フレデリク・ミストラル1
俺には可愛い弟がいる。どのくらい可愛いかというと、数日おきに転移魔法を使ってしまうほどだ。あれにはそうとう魔力を持っていかれた。数時間動きたくなくなるぐらい大変だったが、可愛い弟のためにと思えば気力も沸いてくるというものだ。
弟にはとても可愛がっている婚約者がいる。どのくらい可愛がっているかと言うと、数日おきに転移魔法を使うほどだ。日記ひとつのために遠い国でぐったりしているであろう弟を思うと、涙を禁じ得ない。人のことは言えないが。
そんな可愛い弟は苦労の星のもとに産まれた。持って生まれた髪の色は、赤子だった頃から変わらず母上に似た銀色だった。母上が父上に嫁いだとき、その髪の色のせいで他国から非難されていたらしい。そして弟が産まれたことにより、非難の声はよりいっそう激しくなった。
当時について語る父上の神妙な顔つきからは、そのときの苦労を感じさせた。
弟は、私と弟のどちらが王太子かわからないほど城で厳重に守られていた。悪意にさらされることなく健やかに育って欲しいという母上の願いから、必要最低限の外出しか認められていなかった。
対して父上譲りの髪と目を持つ俺は王都近くの森に遊びに行ったり、貴族街に出かけたりと、今にして思えばずいぶんとやんちゃな子どもだった。
そんな箱入り息子のような弟だが、あるときを境にあまりよくない噂が出回りはじめた。
出所は教会か、ローデンヴァルトか――いや、確たる証拠もなく憶測でものを言うのはやめておこう。
出所不明の噂の内容は、王家の色を持たない王子が聖女の血を利用しているというものだ。悪意しか存在しないような噂だが、無視できるような噂でもない。
どこの弟を嫌う立場の者が流した噂かは知らないが、事実無根な噂を流された側としてはたまったものではない。
何しろ弟とその婚約者の婚約が決まったとき、誰もそんなことは考えていなかった。父上は愛する母上の頼みだからと承諾し、婚約者の父君は王妃たっての願いだからと承諾しただけだ。当人同士は当時六歳。そんな大それたことを考えられる年齢ではない。
母上がどう思っていたかは――本人に聞くこともできない今となっては知りようがない。
その噂がどうして生まれたのか、話は弟が産まれたときにまで遡る。
当時二歳だった俺は、そのときのことは覚えていない。ただ弟が産まれたのをきっかけにローデンヴァルトが戦争を仕掛けてきたという話しか聞いていない。
産まれてきた弟をなかったことになどできなかった父上は、真正面からその戦争に応えた。とはいえ、人と人が争いあうような物騒なものではない。
女神の教えを何よりも遵守するローデンヴァルトは、戦争であっても他人を殺すことをよしとしなかった。それほどの気概があるのならば、生まれてきた命についても認めてくれてもいいとは思うのだが、今はそれを言ってもしかたのないことだ。
腕の立つ者を集めての魔物狩りや、盤上遊戯や、弁論大会といった、半分遊んでいるような――実際その戦争に駆り出された者は楽しんでいたようだ――遊戯のような戦争は母上の手によって終わりを迎えた。
正確に言えば、母上の口だ。弁論大会に颯爽と現れた母上は「私に責があるというのならば、その責は私が払いましょう。文句があるのなら数年後に聞き入れます。だから今しばらくは私の息子がどのような道を歩むのかを見守ってください」と語ったそうだ。
ローデンヴァルトもローデンヴァルトでこの戦争の着地点がつかめず疲れていたのだろう。母上の願いを聞きとげ、戦争を終わらせた。遊びのようなものではあったが、戦争は戦争。条約を結ぶための会談を行ったりと大忙しの中で、弟の婚約が決まった。
王城に遊びに行きたいと言ったのは弟の婚約者なので、母上がどうこうしたということはないだろう。
そんな振ってわいたような婚約話に異議を唱えたのは、当然ローデンヴァルトの国王だった。
「おい、ちょっと待て、どういうことだ」
と憤慨するローデンヴァルト王。
「ふたりがとても楽しそうだったものですから」
と子を想う親の微笑みで答える母上。
そこからの会談は泥沼だったらしい。結局条約が決まらないままその場はお開きとなった。
当時会談に出席できる年でもなかった俺が詳しいのは、ローデンヴァルト王と共に出席していたローデンヴァルトの第二王子が教えてくれたからだ。疲れた顔でぐちぐちと自分の父親の文句を言っていた。
「お前の母は優しそうで羨ましいよ」
とも言っていた。
そんなこんなで決まった婚約だったが、存外弟とその婚約者の相性は悪くはなさそうだった。
これまでは城から出ることを禁止されていた弟だったが、婚約者ができてからは――相手の家限定での話ではあるが――外出が認められるようになった。
それからの弟は婚約者に会うために足繫く通い、何を話したのかをお母様に報告する姿が増えた。
ローデンヴァルトが何か言うこともなく、ただ平穏な時間だけが過ぎていたある日――事件が起きた。
眠りの週ももう終わるというときに、母上は命を落とし、新たな弟が産まれた。
突然すぎる死と誕生に城内は騒然となった。最後の三週間に子は産まれないと思っていたから、誰もが油断していた。だから例年通り教会の者をひとりしか用意せず、そのひとりも俺の治療に当たっていた。
その日俺は、暇すぎて城の隅のほうで階段を滑り降りて遊んでいた。だが運悪く体勢を崩し、床に激突したところに偶然通りかかったのが教会の者だった。
人があまり来ない場所を選んで遊んでいた俺は、どうしてこんなところにいるのかと聞いた気がする。
「体調を崩されてたり、怪我をされていないか見回っているんですよ」
だからここにいるのはただの偶然で、俺がちょうど怪我をしたところに出くわしたのも偶然だった。
そしてその偶然は、あまりにも不運すぎた。
母上が産気づき教会の者を探していた侍女は、人気のない階段にいるとは思いもしていなかった。だから騎士の待機室、教会の者のために割り振られた部屋、父や弟の部屋、厨房や使用人用の食堂、いるかもしれない場所を順々に回り――ようやく見つけたときにはだいぶ時間が経っていた。
話を聞いた教会の者は急いで母上の下へと向かったが、到着したときにはすでに子が産まれていた。侍女が探し回った結果ではあるが、母上の傍には父上と弟もいて、白い肌をより白くさせている母上の手を握っていた。
「弟をよろしくね」
それが母上の最後の言葉だった。
母上の死に父上は嘆き悲しみ、俺も自分のせいだと自分を責めていた。弟も部屋に閉じこもり、突然すぎる死と誕生に城内の者は誰も対応できなかった。
そして眠りの週が明ければ公爵家の者を呼んでの事情説明をしないといけない。それ以外にも眠りの週で城内に留まっていた者の口止め、産まれたばかりの弟を隠しておく部屋の準備――やることは山積みなのに人手が足りない。
母上を誰よりも愛していた父上には今しばらく休んでいてほしい。そんな思いから、俺はその一切合切を取り仕切った。
もしもこのとき、父上に頼っていたらこの後の展開は変わっていたかもしれない。
戦いの週がはじまり、朝一番に公爵家に文を出し、沈んでいる弟と少しの間だけでも語らおうと弟の部屋に行き――誰もいない無人の部屋を前に、呆然と立ちつくした。
もしも父上と分担していたら、弟を気にかけることができたかもしれない。
だがそれはもはや過ぎたことで、今さら言ってもしかたのないことだった。
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