわけないでしょ」


 呆れた声に遊びは終わりだとわかり、ほっと胸を撫で下ろした。人をからかうのもいい加減にしてほしい。


「ボクがキミを好きだっていうことに、そいつは関係ないよ」

「――な、は、はあ?」

「やはり愛ではないか! この吉報を知らせ、祝福の宴を開かねばならないな!」

「私はまだ何も言ってないのに、勝手に話を進めないでくれるかな!?」


 走り出すノイジィを、抱えられた私では止められず、ただ背中を見送ることしかできなかった。

 ライアーとふたりだけになり、ぽかんと口を開いていた私の耳に楽しくてたまらないといった笑い声が聞こえてきた。


「ああ、もう、どうしてくれるの。あれだと魔族だけじゃなくてお姉ちゃんにも魔女にも魔王にも伝わっちゃうよ」

「別にいいんじゃない?」

「よくないよ。もう、馬鹿じゃないの。私を好きとか、そんな嘘ついて……もっと状況とか、色々考えてよね」

「なんで嘘にするかなぁ」

「だって、そんな、ありえないでしょ」


 私をペットか何かのように扱っていたのはライアーだ。それなのに、好きだとかなんとか言われても、愛玩動物に対して可愛いなぁと言うようなものとしか思えない。

 ああ、そうか。きっとそうだ。きっとそういう意味の好きなんだ。


「好きだよ。嘘じゃなくね」

「うんうん、わかってるわかってる。だけどそれと結婚は別の話だよ」

「同じだよ。キミを他の男にやるつもりはないからね」


 額に触れた柔らかな感触に、私は完全に言葉を失った。






 ――そんな、ありえない夢を見た。

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