第26話 分からない

 灰色に暮れかけた夕空を半分隠すようにぽっかりと浮かんだ大きな飛行船が、舳先へさきと船尾の探照灯を点灯して円錐形の光を振り回し始めているのを仰ぎ見つつ、ルイに肩を支えられながら水場の小屋に向かって砂を踏んで行くと、自分の体が驚くほど小さく軽いことをあらためて思い知らされて、まるで自分の体じゃないみたいだ、と思ってしまうのだけど、しかし、思えば今のわたしにはそもそも自分が誰なのかさえ分からないのだ。

 停泊した飛行船の左右に伸びたアームに取り付けられた巻き上げ機からは長いロープが何本も砂上に垂らされ、人々や荷物はそれを使って引き上げられたり降りて来たりするのだけど、船自体は決して降りてくることがない。築かれつつある新しい世界ではこれらの飛行船こそが人間たちの社会の接点であり中心でもあり、いわば動く街みたいなもので、人々のつながりも、場所ではなく船を単位に組み立てなおされはじめていて、県庁ももう県庁という一つの建物ではなく、何艘かの船にまたがった人と人のネットワークの中にあるのだとルイが教えてくれた。

 年とか月とか曜日とかいうものももう無いらしく、ルイはわたしに理解できるような数字で時間の経過について語ってはくれないから、あの金曜日からどれくらい過ぎたのか分からないけど、わたしの体が不思議なほど小さいのを差し引いても、ルイの背が伸びているのは確かなようだし、きっとずいぶん長い時が経ったのだろう。

「ありがとう、ルイ。だいじょうぶ。歩けるよ」

 そう言ったわたしの声は弱々しく、か細くて、ルイはレンズの無いメタルフレーム越しに心配げな目をしながらも、「わかりました」とうなずいて腕を離した。

 ルイは背が高くなってもルイで、ほっそりした体も、顔も声も表情も全然変わらないのに、わたしは自分でも誰だか分からない、見たこともない人間になってしまった。

 小屋に入ってトタン板の戸を閉め、柱につかまりながらゆっくりとの子の上にしゃがんで、タンクの水を柄杓ひしゃくですくって顔を洗おうとしたわたしは、自分の顔に何か軽い、硬いものが掛かっていることに気づいて、手探りで外してみるとそれはレンズの無い赤い眼鏡、つまり、あの夏にりさ子ちゃんと浜で初めて試みたときに、失くしたメタルフレームのかわりにおばさんに買ってもらったあの赤いセルフレームだったのだけど、いつの間に、どうしてわたしがこれを掛けていたのか分からない。今のわたしにはいろいろなことが分からない。この眼鏡はたしかあの金曜日、香穂ちゃんのお兄さんの目の前で、りさ子ちゃんが下降砂流に投げ捨ててしまったはずなのに。

 考えたって答えは出ないっていうことだけは分かってきているから、疑問はいったん忘れることにして、わたしは眼鏡を置いて顔を洗った。わたしが着ていたのは白いTシャツ一枚だけで、これは監砂台での暮らしで香穂ちゃんのお兄さんが寝間着に着ていたものだから着慣れてはいるけど、今のわたしには大きすぎてだぶだぶで、だから弱った体でも楽に脱ぐことができた。

 でも裸になってしまうと、わたしがわたしである証拠というか、根拠というか、この監砂台にいる権利さえ全部なくなってしまった気がして、ほんとうに自分が誰か分からない。これがわたし、この体の中にあるのがわたしなんだって、普通なら何の疑念も無くそう思えるはずなのだけど、今のわたしは、腕や脚なんかも信じられないほど細くて小さいし、肩も胸もお腹もいちばん細かい白砂の表面のように肌が滑らかで、髪は香穂ちゃんやりさ子ちゃんや、ここに来たばかりのころのルイみたいに、結んでいないとちょっと邪魔になるくらい長い上に、風か水かあるいは砂の流れみたいに均質にさらさらしてて、まるで記憶に無い他人の体というより、誰のものでもない嘘の体みたいだ。

 だけど濡らしたタオルでごしごしと拭くと、薄い皮膚にちょっと赤味がさして、ひりひりして、そこにだけは確かに人間の形をして生きているわたしの存在が感じられるから、それを確かめながら体を拭いているあいだに、たぶん掛けがねがちゃんとかかっていなかったみたいで、いつのまにかトタン板のドアが開いて、夕方の白い光が小屋いっぱいに入ってきていて、それでもわたしはぼんやりと簀の子の上に座って、灰色の夕景と飛行船を眺めながら首や背中を拭いていたら、ルイが砂の上を飛ぶように駆けてきて、頬を少し赤らめて顔をそむけながら、わたしの体にバスタオルをかぶせてくれた。

「大丈夫ですか」

「うん。ごめん。ありがとう」

 そしてわたしはまた元通りに赤い眼鏡をかけて、持ってきてもらった大きな青いシャツを羽織り、ルイに肩を抱かれながら、砂の上を歩いて監砂台の部屋へ戻った。今の体はほんとうに軽い。砂を踏む足は一センチも沈むことがないくらい。

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