第27話 このベッド

 今日は外を歩くこともできたし、少しだけど自分のこともひとりでやれたし、それは回復というか、少なくとも改善ではあるんだろうけど、たったそれだけで体はもうくたくたに疲れてしまって、部屋に戻ってくるとまたベッドに横にならずにはいられなかった。こんな調子でなければこのベッドはまた前みたいにルイにゆずってあげたいのだけど、今はそのことでルイを説き伏せる元気もないし、それに今のわたしは、監砂台の仕事もルイに全部やってもらっていて、自分の髪までルイに結んでもらっているほどで、まるでこちらのほうが子どもみたいだ。

 何日か前に意識を取り戻した――本当に「取り戻した」と言えるのかどうか分からないけど、とにかく、今までつながるこの意識が始まった――とき、わたしは自分が誰なのかは分からなかったけど、自分が横になっている場所がこの部屋の、このベッドであることだけは明瞭に認識していた。かつてこの監砂台が家族で暮らす家の二階だった頃に香穂が寝起きしていたのも、砂嵐の夜にクッキー缶の白砂に足を沈めた香穂を見てしまったのも、あの夏にりさ子ちゃんが遊びに来てくれたときに二人で座って夕方までおしゃべりしたり、香穂ちゃんと手を握り合ったり額をくっつけ合って眠ったりもしたのも、そしてあの日を迎える前の最後の日曜日に、両腕を投げ出し片膝を折り曲げて眠るルイの姿に香穂の面影が重なって見えたのも、ぜんぶこのベッドで、今はわたしが力のない体でそこに横たわっている、というよりは、今そこに力のない体で横たわっているのがわたしなのだ。

 部屋の中の様子は特に以前と変わっていないようで、テーブルや椅子も収集物の棚もそのままで、すり減って細くなった鉛筆や、砂の摩擦で薄くなった女生徒の制服、ガラスの外れた目覚まし、後ろ半分が無くなった残った運動靴といった品々の位置もほぼ変わってないみたいなのだけど、ほんの少し、微妙な違和感みたいなものもあって、でもこれは棚の方が変わったのか、わたしの感じ方のせいなのか、よく分からない。

 横になっていると、隣の部屋でルイが食事を用意している音が聞こえてくる。このベッドの上で見知らぬ自分として目覚めて以来数日、少しのパンとスープしか口にできずにいるけれど、飛行船から新しい食料も降ろされていたみたいだから、今夜は少しちがう食事が出るかもしれないし、元気になるためにはちゃんと食べなきゃと思ってはいて、そもそもわたしは元気になりたいのかどうか、それもよく分からないことのひとつだけど、それでもルイがせっかくわたしのために用意してくれているのだから、できるだけ食べて回復しなきゃいけない。今のわたしを砂の下からすくい上げてくれたのは、たぶんルイなのだし。

 こうやって横になっているままではまた眠ってしまいそうだし、何かを食べようという気にもなれそうにないので、わたしは少し無理をして体を起こし、少しふらふらしながらもベッドの端に腰をかけて、何をしようというのでもなくからっぽに近い気持ちでコレクションの棚を眺めた。

 収集物をひとつひとつ見つめていると、砂の中からそれを見つけた時の視覚や触覚の記憶がよみがえってくる。とすると、やっぱりわたしはこの監砂台の監砂員だった人、つまり香穂ちゃんのお兄さん本人なのだろうか、とも思うけどその一方で、長いあいだ砂の上をさまよい歩いて、香穂ちゃんと別れたあの場所とその時を探し求めていた記憶もあり、あるいはずっと前からもうわたしは誰でもなく、深く沈んだ無数の砂そのものだったはずなのにとも思っていて、何がなんだか分からず、本当のわたしの姿が映ってるはずと思って鏡を見ても、そこには全く知らない、だけど誰かに似てるような気もする、どことなくルイを思わせる雰囲気もある、つるりとした子どものような顔が見えるだけだ。

 ノックが聞こえて振り返ると、ドアが少し開いてルイが顔を出し、わたしが体を起こしてベッドに座っているのを見てうれしそうな顔をした。

「食べられそうですか、パンケーキなら、少し?」

「うん。ありがとう」

「ちょっと待っててくださいね」

 パンケーキ、それもまた、わたしの記憶――と呼んでいいのかどうか、分からないけど――の中にあるものだった。

 ルイが持ってきた、小さく切ってシロップにひたしたパンケーキを、わたしはベッドで体を起こしたまま、自分でスプーンを持って口に運ぶことができた。とてもよい香りがして、このおぼろげな体の隅々まで、一口ごとにその甘さがしみわたってゆくかのように感じながら、わたしは「おいしいよ」とかそういう言葉を発せられず、ただ泣きそうな気持ちで、消え入るような声でルイの名を呼ぶことしかできなかった。

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