聖女の最期1

「きっと君を幸せな花嫁にしてみせるよ」



 そう言われてから幾日が経ったのだろう。閉め切られたカーテンのせいで陽の光は差さず、マティス様が来ない限り部屋の灯りも点かない。

 暗く閉め切られた部屋の中で、私はただひとり寝台の上に転がっている。


 切りつけられた肌はマティス様が治療したので痛みは残っていないはずなのに、与えられた痛みが忘れられず動くことすらもままならない。


「リリア」


 暗い部屋の中にわずかに光が差す。扉の向こうは明るく、もしかしたら今は日中なのかもしれない。

 青い瞳を細めて笑うマティス様を出迎えるために、緩慢な動きで身を起こす。


「ほら、食事を持ってきてあげたよ」


 盆の上には平皿に注がれたスープがある。それを寝台の上に置くと、マティス様は寝台の横に備えつけられている椅子に座った。

 私は平皿を持ち上げゆっくりとスープを喉の奥に流しこむ。前に食事をしたのはいつだろう。一日前にも思えるし、三日前にも思える。


「魔族は本当に薄情だね。君のことを心配すらしていない」


 初夜では敵意剥き出しだったマティス様は、いつからか前のように優しく穏やかに笑うようになった。

 魔族と密な関係ではないとわかったからか、思いのほか従順な私に気をよくしたのか、理由はわからないし、痛みが与えられることに変わりはないので、どうでもいい。


「もうすぐひと月が経つ」


 空になった平皿を盆の上に置いて、首を傾げる。


「俺と君が結婚してからだよ」


 まだひと月と思うべきか、もうひと月と思うべきか。

 魔族は時間間隔が曖昧なので、一ヶ月もの間私と会っていなくても何も不思議には思わないだろう。下手するとほんの数日会っていないだけにしか思っていないかもしれない。


「陛下がそろそろ君を復帰させろとうるさくてね」

「……陛下が?」

「ああ、そうだよ。君と色々話したいらしい」


 盆を文机に置き、代わりにマティス様が寝台の上に乗りあげてきた。ぎしりときしむ音に体が震えた。


 マティス様が復讐を思う気もちも、私に当たることによって留飲を下げていることもわかる。

 私もそうしたかもしれないのだから、当然だ。未来を知らなければ、私は復讐に身を任せていた。


 わかっているはずなのに、痛みから逃がれたいと体が反応してしまう。

 そんなこと、私は望んでいないのに。


「君はここから出たら陛下に泣きつくだろう?」

「そんなことは――」

「ああ、いい。この状況で肯定するわけがないことはわかっている」


 口を手でふさがれ、それ以上は何も言えなくなった。

 本当に何かを言うつもりはない。魔族に対する怒りを忘れられないのは当たり前だ。


 それでも、もしかしたらと思ってしまった私が馬鹿だった。

 そんなことは無理だと、いつまでも恨みを忘れられない私が一番わかっていたのに。


「だからね、ほら。これを用意したんだ」


 その手にあるものがなんなのか、すぐにはわからなかった。


「君が罪人だということをその体に刻めば、助かろうなんて気はなくなるだろう」


 口をふさいでいた手に力が入り、そのまま寝台に押し倒される。

 ただの黒い鉄の棒に見えたそれの先がじわじわと赤く染まっていくのを、息をするのも忘れて見つめた。


「さて、どこがいいかな」


 手が頬を撫で、首に振れ、寝衣のボタンを外していく。解放された口は声を出せず、ただ乱れた息を吐き出している。


「ああ、傷跡は残さないから安心してほしい。誰かに見られても困るからな」


 じゅう、と胸の間に熱いものが押しつけられる。声にならない叫び声を上げて、頬を流れる涙で視界が潤む。

 潤んだ視界の先で、無表情のマティス様が私を見下ろしていた。


 もしもこれで、笑っていたり、痛ましいものを見る目で見ていたら恨み言のひとつでも言えたかもしれない。

 だけどマティス様にとってこれは遊びでもなんでもない。ただ淡々と復讐しているだけに過ぎない。


 ――そして、死を望んでいるだけだ。


 マティス様は魔法の概念を理解し扱っている。

 だから私が持つ魔力量も、何ができるのかもわかっている。マティス様をたやすく殺せるだけの力があることを、知っている。


 自分が死んだ後にどうなるのかも、全部理解してマティス様はこうしている。


「マティス、様」


 息を何度も吸い、吐いて、途切れ途切れの声で夫の名を呼ぶ。

 わかっている。全部、すべてわかっている。だって、私だってそうしただろうから。


 伸ばした手で触れた頬は冷たく、さらりと流れる銀の髪は柔らかい。


「あなたは、私の、夫です」

「そうだね。君は俺の妻だ」


 触れるだけの口づけをして、マティス様の顔が離れるとすぐに二度目の痛みが腹部を襲い――私は気を失った。



 行き場のない怒りから解放されるために痛みを与える夫と、与えられる痛みで行き場のない怒りを鎮める妻。

 本当に、私たちは似合いの夫婦だ。





 

 両親のばらばらになった姿と、フィーネの目が抉られる瞬間。そして耳をつんざく悲鳴。

 そのどれもが、つい先日のことのように思い出せる。忘れてはならないと何度も何度も思い出して、記憶に強く焼きつけた。


 魔族に怒る権利があるフィーネはすべてを忘れていた。だから、私だけは覚えていないといけないと、ずっとそう考えて、忘れてはいけない、忘れてはならないと何度も自分に言い聞かせた。


 彼らが村で何をしたか、フィーネに何をしたか。私だけが覚えていて、私だけが知っていた。


 安穏とした生活の中で穏やかな気もちになるたびに、浮かぶ情景が私を苛めた。

 すべて忘れているフィーネはいい。すべて覚えている私が彼らを許したら、あの日抱いた痛みや苦しみ、無力さに対する嘆きはどうなる。


 許せるわけがない。許せるはずがない。

 何度もそう自分に言い聞かせた。


 ――そしてあの日、私が前いた世界から来た勇者と出会った。



 彼はとても普通の人だった。

 普通に笑って普通に馬鹿をする。そんな人だった。


「そんなところでうずくまって、どうしたんだよ」


 屋敷の庭でひとりでいた私に、彼は気軽に話しかけてきた。


 魔族の緩やかな死を望み、聖女になる道を選んでフィーネの目まで食べたのに、計画を進めている間の穏やかな時間に心を預けてしまいそうになる自分に嫌気がさして、ひとりで落ちこんでいた。


「何か悩みがあるなら聞くぞ。あー、つっても、いい感じのことが言えるかはわかんねぇけど」


 頬をかいて横に座り、へらりと相好を崩す彼に私は小さく息を吐いた。

 彼はこの世界とは関係のない人間だ。ただ女神様に喚ばれただけの、魔族と人間との確執を知らない人だ。


 そして、近いうちに帰る人でもあった。


 だから私は、初めて戻ることも進むこともできない、どうしようもない感情を吐き出した。

 全部、ではない。互いに傷つけ合った魔族と人間が本当に手を取り合えるのか、そんな不安と当時の怒りが風化してしまいそうな、死んだ人たちに対する罪悪感を語った。


「お、おお、そりゃあ、またなんとも……」

「このままだと忘れてしまいそうで、あの日抱いたものを全部なかったことにしてしまいそうなんです」

「あー、なるほどなぁ……。うーん、でもさ、忘れるのはしかたないんじゃねぇの? 俺のいた世界でも戦争とか、まあ色々あるけど……俺のいた国じゃ遠い昔の話になってるぐらいだからな」


 その国は私がいた国でもある。

 犯罪こそあるが、それは身近に迫らない限り遠い別の場所で起きた事件でしかなく、降りかからない限り他人事のように平和を謳歌していた。


「だからさ、結局時間と共に忘れるのはしかたないんだよ。いつまでも当時の気もちのままいられる奴なんて限られてるし」


 腕を組んで真剣に悩んでいる彼を見て、私は思わず口にしかけた反論を引っこめた。


「俺はさ、あいつらが何をしたのかを実際に見たわけじゃねぇし、何も知らないけど……ひとつだけわかることがある。どんだけ戦争して、被害が出ていても、平和な時間が長いと人は平和ボケするってことだ」

「それって、胸を張って言えることですか」

「言えるんだよ。どんなことでも、結局は幸せになったもん勝ちだ。被害にあった奴は可哀相だとは思うけど、それであんたが幸せになれる道を放棄してもどうにもならないだろ」


 彼は本当に、平和ボケした男だった。

 綺麗事で、結局平和な世界から来たからにすぎない意見だった。


「あんたらのせいで不幸だったって嘆くよりもさ、あんたらに何をされても幸せになったぞ、ざまあみろって笑ってやればいいんだよ」

「ざまあみろって……子どもですか」

「いや別に、ざまあみろじゃなくてもいいんだけど……まあ、なんつーの? ひとりで抱えて泣いているよりも、あんたが笑ってるほうがあんたの姉貴も幸せになれるだろうし、ふたりで幸せになって見返してやればいいじゃんって、まあそういうことなんだけど」


 そう言って、乱暴に頭をかくと真剣な顔で私に向き直った。


「それにさ、あんたは笑ってるほうが可愛いよ」

「そこで私を口説きますか? 普通」

「傷心の女の子につけこむのは軟派の常套手段だからな」

「前いた世界では軟派師でもしてたんですか」

「いや、違うけど。でもほら、可愛い女の子の前ではかっこつけたくなるのが男ってもんだろ。……まあそれで調子いいこと言ってここに連れて来られたんだけどな」

「馬鹿ですかあなたは」

「そうそう。馬鹿な俺でも勇者になれるような世界なんだ。あんたが聖女になって幸せになれても不思議じゃないだろ」


 綺麗事ばかりで、何も知らないからこそ軽く言えるのだと思う気もちはあった。

 だがそれでも、調子のよいことばかり言う彼に毒気を抜かれたのは確かだった。



 そして、彼が帰った後に訪れた王城で王様と出会い、魔族と人間が語らう場ができた。


 それは、魔族と人間が手を取り合い、彼みたいな人間が産まれることのできる、平和ボケした世界を作れるかもしれないと思えるような光景だった。


 あの日から少しずつ減っていた肩の荷がさらに減り、このまますべて忘れて安穏とした生活に身を委ね、魔族に――ライアーにざまあみろと言える日も来ると、そう思えた。



 ――まあ、そんなことはなかったのだが。




 結局怒りを忘れることはできないのだと、マティス様を見て気づいた。

 目的のためには手段を選ばず、そのためには自身の死すらも厭わない人間もいるのだとわかった。


 そして私も、そちら側の人間なのだと思い知らされた。



「ごめんごめん、遅くなっちゃった」


 暗い部屋の中に差しこむ光と、マティス様ではない――聞き慣れた気軽い声。

 明かりの中に浮かぶ水色の髪に、どうしてという言葉が浮かぶ。だけどそれを口にすることはできなかった。


 にこやかに笑う彼の手に握られている、私の夫だったものの頭に目を奪われた。


 ――それはまるで、あの日見た両親のようだった。



「ボクたちを恨んでたなんて、こいつも馬鹿だよねぇ」


 悪気のない顔に、私は泣きながら笑った。


 夫が死んだ悲しみと、すべてを無駄にされた怒りと、私と似た夫が殺された恨みと痛み、そして会っていないことに気がついて来てくれた嬉しさが入り混じり、ぐちゃぐちゃの頭では流れる涙を止められなかった。


「どうしたの?」


 夫だった者の頭が床に転がり、血に濡れた手が頭を撫でた。




「……アベルが死んだそうだな」


 王城の執務室で、やつれた顔の王様に私は「はい」と短く返した。


「どうして、なのかは聞かない。病死、いや事故として処理するのだろう」


 私はまた「はい」とだけ答えた。


「余に会いに来たということは、報告したいことがあるのだろう」


 憔悴した紫の瞳が私を捉える。

 本当にこれでいいのか、まだ迷いはある。だがそれでも、こうするしか道は残されていない。


「魔王と手を結ぶ道は閉ざされました」

「ああ、そうだろうな」


 教会のトップを立つ者が魔王に連ねる者に殺されたとなっては、民衆も黙ってはいないだろう。教会も魔王を女神に仇なす者として拒絶するだろう。

 元々不満を押さえこんでの政策だった。教皇の死をきっかけに、不満は爆発する。


「すべて、なかったことにします」


 人間と魔族や魔王との確執は消えない。すべて覚えている限り、どうにもならない。

 だから魔族のことも魔王のことも忘れさせて、人々から恨みと怒りを消さないといけない。


「魔王は……兄はそれを了承しているのか?」

「はい」

「……そうか。ならば余から言うことは何もない」


 肘を机の上に置き、組んだ手の上に額を当てて俯く王様に私は何も言えず目を伏せた。

 兄との距離を詰めようと頑張っていた王様。人の世をよりよくしようと切磋琢磨して、不満を押さえ続けていた王様。

 彼の、これまで私と出会ってからの頑張りを私は無にしようとしている。


「ごめんなさ――」

「余は不甲斐ない王だ」


 口にしかけた謝罪が遮られる。

 王様は俯いたまま、私を目を合わせることなく細々と言葉を紡いだ。


「何もできず、何も成せず、幼い子どもであった勇者に手を貸すこともできず、聖女となり重荷を背負ったそなたを助けることもできなかった」

「そんなことは」

「よい、余については余が一番わかっている」


 勇者が旅立ったとき、王様もまた幼い王様だった。

 私の重荷は、ほとんどが私のせいだ。抱えた恨みや怒りをどうしようできずくすぶらせ続けたせいだ。


 王様が自分を責める理由はどこにもない。


「……すまなかった」


 か細く、下手すると聞き逃してしまいそうな小さな謝罪の言葉は、すぐに遠くから聞こえてきた歌にかき消された。



 この日、魔族と魔王は人の世から消えた。

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