第28話 空気を切って
浜の表面を裸足のつま先で軽く
「無理をしちゃだめですよ」と鉄塔の上で作業をしながらルイが言う。「急がなくても、すぐに元通り元気になりますから」
「わかってる」とは答えたけれど、ルイが何をイメージして「元通り」と言ったのかわたしには不思議だった。
わたしたちの窓は、さらに高くなった砂面に合わせて下の窓枠から三分の一くらいを透明な(といっても、すりガラスみたいに白くなっていて見通すことはできないのだけど)アクリル板でふさがれているので、出入り口は狭く窮屈になっているけれど、今のわたしは体が小さく、しかも砂に足が沈むことがないので、疲れた体でも軽々と部屋に出入りすることができた。
砂を動かさないようにピッチャーの水の上澄みを静かにグラスに注いで、わたしはベッドの端に腰をかけて少しずつ飲んだ。
ベッドに座るとどうしても収集物の棚が視界に入ってしまって、気づけばわたしはいつも不思議な気持ちでそれらのコレクションをひとつひとつ目で確かめている。それらはわたしが自分で集めたものだという気もするし、そうではなくてすべてがわたし自身の中から取り出された物のような気もして、なにか恥ずかしい過去を見せられているようでもあり、でもそれだけじゃなく、ここで目を覚ましてこの新しい時間が始まって以来ずっとこの棚に感じつづけている、何かが記憶と異なっているという違和感もまた、わたしを落ち着かない気持ちにさせる。きっとほとんどはもう要らないものだから、いつかルイに頼んで全部見えないところに片づけてもらったほうがいいのかもしれないけど。
少し休んでから、ルイが仕事をしている間にわたしは朝ごはんの準備をする。昨日の定期便が空輸してきた丸いパンがあったので半分に切り、さらにそれぞれを二枚に切って、お酢で戻した乾燥ハムと、ざっくり切った豆苗を挟んで軽く焼きながら、小さな鍋で麦茶を煮出すと、香ばしいにおいが部屋に広がり、それで何かを思い出しそうな気にもなるのだけど、だけど古い世界の記憶も印象もみんな自分のものじゃないようで、遠くて、はっきりとした像を結ぶことができず、そこから湧いてきそうだった気持ちもまた、形にならないうちに消えてしまう。
ルイが県庁から聞いた話によると、遠くないうちに全ての監砂台が不要になるそうで、もしそうなったらわたしたちもここに住み続けることができるのか、どこか別の場所で暮らすことになるのか、砂の上かそれとも船の上か、まだ分からないけれど、もしここを去る日が来て部屋もベッドもコレクションも目の前から消えてしまえば、そしてひょっとしてルイとも離れてしまうことになったら、わたしはもう自分が誰なのかを知る糸口すら失ってしまうのかもしれない。
「おいしいです」とルイはうれしそうに言う。「これはわたしの知らない物です。やっぱり、食べ物を作るのがお上手ですね」
「そうかな、分からない、けど、作ってた記憶みたいなものがあるから」
「わたしはそういったことを全く知らないから、とても助かっています」
たしかにわたしは、食べ物の作り方とか、古い世界のいろいろなこと――終業の鐘、銀のシャワー、赤い旗の列――とか、様々な場所での砂の流れ方とか、そんなことを記憶しているし、この部屋もこのベッドも分かるし、ルイのこともルイだって分かってるし、棚の収集物ひとつひとつのことも覚えてるのだけど、でも、どういうわけか、自分のことだけは分からないのだ。
ルイ。わたしは誰なんだろう? ルイなら知ってるよね? わたしがこうして砂の上の世界で、人の姿をして存在してる理由も。そう尋ねたかったけれど、この何日間かの会話で、話題がそちらの方面に近づくと、ルイが悲しそうな、あるいは申し訳なさそうな顔になることにわたしは気づいていた。わたしは恐ろしかった、わたしが誰かであることを知るのも、わたしが誰かでないことを知るのも、もしかしたら誰でもないということを知ってしまうのも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます