【止めるつもりはないよ】
私ですらこれは聞いていい話だったのだろうかと思うほどだ。なんの関係もない子爵家の男の子の思いは私以上だろう。
見ているこちらがいたたまれないので、さっさと話を切り上げることにしよう。
「……一応聞いてはみるけど、色よい返事ができるかはわかりません」
「それでもいいよ。何もわからなければ、諦めもつくらからね」
小さく微笑んだ隣国の王子の瞳は少し寂しそうだった。
なんとかしてあげたいとは思うが、こればっかりは無理だ。私にはどうにもできない。
「それで、話は終わりでよろしいのかしら」
「いや、後ひとつ……さすがにこれは、他の人に聞かれたくないな」
今の話以上に人目を気にする話があるというのか。私も聞きたくない。
ただでさえ王太子の駆け落ちや戦争や悪役で手一杯なのだから、これ以上問題を持ってこないでほしい。
「えーと……君はもう行っていいよ」
多分名前を呼ぼうとして、知らないことに気づいたのだろう。知り合いでもなんでもなく、ただあの場にいたからというだけで選ばれて、子爵家の男の子にとってはただの災難だ。隣国の王子の言われるがまま、どこかに行ってしまったらどうしよう。
隣国の王子とふたりだけにはなりたくない。
「いえ、そういうわけにはいきません」
気弱だけど度胸のある子爵家子息は、毅然とした態度で断った。
「人に聞かれたくないって言ってるんだけど」
「でしたら話されないのが一番かと。レティシア様を置いて行くことはできません」
気弱だと思っていたのは私の気のせいだったのかもしれない。
考えてみたら気弱だったのは十歳の誕生祝のときだった。子爵家子息もあれから成長している。気弱が抜けてただの度胸のある男の子に育っていても不思議ではない。
「……じゃあいいよ。追い返さない代わりに、口出ししないでくれるかな」
「不埒なことをされないように見ているだけですから、心配されなくても口出しもしませんし、言いふらすこともしません」
深いため息をついてから、隣国の王子は私に向き合った。
「君とルシアン殿下のことだけど……」
王子様がどうかしたのだろうか。今頃はヒロインと一緒に勉強していると思う。
「喧嘩でもした?」
「いえ、喧嘩はしていないわ」
喧嘩ではない。喧嘩なら謝って、それで終わりだ。
でも、そうはらない。
「最近のルシアン殿下は君を大切にしているようには見えない」
はっきりと言い切られ、言葉に詰まる。
そもそも私は大切にされるようなことをしていない。私は悪役なのだから、王子様が私を大切に思うはずがない。
だから、そんなことは言われなくてもわかってる。
「クロエ嬢にご執心みたいだし、君のことは放っておいてるようだけど、ローデンヴァルトなら――」
そこで、大きな水が降ってきた。雨ではない。水の塊が上から降り注いだ。
「はぁ!? ちょっ、口出ししないって……!」
「口は出していませんよ。口は」
目の前にいる隣国の王子がずぶ濡れだ。私も濡れてしまって、視界がにじんでいる。
髪から滴る水が地面に落ちて水滴を作っている。これは乾かすのが大変そうだ。
「それって屁理屈――ああ、もう! こんなに濡れて……」
隣国の王子の指が額に張り付いた髪を掬い、固まった。乙女の髪に気安く触るのはいかがなものだろうか。
「いや、えっと……君を悲しませたいんじゃなくて、ただ――」
ただ、なんだろうか。
王子様が私を大切に思わないのも当然だろう。それだけのことを私はしている。
王子様が大切にする相手はヒロインで、将来的には愛する誰かだ。
そんなことは言われなくてもわかっている。
王子様は私との婚約をなくす決心をしているし、私もそのために動いていた。
ああ、でもあれは私が望んだらという話だったか。あまりよく覚えていない。
思考がまとまらない。寒くなってきているから、ずぶ濡れなのがけっこう堪える。早く乾かしたい。
「――何をしているんですか」
噂をしても王子様は現れない。
そんな当たり前のことが、ひどく――
ひどく、なんだろう。わからない。
「いや、俺は何も」
「何もしていないというのなら、どうして濡れているんですか? 雨は降っていませんよね」
宰相子息が隣国の王子に詰め寄っている。焼き菓子ちゃんはいないようだが、勉強会はどうなったのだろう。私が行かなかったせいでお開きになってしまったのなら、申し訳ない。王子様がヒロインと穏やかに過ごせる時間を邪魔してしまった。
いや、いつも邪魔しているのだから今更か。
「だから、俺じゃなくてそこの……」
「彼が何か?」
不屈の精神の持ち主な遊び人も嫌味な宰相子息には負けるようだ。
「それに……あなたが何かしたとしか思えません」
ちらりと宰相子息が私を見る。
どうしてここにいるのかとか、色々聞きたいのにうまく喋れない。
「この状況では分が悪いことはわかりますよね? 違うというのなら、日を改めてください」
「……わかったよ。レティシア嬢……俺はただ、ローデンヴァルトなら君を大切にしてくれるから、考えてほしいって、そう言いたかっただけなんだ……」
「私の前で自国への勧誘ですか? そういうことは後日改めて正式にシルヴェストル家に申し出てください」
隣国の王子はそれ以上何も言わずに立ち去った。
「……あいつに何かされたんですか?」
気遣うような声色が宰相子息から出たものだとはすぐにはわからなかった。だって、嫌味な宰相子息が私を気遣うとか思いもしていなかった。熱でもあるのかもしれない。
「何かされたのなら頷いてください」
答えない私に苛立ったのか、宰相子息の声が少し厳しいものになった。よかった、いつもの宰相子息だ。
私は大人しく首を横に振る。隣国の王子の出自は聞いたが、何かされたわけではない。
「……では、どうして泣いているんですか」
その言葉に私は宰相子息を見上げた。心配そうに私を見る目に、だから隣国の王子は取り乱していたのだと気付かされた。
「……そこのあなた。レティシア嬢の使用人を呼んできてください」
「で、でも……僕は……」
「あなたとレティシア嬢のふたりで残るのと、私とふたりでは状況が変わります。私の婚約者はレティシア嬢の友人で、私とレティシア嬢は同じ公爵家です。一緒にいても不自然ではないのは私のほうでしょう」
「……わかりました」
小走りに走り去る音が聞こえてくる。
そうか、私は泣いているのか。どうして泣いているのだろう。悲しいことがあったわけでも、辛いことがあったわけでもない。
それなのに、涙だけが止まらない。
「泣いているところをあまり人に見せるものではありません」
言いたいことはわかる。貴族なのだからいつでも気丈でいろということだろう。
どんなときでも笑って、受け流して、たしかにそう教えられた。
「……そのままでは風邪を引いてしまいますね。私のもので申し訳ありませんが、これを使ってください」
そう言って、私の肩に自分の上着を被せた。少し寒さが和らいだ気がする。
多分気のせいだ。ずぶ濡れな状態では、布一枚増えたところで焼石に水だろうから。
「別に泣くなと言っているわけではありません。ただ……泣くのでしたら、殿下の前でだけのほうがよろしいかと」
王子様の前で泣いたところで困らせるだけだ。王子様は優しいから、どんなに怒っていても困ったように笑って慰めるに決まっている。
私は王子様を困らせたくない。もうこれ以上、困らせたくない。
「……殿下のことで泣いているんですか?」
どうして私が王子様のことで泣かないといけないのだろう。
泣くようなことは何もしていない。それどころか私が王子様を泣かせそうになっていた。私が泣くのは間違っている。
だからそう、これは王子様のことで泣いているわけではない。ただ、意味もなく、泣いているだけだ。
宰相子息はそれ以上は何も言わず、ただ私の側に立っていた。
どのぐらいそうしていたのか、時間としては数分も経っていないと思う。すぐにリューゲがやって来て「後は任せました」と言って宰相子息は帰った。
遠くで「シモン様」と呼ぶ焼き菓子ちゃんの声が聞こえた。焼き菓子ちゃんもちゃんといたようだ。
しかし隣国の王子も宰相子息も焼き菓子ちゃんも不在で、勉強会はどうなったのだろうか。真面目なヒロインのことだからきっと真剣に勉強しているとは思うけど、王子様とふたりという状況で逃げ出しているかもしれない。
「こんなに濡れて……風邪ひくよ」
三回目だ。リューゲにまで言われるなんて、私はどれだけ濡れているのだろう。
「少し乾かしてから帰ろうか」
そう言うと片腕で私を抱えて、子どもをあやすように背中を優しく叩いた。
ように、というかリューゲからしてみれば子どもをあやしているつもりなのだろう。屈辱的だが、今はそれに甘んじよう。
リューゲの肩に顔を埋めて、止まる気配のない涙を押しつける。
「……あまり濡らさないでよ」
濡れ鼠のような私を抱えている時点で諦めてほしい。
「少し散歩でもしよう」
少しだけ顔を上げると、リューゲは木々の並ぶ森のようになっている方に歩き始めた。たしかこちらは教会の敷地だと言っていなかっただろうか。
しかもいつの間にか火の玉まで周囲に浮いている。
「しん……しん、りん……かさい、だめ」
「それ無理に言わなきゃいけないこと?」
声を出すとよりいっそう涙が溢れてきた。ないかもしれないが、私のせいで森が全焼したら目も当てられない。
「……キミは本当に馬鹿だよ」
ぽんぽんと背中を叩きながら、ゆっくりと歩いている。
「いつまで経っても子どもだし、アホだし、抜けてるし」
そこまで言わなくてもいいと思う。普通泣いている女の子がいたら慰めるものじゃないのか。
「……どうせ、自分がどうして泣いているのかもわかってないんでしょ」
勝手に涙腺が崩壊しただけで、何かあって泣いているわけではない。
私が泣きたくて泣いているわけじゃないのだから、理由なんてわかるはずがない。
「だからキミは馬鹿なんだよ」
「そっ、そこまで、言わなくても」
「何? ボクに慰めてほしいの? 生憎だけど、ボクはそんなに優しくないんだよ」
知ってる。
「まあでも、泣いている間ぐらいは付き合ってあげるから、好きに泣けばいいよ」
いつだって意地悪な魔族で、嘘つきだ。
ようやく落ち着いて部屋に戻ったのは日がだいぶ落ちてからだった。
泣きすぎてお腹が空いたと訴えたらリューゲに呆れた目で見られた。それでも夕食を持ってきてくれたら、馬鹿にしたことは許すことにした。
「どうしてキミはそこまでするの?」
「そこまでって……?」
「彼女にだって言われたよね。悪役になる必要なんてないって。なのに、なんで続けてるの?」
どうして続けてるのかなんて、わかりきっている。
「――ハッピーエンドのためには悪役が必要でしょう」
「キミは本当に……馬鹿だよね」
そう言って、いつものように頭を軽く叩くのではなく、髪を梳くようにして撫でられた。
リューゲが優しくするなんて、私は明日死ぬのかもしれない。
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