ルシアン・ミストラル3
どうして私はここにいるのだろう。
学園に来るまでは、これからは毎日レティシアに会えると嬉しかったのに、今はそう思えない。レティシアがあの男と話しているところを見なければいけない場所にどうしていないといけないのか。
もしかしたらまたあの男と一緒にいるところを見つけてしまうかもしれない。それなのに、レティシアを探してしまう。
私は一体何をしているのだろう。
見つけたときレティシアと一緒にいたのは兄上だった。ああ、よかった。あの男と一緒ではない。
安堵すると同時に、どうしてレティシアが兄上と一緒にいるのかが不思議でならなかった。レティシアと兄上の接点はそれほど多くない。
日記を届けるのを手伝ってもらってはいたが、普段の兄上からレティシアの話が出ることはそあまりなかった。
「お前とのことを相談されてな。だがこういうことは当事者同士で話し合うべきだろう」
私とのこととは、一体何を相談していたのだろう。
嫌な予感を抱きながらレティシアに聞いても教えてはくれなかった。それどころか私のことすら見ない。
顔を上げないレティシアに不安が募る。もう私の顔すら見たくないのかと。
お願いだからレティシア、私を見てそんなことはないと言ってくれ。
どうか、どうかお願いだから――
『ああ、可哀相に。鳥は羽ばたき、君だけが置いてかれた』
何を相談していたのか聞けないまま数日が過ぎた。
あれからレティシアとは話していない。彼女の口から決定的な言葉が出てくるのが怖かった。そしてレティシアを見るたびに湧いてくる怒りをぶつけたくなくて、私がレティシアから逃げた。
『だけど嘆くことはない。君が愛するべき相手が彼女ではなかった、それだけのこと。真の愛を捧げるべき相手は別にいるだろう』
そしてまた、クロエに話しかけた。母上とレティシアに似ている彼女が私を見てくれる。それがどうしようもなく嬉しかった。
ああ、そうだ。なにもレティシアにこだわらなくてもいい。私を見てくれない者に縋り付いたところで、どうしようもない。
そんな浅ましい私の思いは、すぐに霧散した。
「――こんなところで密会だなんて、ずいぶんと浅ましいこと」
じっとこちらを見るレティシアの瞳に私が映っていた。私を見て、私に話しかけてくれている。
状況すらも忘れて、歓喜に打ち震えそうになった。
だけど同時に、どうして今更とも思ってしまった。一体何がレティシアを変えたのか、誰がレティシアを変えたのかわからないことが怖かった。
「失礼いたしましたわ。思わず見惚れてしまいましたの」
外される視線に、心がざわつく。
私は何を考えていた。どうしてレティシアでなくてもよいなどと思ってしまった。私が見てほしいのも、話したいのも、側にいてほしいのもレティシアだけなのに。
『自らを愛してくれない者に焦がれても報われることはないだろう。彼女の心にあるのが自分ではないことは――聡明な君のことだ。よくわかっているだろう』
そんなことは昔からわかっていた。それでも私は――
「殿下もこのような方とおふたりになるだなんて軽率でしてよ。私という婚約者がいるのだから、もう少し考えてくださらないかしら」
その言葉に怒りが湧いた。
私という婚約者がありながら他の男と二人でいたのはレティシアの方だ。
――違う。それを責めるのならば、私も同じことをしている。
わかっているのに、止められなかった。怒りが抑えられず、溜まっていた不満が口から出てくる。
こんなことを言いたいのではない。こんなこと、したくはない。それなのにどうして私は止めることができない。
淡々と受け答えするだけのレティシアにやるせなくなる。怒りをぶつけてもレティシアが変わることはなかった。傷つけたくないと思っていたのに、私の言葉でレティシアが揺らぐことはなかった。
見てくれるように努力していたときと同じだ。私はまた、ひとりで空回りしていただけだった。
「あらあら、できませんのね。でしたら私が代わりにやってさしあげますわ」
それがどういうことなのか、すぐにはわからなかった。わかったときには手遅れだった。
クロエの頬を打つ音に血の気が失せた。
どうしてこうなった。いや、どうしてこうなったかなんてわかっている。
わかっていたはずだ。私がクロエに話しかけているときにレティシアが辛辣な台詞を吐くことを。それなのに何度もクロエに話しかけて――これは私が引き起こしたことだ。
だけど、どうしてクロエを傷つけることができる。一度でも仲良くなりたいと思っていた相手を、どうして傷つけることができる。
笑いながら去っていくレティシアに向けられた怒りは、同時に私自身にも向けたものだった。
「……殿下、追ってください」
見上げる青い瞳に息を呑む。
「しかし、君を置いていくわけには」
「私なら大丈夫です」
その瞳は力強くて、いつものクロエとは違って見えた。
「……今のは、そう……レティシア様がよろけて偶然私にぶつかっただけの、不運な事故です」
クロエが言い切るのと同時に、ざわめいていた周囲が静かになった。
「だから誰も気にすることはありません。ただの事故なのだから、日常の一幕として記憶の隅にしまいこむことでしょう」
そして少しずつ人がいなくなっていく。
「……君は、何を」
「殿下、これでも追いかけませんか? 皆さんただの事故だと思っているので、私を置いて行っても咎める人はいませんよ」
たとえ咎める人がいなくても、レティシアがクロエを叩いたことは事実で、放ってはおけなかった。
「……仕方ないですね……少し、お話でもしましょう」
ため息をつきながら苦笑いを浮かべるクロエに、私はただ頷くことしかできなかった。
「私は催眠魔法が使えます。生業にするぐらいには得意なんですよ。あ、殿下には私程度の魔力ではかかりませんので安心してくださいね」
椅子に並んで座り、ただクロエの話を聞く。
そういえば数年前から変わった魔道具を売るようになった店があった。幻覚魔法を使っているので、あまり買い手は多くないらしいが物珍しさで買っていく者もいると聞いたことがある。
「ああ、そのお店ですよ。殿下もおひとついかがですか? 友人価格でお安くしますよ」
「その手のものは止められるから、買うことはできないよ」
「そうなんですか、残念です。殿下もご愛用となればたくさん売れると思ったんですけど」
私は一体誰と話しているんだ。いつものクロエから想像できないほど、快活に笑っている。
どこもレティシアに似ていない。母上にも、似ていない。
「……催眠魔法については他言しないでくださいね。偏見の目が多いので、隠しておきたいんです」
「あ、ああ。誰にも言わないから安心してほしい」
「それで、先ほどは見ていた方に魔法をかけました。あのままではレティシア様によくない噂が立ちそうでしたので。」
「どうして君がそんなことを……?」
クロエは一方的になじられて叩かれただけだ。レティシアを庇う理由はどこにもない。いや、それどころかレティシアを恨んでいてもおかしくない立場だ。
「私が困るからしてるだけですよ」
そう言って笑って、帰って行った。
私はこの日ようやく、クロエ自身を見た。彼女は儚げでもなければ守る必要もない。自分の足で立って前を見据えている強い女性だった。
――そう、思ったはずだった。
母上にもレティシアにも似ていないとわかったはずなのに、どうしてかまたクロエと話したかった。
そして話していると、母上とレティシアに似ていると思わずにはいられなかった。似ていないと思ったはずなのに。
『それはそう、君の身近にいる者のはずだ。君が見るべき相手は彼女しかいない』
魔法学の休憩時間に話しかけると、クロエは驚いて目を丸くしていた。
どうしてすぐ近くにレティシアがいるのにクロエに話しかけているのかわからない。
おかしいということだけはわかるのに、どうしておかしいのかがわからない。
「そのような方とお話されていては、殿下の神経が疑われてしまいますわ。およしになった方がよろしいのではないかしら」
そしてまたレティシアが役割を演じる。
そんなことをさせたくはないのに、自分で自分を自制できない。
「レティシア嬢がルシアン殿下の交友関係に口を出すのが駄目なら、レティシア嬢が誰と話そうとルシアン殿下は気にしないよね」
その隙を忌々しい男に突かれた。ローデンヴァルトが私の失態を待っていたのは知っていたのに、どうして私はこんなことをしている。
どうして私が触れることができないのに、この男はレティシアに触れている。
つい先ほどまでクロエを見ていたはずなのに、レティシアとこの男が一緒にいるのを見るだけでどうしようもないほどの憤りを覚えた。
レティシアと話したいと思うのにクロエに話しかけて、レティシアに見てほしいと願っているのにクロエに見てもらえると嬉しくて。だけどレティシアが他の男と一緒にいるのを見ると許せなくて――あまりにも感情が噛み合っていない。
今の私はおかしい。どうしておかしくなった。
いつからおかしくなった。
「何もしなければ、予定通り殿下との婚姻は成されます」
聞こえた声に足が止まる。
「殿下のことがお嫌いになったから、自らを貶めて婚約を解消したいのかしら」
その言葉に、考えていたことすら忘れて、私は走り出していた。
どうしてレティシアが役割を演じるかのように話すのか不思議だった。
理想の令嬢像に沿っているのだろうと思っていたが、それにしては最近のレティシアはやりすぎだ。
だけどもしもレティシアが何も知らなかったのなら、今のクラリスの言葉で説明がつく。
レティシアと私の婚約は私の我儘で続いているだけのもので、レティシアが望むのならいつでも解消できる儚い繋がりだ。
だから、婚約が続いていることが私の希望だった。互いに望んでいるからこの婚約は続いているのだとずっとそう思っていた。
「――ルシアン様!」
私を呼ぶ声に足が止まる。
名前を呼んでほしいとずっと思っていた。だけど最近の――役割をこなすだけのレティシアは名前を呼んでくれなかった。
そして今、ようやく名前を呼ばれたというのに喜べない。
「……もう、私に誰かを映す必要がなくなったの?」
私を通さなくてもよくなったから、望まない婚約をどうにかしようと思ったのか。
あんな暴挙に出るほど、私と一緒にはいたくないのか。
「私のことが嫌いなら嫌いと、そう言ってくれればいいのに」
それならばもっと早く諦めがついた。いつかは私を見てくれると思っていたから、ここまで頑張ってこれた。
だけどレティシアは嫌いではないと首を横に振る。
聖女の子には相応しくないと言われていたのは私なのだから、レティシアが自身を貶める必要なんてどこにもない。
だけどもしもそれを知らなかったとすれば、世間知らずなレティシアのことだ。王子の婚約者に相応しくない人物になるという突飛なことを思いついても不思議ではない。
そう、不思議ではない。不思議ではないが、嫌っていないのならどうしてそこまでして私との婚約を解消したいと思うのかがわからない。
「……君が望むのなら、婚約を白紙に戻してもいい」
言ってから後悔した。レティシアのことだからすぐに頷くに決まっている。
返事を聞くのが怖くて、私は逃げた。
レティシアが望んでいないのなら、婚約を続けてもどうしようもない。
頭ではわかっているのに、私はまだこの繋がりを切りたくなかった。
レティシアが簡単に解消できるものだと知らないのなら、このままでもいいのではないか――
「……私は今、何を考えた」
無理矢理に繋ぎとめることになんの意味がある。
それに今のままではレティシアの暴挙が増すだけだ。
――それなのに、どうして私はこんな浅ましい考えを消せない。
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