悪い魔女

 風邪を引いて寝こんでいた私は枕元の机に置かれた薬と水を見て顔をしかめた。


「ねえマリー。オブラートはないの? この薬、苦くていやよ」


 脇に立つ、私に仕えるマリーは困ったように眉を下げている。


「お嬢様が何をお求めなのかわかりかねますが、苦いのがお嫌いでしたら果汁を用意いたします」

「それでも苦いものは苦いからいやなの!」


 幼子らしく頬を膨らませてみても、マリーがオブラートを用意してくれることはなかった。


 私の幼児期はそんなことの繰り返しだった。あれはなの? これはないの? と聞いてはマリーを困らせる。少し鈍かった私は、その反応に不満を抱くだけで、どうして困っているのかわかっていなかった。


 何かおかしいと気づいたのは五歳のとき。


「レティ、もう五歳になったのだから空想に耽るのはやめたほうがいいよ」


 そんな、兄の心配するような言葉に私は首を傾げた。見たことのないものを知っているのは私にとって普通のことで、誰でもそんなものだと思っていたからだ。


 いくら注意しても治ることがなく、夢物語のようなありえない情景を語り続ける私に両親は困り果てていた。だいぶオブラートに包んだ表現で、令嬢として扱うには相応しくないのでは、と苦言を漏らす人もいた。

 次第に冷ややかになっていく家族の目を見て、私はようやく自分が頭のおかしい子として扱われていることに気がついた。


「ちょっとこれ、まずいんじゃない?」


 それでもその程度の認識だったのは、やはり自分は鈍い子供だったからだろう。家族の冷たい眼差しに気づけただけでも奇跡だ。


 私はその晩、自分の中にある記憶を探ることにした。

 思い出せるものをすべて引っ張り出す。今までは深く考えず、ふとした瞬間に浮かんだものだけを拾い上げていたので、こうして向かうのは初めてのことだった。


 自分の中にあるこれはなんなのか――それを突き止めようとした私は、記憶を浚っていくうちにこれが普通ではありえないことなのだと気づかされた。


 瞼の裏側で再生される記憶によると、どうやらこれは前世の記憶というものらしく、大抵の人は思い出すことがないものだった。

 しかも、この世界の記憶ですらなかった。電気はないのかと聞き、それがどういうものなのか説明する私に、雷魔法と何が違うのでしょうかと首を傾げていたマリーの姿に今さらながら納得する。


 もっと早く気づこうよ、と昨日までの自分に思わず不満を漏らす。


 これまでの自分の所業にいたたまれなさを覚えながらも前世の記憶を深く見ていくうちに、私が今生きている世界が前世で乙女ゲームの舞台として描かれていることに気がついた。

 それだけならそういうこともあるだろうと片付けることができたけど、そのゲームは過去や現在ではなく、まだ訪れていない未来について描いていた。


 しかも何百年後とかではなく、ほんの数年後について。


 これが異国の話――そうでなくても、私にまったく関係のない話なら驚きはしてもうろたえることはなかっただろう。

 だけど、乙女ゲームにはお伽話に出てくる悪い魔女のようになった私が登場していた。


 可愛く可憐なヒロインに嫌がらせをして、その結果婚約していた王子様に捨てられるという、悪役令嬢と呼ばれる部類の人間に成り果てた私の姿に、愕然とした。


 他人の空似だと楽観的に考えることはできなかった。

 レティシア・シルヴェストルという名前も、この国では珍しい黒髪も、少しきつめの顔立ちも、お母様譲りの青い目も、すべてが私にそっくりだった。正確には、私が成長したらああなると頷けるくらいには似ていた。


 将来は素敵なお嫁さんになるのだと夢見ていた私はショックのあまり泣いて泣いて泣き叫んだ。

 夢見る少女の理想は、齢五つにして儚く散った。



 どのくらい泣きわめいていたのか、気がつけば悪い魔女になりたくないと叫ぶ私の背中を、マリーが慌てふためきながらも慰めるようにさすってくれていた。


「お嬢様、悪い夢でも見たのですか? 大丈夫ですよ、お嬢様は悪い魔女になどなりません」

「なるもん! なっちゃうんだもん!」


 泣きながら反論にもなっていない言葉を返し続けていると、コンコンと扉を叩く音が部屋に響いた。

 マリーは心配そうに私を見たが、来客を無視することもできず、扉を開け外に出ていった。


「またお嬢様が空想の世界に旅立ったのですか?」

「それが、普段とは様子が違っていて――」


 おそらく執事であろう男性の声とマリーの声が扉の向こうから細々と聞こえてくる。


 まずいと思った瞬間、先ほどまで止まることなく零れ続けていた涙が一瞬で止まった。

 こんなことで泣いていても、誰にも理解されない。それどころか、さらに冷たい目で見られるだけだ。


 泣き続けたおかげか、私は少し冷静になっていた。


「悪い魔女も、そんなに悪くないかも」


 むしろ、冷静を通り越して開き直っていた。


 泣きながらも前世の記憶を除き続けてわかったのだが、私の末路はそう悪いものではなかった。

 悲しみのあまり自死したり、振る舞いのせいで投獄されたり追放されたりもしない。もしもそんなことになったら、蝶よ花よと育てられた生粋の令嬢である私では一日も耐えられなかっただろう。


 乙女ゲームの中で、私については「その後彼女の姿を見る者は誰もいなかった」の一文のみで終わっていた。


 きっと王子様との結婚がなくなった傷心で引きこもってしまったのだろう。


 それに、よくよく考えてみれば王子様と結婚したら王妃になってしまう。国を背負う覚悟も何もない私には荷が重すぎる。

 ならばさっさと婚約を破棄してもらって、引きこもるのが最善かもしれない。

 両親の脛をかじり続けることには胸が痛むけど、ほとぼりが冷めた後にでも独り立ちすれば問題ないだろう。


 性格の悪さが原因で王子様に振られた娘を正妻に迎えたい人もいないだろうし、側室にするには私の身分は高すぎる。

 無理矢理好きでもない相手に嫁がされることがなくなるなら、悪い魔女の道はそう悪くないものに思えた。


「マリー! マリー! 目を冷やす氷が欲しいわ!」


 勢いよく扉を開けると、まだ執事と話していたマリーが驚きで目を見開いた。


「ごめんなさい、あなたの言うとおり悪い夢を見ただけなの。本当に、とっても悪い夢だったけど……もう大丈夫よ」

「では、ただいま氷をお持ちいたします」


 マリーは安心した顔で胸を撫で下ろすと、一礼してから氷を貰うために厨房に向かった。


「ご当主様も心配されておりましたので、のちほどお会いしてみてはいかがでしょう」

「はい、ロイドにも心配をかけてしまいましたね。目の腫れが引いたらお父様のところに向かいます」


 構いませんよと言って優雅に一礼した執事のロイドも去っていく。彼はお父様付きの執事なので、これからお父様のもとに向かうのだろう。


 戻ってきたマリーから、何重にもまかれた布に入った氷を受け取って目に押しあてる。

 腫れが引くまでの間にこれからどうすればいいのかを考えないといけない。


 きっとお父様は今頃、よくわからない理由で泣きわめく我が子にどう接したものかと悩んでいることだろう。

 だけど安心してほしい。お父様の気苦労も今日で終わる。

 自分の中にある記憶が普通ではないと知った私は、なんとか汚名を返上し、良好な関係を築いていくつもりだ。王子様に捨てられた後に引きこもるために。


「マリー、お父様のところに行くわ」

「もうよろしいのですか?」

「泣いていることはわかっているみたいだし、少しはよくなかったから大丈夫」


 マリーに氷が溶けて湿った布を渡しながら、決意を胸に抱く。


 お父様、将来脛をかじる予定の娘が今行きます。

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