番外 サミュエル・マティス

 教会の上に立つ者に相応しい振る舞いを。

 教皇の名に恥じぬ振る舞いを。


 そう言われて育ってきた。


 女神様の教えは絶対で、教皇である父の言葉も絶対だった。教会で暮らす人のことしか知らなかった僕にとって、それが世界のすべてで、当たり前のことだった。


「僕の妹と会ってみない?」


 気紛れに遊びに来た僕の従兄の誘いを一度は断った。父に聞いてみないとわからないと、そう言って。


「あいつの娘か……。矯正できるようなら教会に連れ戻すのも悪くないか」


 厳しい顔をした父は僕に従姉に会えとそう言った。だからそれに従った。



 教会関係の人以外と会うことがほとんどなかった僕は、初めて会う貴族として育った女の子を前にして、何を言えばいいのか、父の名を貶めることのない振る舞いとは何かを考えるのに精一杯だった。

 教会ではありえない質問の数々にどう答えればいいのかで頭を悩ませた。


 どう答えるのが教皇として相応しいのか、そればかりを考えていた。



 僕の従姉との出会いは、僕の人生に一石を投じた。彼女は教会について詳しくなくて、教会の人に聞かないようなことまで聞いてきた。

 それは教会が絶対的なものだった僕にはとても新鮮で、悩むことは多かったけど、それでも楽しいと、思ってはならないことを思わせた。


 そしてあの日、僕のこれまでは一気に崩された。



 突き刺さるような視線に晒されて、僕の胸はこれまでにないぐらいに高鳴った。


 何かを欲してはいけない。

 すべては平等であるべきで、優劣をつけてはいけない。


 そんな教えは一気に吹き飛んだ。彼女が欲しい。彼女を僕のものにしたい。その視線も声も、僕だけに向けてほしい。


 だけど教会は教皇に妻を認めてはくれない。

 教皇の妻は聖女であるべきで、聖女の夫もまた教皇であるべきだとされている。家族間での婚姻はできないので、教会の上に立つ者に配偶者は認められていないも当然だった。


 だけど配偶者を持たないというだけで、教会に勤める者は等しく教皇の手が付く可能性があった。治癒魔法が優秀な者のほうが好ましいが、そうでなくても構わない。女神様の教えは命を育むことを是としているし、子を成すことが何よりも大切だとされている。


 父は忙しさにかまけて僕以外の子どもを作ろうとはしていないけど、いつ気が変わるかわからない。そんな環境に彼女を引っ張りこもうとは到底思えなかった。



「教皇様、来年の学園についてなのですが」


 僕から話しかけたことがよほど珍しかったのか、父は驚きで目を見開いて、それから煩わしそうに眉を寄せた。

 これからお願いすることは、教会の教えに反することだろう。だけど認めてもらわないといけない。


「僕は貴族として学びたいです」


 父はわずかに疲れた顔をしながら、僕の言葉の意味を吟味しているようだった。


 夕食の席で盛った精力剤が効いてくるまで後どれぐらいだろう。すでに冷静な判断はついていないかもしれない。


「貴族として学ぶことの利点をこれから説明してもよろしいでしょうか」


 刻一刻と我慢ができなくなってくるはずだ。すぐにでも修道女のところに赴いて、発散させたいと、そう思っているはずだ。

 精力剤が父によく効くのは、この一週間ずっと盛り続けたのでわかっている。

この分だと弟か妹の顔が見れる日も近いかもしれない。


「……いいだろう」

「ありがとうございます」


 僕が学園に行った後は、修道女に精力剤を託すことにしよう。今でも料理番の人が協力してくれているけど、念には念を入れておいて損はないはずだ。

 教皇の子を産みたい女性はいくらでもいるし、子を成すことは尊ぶべきことだから、僕に反対する人はいない。





 新たな命が宿ったと報告が入ったのは、もうすぐ水の月に入ろうとしていたときだった。教会の学舎と貴族の学舎を隔てる森で、修道士見習いの少年に教えてもらった。


「それは素晴らしいことですね。無事に産まれてこれるように女神様に祈りましょう」

「はい、サミュエル様」


 女神様は命を大切にされる方だから、宿った命を守ってくださるはずだ。もしも駄目でも、子を産みたい女性はたくさんいるからその人たちに任せればいい。

 それに念には念を入れるためには、後何人かほしいところだ。ひとりぐらいは父の眼鏡に適う子どもが産まれてくれるだろう。


 僕が次期教皇になる可能性は減ったけど、それでも僕に従ってくれる人はいる。聖女様の血を継いでいることがわかる黒髪は、信徒にとってはとても素晴らしいものに映るらしい。


 もしも聖女様によく似ている僕の従姉が教会に来ていたらどうなっていたのだろう。きっと敬われて崇められて、父の妻にでもなっていたかもしれない。

 多分それは、貴族として育ってきた彼女には窮屈で我慢ならないものだったに違いない。



「どうでもいいか」


 合わない人を教会に無理に引き入れるのはよくないことだ。

 だから父は相応しくないからと聖女になるはずだった姉を教会から追い出した。

 それに彼女は教会には来ないし、大切にしてくれている婚約者がいる。そんなもしもを考えても、意味はない。


 それよりも僕には考えないといけないことがある。次期教皇にならない道はこれで作られた。後はどうやって彼女を説得するか。


 彼女は僕を嫌っているから、生半可なことでは頷いてくれない。

 だから必死に考えないと。僕を婿にするとどんな利点があるか、僕を婿にしないと何が起きるか。


 僕を教皇にしたら駄目な理由を彼女に話せばわかってくれるだろうか。


 子を成すことを何よりも大切にしている女神様の教えがあるのに、父は子を成そうとはしていなかった。それが許されるのなら、教皇になった僕が何をしても許されるはずだ。






「あ、あの」


 訪れた教室で、彼女をどう呼び出そうかと悩んだけど、そんな心配は杞憂だった。一早く気づいた従姉が僕の元に飛んできた。

 従姉が出てくると、彼女の婚約者と、それからその友人もやって来る。婚約者であるルシアン殿下は探るような目で僕を見てくるので、教皇として相応しくないと言われているようで怖かったけど、最近は緩和されたような気がする。


「サミュエル? どうしたの?」


 親しげに僕の名前を呼ぶ従姉に「いえ、ちょっと、えと……」と曖昧な返事を返す。彼女を呼んでほしいけど、どう伝えればいいのかわからない。従姉は僕と彼女が一緒にいると機嫌が悪くなる。


 従姉は悪い人ではないし、善良な人間だとも思っている。だけど教会とは違いすぎる質問や受け答えは少し疲れる。

 でも彼女と添い遂げるためには教会との違いに慣れないといけない。それに彼女と引き合わせてくれた従姉には感謝している。


 だから眠りの呪いにかかったと聞いたとき、従姉に呪文を託した。

 聖女様の子どもの代から伝わっている、何か異変があったら読むようにと言われていた呪文。それによって呼び出される何かはきっと従姉の助けになるはずだから。


「まあ、またあなた? こちらに来る暇があるのなら学友のひとりでも作ればよろしいのでは?」


 そして、待ちに待った彼女が来た。いつものように敵意剥き出しの眼差しを僕に向けて、棘のある言葉を僕にぶつけてくる。

 ドキドキと高鳴る鼓動に身を任せて、彼女に言わないといけないことを、勇気を振り絞って口にした。


「クラリス・アンペール様。僕の妻になってください」


 一世一代の告白に彼女の目が丸くなった。この後どれだけの罵声が浴びせられるのかと思うと体が震えてしまう。従姉が「え? は? え?」と挙動不審になっているけど、それよりも彼女の一挙一動を見逃さないようにしないと。


「……寝言は寝ながら言うものよ」


 蔑むような視線を受けて、ゾクゾクとした快感が全身を駆けあがる。ああ、やはり彼女はいい。


 教会しか知らなかった僕に、色々なことを教えてくれる。敵意や悪意、これまで向けられたことのなかったそれらは、簡単に僕を侵した。歯に衣を着せぬ言葉は容赦なく僕を突き刺して、抜けない棘を胸に植えこんだ。


「あ、あの、僕は本気で……その、クラリス様を娶りたいと」

「わたくしに教会に入れとでもおっしゃるつもり? あのようにはしたない場所にわたくしが行くわけがないでしょう」


 教会内部の性事情については外部に漏れないようにされているはずなのに、彼女は知っていたらしい。そういえばいつだったか、彼女は一夫多妻に反対だと聞いたことがある。

 なら教会のあり方に彼女が嫌悪感を示すのも仕方のないことだ。

 だけど安心してほしい。望むのなら、僕は彼女だけで十分だから。


「いえ、えと、僕が婿になるので……だから、その」

「あなたはもっとはっきりと喋れないの? ああ、いいえ。喋らなくていいわ。さっさと帰りなさい」


 追い払うような仕草をする彼女も愛おしくて、顔がにやけてしまいそうになるのを隠すので精一杯だ。


 そういえば僕は教皇にならなくてもいいのだから、教皇に相応しい言動、振る舞いを心がける必要もなくなったのか。どう喋れば教皇らしいか、教会に立つ者に相応しいか、それを考えるのは教会外の人に対してはとても大変で、いつもいつも言葉を選んでいた。


 なら彼女の言う通り、はっきりと、僕の意思を、僕だけの考えを彼女に伝えよう。


「僕は治癒魔法が使えるので、アンペール領の婿としてはこれ以上ないほどお得だと思います」

「損得で婿を考える気はないわ。わたくし、嫌いな方と夫婦になる気はないもの」

「クラリス様が嫌いなのは教会ですよね? 僕は教会を出るので、僕個人を好いてくれませんか?」

「教会関係なくあなたを嫌いだと言っているのだけど、わからないのかしら」


 見下すような、氷のような眼差しにどうやって説得するか頭を悩ませる。

 やはり僕を婿にしない場合の損を語って納得させるしかないのだろうか。できれば得な面を見てほしかったけど、僕にできるのは治癒魔法だけだから、それで頷いてくれないならそうするしかない。


「あなたに断られたら僕は教皇になります。教皇はどこの地に修道士を派遣するか決める権限がありますので……アンペール領に派遣しないこともできます」


 地震の多いあの土地に治癒魔法の使い手がいなくなるのは困るだろう。

 きっと困った彼女は今よりもずっと僕を嫌悪するはずだ。そして僕に直談判しに来て、憎悪を剥き出しにしてなじると思う。それはそれで悪くない。


「教会が助けられる命を見捨てると、そうおっしゃるつもり」

「女神様の元に帰られるだけのこと。命を落とすのであれば、それは女神様の定めた運命だということです」


 出生数と死亡数を比較したとき、死亡数の方が多いのは女神様が命の循環を望まれているからだろう。

 だから命が失われるのは女神様がそれを求めているからだ。


 命を育むことを放棄した父が許されるのなら、女神様の望むままに治める僕が許されないはずがない。


「ちょ、ちょっと、サミュエル。どうしたのよ、おかしいわよあなた」


 彼女と僕の間に割り込んできた従姉に首をかしげる。おかしいことは何も言っていないはずだ。

 僕は女神様の教えはよく知っているし、教会の教えも知っている。


 治癒魔法は必ずしも使えとはどこにも記されていない。

 まったく使わないと教会の影響力が落ちるので、平等に誰にでも使っているというだけの話だ。重傷者の方を優先している時点ですでに平等ではないので、どこの誰に使うかを定めたとしても、これまでを許してきた女神様は怒りはしないだろう。


「……そういう話をこんな所でするべきじゃないな。もうすぐ授業も始まるし、場を改めてもらえるかな?」


 青褪めた彼女にこの思いの丈を伝えようと口を開いたところで、従姉の婚約者まで割り込んできた。

 授業に遅れるのは悪いことだから、ここは素直に引き下がることにしよう。


「わかりました。……僕の気持ちに応えてくれると信じてますよ?」


 顔を強張らせて唇を噛む彼女の姿に、このまま連れて行って説得しようかと悩んでしまう。場所が悪いのなら、誰もいない場所に連れて行けばいいだけなのでは――でもやはり、学生は授業に出るべきだから、我慢しよう。


 それにやらないといけないことが一杯ある。僕が教皇にならないために父にはもっとたくさん子どもを作ってもらおう。それから、彼女を説得できるようにもっと色々な材料を揃えないといけない。

 教会の信者はどこにでもいるから、方法はいくらでもある。


 それでも納得してくれなかったら、そのときは教皇になろう。少し残念だけど、僕が欲したのは自由に振る舞う彼女だから、心を壊すような真似はしたくない。

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