フレデリク・ミストラル2
どうやって抜け出したのかも、どこから抜け出したのかも、何もわからなかった。
誰かに攫われた可能性は低い。城の警護は眠りの週の間だろうと万全だった。
弟を探そうにも人手が足りない。警護している騎士全員を捜索に回すことはできない。
父上は部屋に閉じこもり、母上はもういない。もうひとりの弟は産まれたばかりで何もできない。
そして騎士の補充も期待できない。魔物が増加しているとの報告が上がっていたので、眠りの週が終わり次第すぐに森を調べるようにと指示が出されている。騎士たちはすでに森へと向かっている最中だろう。
限られた人員しか動かせないのでは探せる範囲もたかが知れている。どこにいるのかもわからない相手をどうやって探せばいい。
色々なことが積み重なり平静でなかった俺は、弟がいないことで完全に取り乱した。
文を受け取りやってきた公爵家の当主たちは、ただおろおろとして泣いているだけの俺を宥め事情を聞き出した。そして城内にいる騎士の振り分け、使用人への指示、弟が光の月に産まれたのだと思わせるための工作――そのすべてを請け負ってくれた。
弟が見つかったのは、その日の夜だった。
傷を負い帰ってきた弟を見た俺は血の気を失った。
翌日、弟のことを聞いた父上は婚約者の父君であるシルヴェストル公を城に招いた。
弟はまだ目覚めていない。だが弟を連れて帰った騎士が弟の婚約者が一緒にいたことを証言している。だからそのことなのだろうと予想した俺は、父上が親しい者と話すときに使う執務室の天井裏に忍びこんだ。
弟に何があったのかを知りたいという気もちと、どうしてシルヴェストル公を呼んだのかが気になったからだ。
城内にはいくつもの隠し通路がある。執務室の上の天井裏もそのひとつだ。ここの隠し通路を教えてくれたのは母上で、父上は知らないと言っていた。俺が王になったらこの通路は塞いでしまおう。
「すまなかった」
天井裏に辿りついた俺は、父上の声が聞こえ耳をそばたてた。姿は見えない。
話の内容を要約すると、互いに互いの子どもに危険が及んだことを悔い、あのふたりは一緒にさせてはいけないのではという――要は婚約をなかったことにしたほうがいいのでは、という話だった。
弟が起きたとき、体を張って守った婚約者との婚約がなかったことになっていたら、どう思うだろうか。
自分のせいだと責めるか、しかたないと諦めるか、どちらにしても弟が悲しむのは目に見えている。
「父上、シルヴェストル公。このような登場で申し訳ないのですが、俺の話を聞いてくれないでしょうか」
天井に穴を開けて降りてきた俺に父上は言葉を失くし、シルヴェストル公は乾いた笑みを浮かべていた。なんというか、彼はとても苦労してきたのだろう。
「ルシアンの婚約について決めるのは、ルシアンが起きてからでもよろしいのではないでしょうか。自分が寝ている間にすべてが終わっていては、きっと悲しみます」
目を伏せ、沈んだ声でふたりを説得する。このときの俺は弟を案じる子どもにしか見えなかっただろう。
俺の説得が功を成し、弟が起きるのを待つことになった。案の定、目覚めた弟は婚約を維持したいと父上に縋った。あまり我儘を言うことのない息子に父上が困ったような笑みを浮かべていたのを覚えている。
「殿下がそうおっしゃるのでしたら」
自分の娘のことを想い縋る弟を見て、シルヴェストル公も思うところがあったのだろう。微妙な表情を浮かべながらも、弟の願いに頷いた。
そうして続いた婚約だったが、そこに横槍を入れてきたのは講和条件を決めかねていたローデンヴァルトだった。聖女の子を危ない目に合わせるとは何事かと憤慨する教会と共に、両者の婚約をなかったことにするか、弟の王位継承権の剥奪、あるいは金髪の娘を後妻に娶るかを父上に迫った。
ローデンヴァルトは我が国を愛に狂った国と揶揄するが、ローデンヴァルトは女神に狂った国だと俺は思っている。
俺がどうして会談の内容を知っているかというと、例の如く父親についてきた第二王子に聞いたからだ。
彼の目には俺がいつまでも何もわからない子どものように映っているのだろう。
落としどころを探る気もない会談の内容は弟の耳にも入った。悪意にさらされることのないように育った弟にそれを教えたのは、子どもなら何を言ってもわからないと思っているような馬鹿だった。
「お互い苦労するよなぁ」
そう言いながらしみじみと、悪意なく、弟に悪意ある噂を聞かせた。
自分の置かれている立場を理解した弟はそれ以来、学問や剣術に力を入れはじめた。悪意に潰されるような弟でなくてよかったと安堵するべきか、余計な苦労をかけさせてしまったと悔いるべきか、俺には判断つかなかった。
その
どこのローデンヴァルトと教会がやったのかはわからないが、他の国からも噂が本当かという問い合わせが殺到するようにもなった。
こうなっては事実無根の噂だろうと無視できるようなものではない。父上と俺は断腸の思いで弟を他国に行かせることを決めた。弟がいかに優秀で、どれほど婚約者を想っているかを伝えるために。
それほど弟が想う相手がどんな人物かというと、一言で表現するのなら危うい人だった。
もう少し言葉を増やすのなら、風変りで世間知らずの――これ以上は彼女を貶めることになりかねないからやめておこう。
彼女はとてもわかりやすい人でもあった。日記や弟からの土産を渡すと露骨に迷惑そうな顔をし、甘いものを食べると頬が緩み、意に沿わないことがあるとすぐ不機嫌になる。ころころと変わる表情はわかりやすく、とてもあつかいやす――素直だった。
だからこそ、危うい。立場や地位が彼女の性根には合っていない。あれは下手な相手に嫁げば骨の髄まで利用される。彼女を想っている弟くらいしか幸せにできないのではと、そう思わせるほどだった。
だが最近、弟と婚約者の間に暗雲が立ちこめはじめている。
ある日、出先から帰ってきた俺は中庭で落ちこむ弟を見つけた。弟の近くで微動だにせず見守るアドルフもいたが、彼はこれが普通なのですぐには目に入らなかった。
机の上に置かれた物体と、落ちこむ弟。婚約者と何かあったことはすぐにわかった。弟がこれほど感情を揺さぶれるような相手は彼女しかいないし、誕生日に贈り物をするような人物は婚約者である彼女しかいない。
そして思い出したのは、彼女にちょっかいをかけているらしいローデンヴァルトの第十八王子のことだった。
あの王子は元は商家の息子だ。数年前までとはいえ、我が国にも出入りしていたのだから、誰かに何かを聞く必要などないはずの者だった。
ちなみにこれもどこかの馬鹿が教えてくれた。
「妻にしたからって、その子どもを養子にするとか父上は何を考えているんだ」
と言って嘆いていた。俺のほうが何を考えているのか聞きたかった。
あの馬鹿はいつになったら俺がもう子どもではないと気づくのか。
必要のない者が必要のないことで、ローデンヴァルトが気にしている娘に声をかけている――となれば、そこになんらかの意図が含まれているのは明白だ。
「どうなさいました?」
「いえ、なんでもありませんよエミーリア王女」
思考に耽ってしまうのは俺の悪い癖だ。
弟のように語らう相手がいないから、ひとりで考えこんでしまうのかもしれない。そのうち相応しい相手が嫁いでくるのだろうが、その相手を想えるかどうかも、語り合える相手かどうかもわからない。
貴族街に遊びに行った際に見かけた金髪の娘を可愛い子だなと思いはしても、弟のように誰かを想ったことが俺にはない。
だからか弟のことを少しだけ羨ましく思うこともあった。それでも俺は可愛い弟の幸せを願っている。そしてその延長線上には、あの危うい婚約者の幸せもあるはずだ。
だから俺は弟とその婚約者のためにひと肌脱ぐことを決め、ローデンヴァルトが何を企んでいるのかを探るため内情を知っていそうな人物――ローデンヴァルトの第六王女に接触した。
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