第25話 下降流

 青白い朝の砂の上で、彼女は十日前と同じように、天頂に顔を向けてじっと寝そべっていたが、こちらの存在にはとっくに気づいているにちがいなかった。

 セイルを畳んでスキーを置き、砂の緩斜面を歩いて上りながら、今ならまだ引き返せる、別の道を選択することもできる、と頭では思いつつも、きっとこのまま約束通り彼女といっしょに砂に沈んでゆくことになるのだろう、という確信めいたものが心にあり、袖無しの白いワンピースをまとって横たわったりさ子を目指す歩みに迷いは無かった。

 近づくにつれ分かってきたのだが、彼女の周りにはスキーもセイルも防砂服も見当たらず、おそらく彼女はそれらを自らの手で下降流に投じ、浜の深みに呑み込ませてしまったのだと思われた。

 表情がはっきり分かる距離まで来たとき、島田りさ子はゆらりと上半身を起こし、うっすらと笑みを浮かべて、レンズの無い赤いセルフレーム越しに視線を向けてきた。

 白いワンピースは前のボタンが全部はずされており、ただ肩に引っかかっているだけだったから、体を起こすと前が開き、グレーの下着に押し上げられてはみだすように盛り上がった白い胸の形が、砂からの反射光で柔らかく浮かび上がり、その露わな肌と赤いセルフレームとの有り得べからざる組み合わせが、あの夏の記憶の痛みと焦燥を真正面から掻き立てた。

 少し風があり、表面の砂は騒いでいるが、嵐を予見させるほどではない。りさ子の目の前まで近づいて足を止めると、彼女はまるでタイミングを合わせたように、なだらかな砂の盛り上がりの上に両脚を広げて立ち上がった。

 はだけたワンピースの左右の身頃みごろの間から見える、白い胸元と腹部と内腿うちももは、あたかも最もきめの細かい砂が人肌の形をとっているかのようで、足首から下はそのまま浜に溶け込み、浜そのものの一部みたいに見えた。

 目が合うと、りさ子は頭をちょっと動かして自分の背後を示した。彼女の立っている砂の高まりの後ろには、数メートルばかりのすり鉢状のくぼみがあり、その底の部分がぼんやりと霞んで見えるのは、その場所の砂が動いているからに違いなかった。

 りさ子は両肩を後ろに引いてするっとワンピースを脱ぐと、まるで洗濯桶にでも放り込むみたいに、後ろ手ですり鉢の底に投げ入れ、振り返りもせずこちらを見つめていたが、くしゃくしゃになったワンピースは生き物のようにもぞもぞと動き始め、まるで下から糸で引っ張られているかのように徐々に砂に引き込まれて、見える部分が小さくなり、最後には、すぼっ、と消えた。

「今日は、この場所の下降流がとても強い」白く丸い肩をちょっと上げながら、島田りさ子は言った。「複雑な周期があるの。下の構造と、月の引力のせいで」

「それで今日だったんだな」

「あの日もそうだったの。ずいぶん調べて、やっと分かった」

 りさ子は一歩、二歩と近づいてきて、ふんわりとした両腕を前に伸ばした。腕を上げると、胸がきゅっと上がる。

「来てくれないかと思った」

「君ひとりではあの子は出てこないの?」

 その問いに答えは無く、そっと、しかし強い力で両肩を掴まれた。目の前に迫った、白い砂の彫像のような頸と肩と胸の複雑な曲面の陰影が、あの夏起こったことと、今から起ころうとしていることを想起させた。

「防砂服なんか脱ぎなさい。滑稽よ」

 言われるままに、もぞもぞと砂防服の袖から腕を抜き、脚を抜き、長靴も脱いで、裸足に下着姿になる。島田りさ子が、脱ぎ捨てられた右の長靴を、そして左の長靴を、それから砂の上に落ちた防砂服を、ひとつひとつ拾い上げ、くぼみの底へ放り投げると、左右の長靴は砂の流れに徐々に引き込まれながら別々にぐねぐねと動いて、まるで歩きだそうとするかのように見えたけど、ほどなく深みに吸い込まれて消えてしまい、砂防服もまた、踊る人みたいに袖と脚をうねらせながら、腰を折り曲げるようにして砂に呑まれていった。

「これも」

 りさ子が、掛けていたレンズの無い赤いセルフレームの眼鏡を片手で外し、そのまま肩越しにすり鉢の底へ放り投げたのを見て、思わず手を伸ばそうとしたとき、足元の砂が崩れはじめ――いや、砂になった足が崩れはじたのかもしれない――ぐらりと傾いた体を、彼女に抱き止められた。

「わたしはあなたになる、あなたはわたしになる」

 彼女の豊かなふくらみが、二人の胸郭に挟まれ、押しつぶされている、のだけど、そこには温もりも無く、弾力も無く、ただ砂の塊がほろほろと崩れてゆく感触だけがあり、そしてTシャツの裾から入ってきて背中に触れている彼女の両腕もまた、人の肌というよりさらさら流れる砂のようで、そこから一粒一粒が互いの間に入り込み、二人の体が混じり合い始めるのを感じた。

「そして香穂ちゃんになるの」

 りさ子は腕に力を込めて――いや、それはもはや彼女の腕とは呼べない、激しい砂の流れそのものだった――二人の胸と肩をぐしゃりとひとつに合わせてかき混ぜながら、半開きの唇を唇に重ね、ぐいぐいと押し付けてきたが、彼女の唇に湿り気は無く、人間の呼気の匂いも、唾液の味も無く、前歯をこじ開けるようにして口の中に入ってきたのは、濡れた舌ではなく乾いた砂、信じられない量の砂の奔流が一気に喉の奥に流れ込んできて、その重さと苦しさと驚きに、思わずりさ子の体にぎゅっとしがみつこうとしたが、力を込めようとするほどに、二人もろともに、体はもろもろと砂になって崩れ、すり鉢状のくぼみの底に向かって流れ落ち、混じり合いながら、下降砂流に引きずり込まれて深く暗いところへ沈んで行く。そしてさらにもっと深いところへ、深いところへと流れてゆく二人のその先端が、ひんやりとして硬い、小さな手に触れた。

 香穂?

 あの子はしっかりと、堅く手を握り返してきた。

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砂委員の街 猫村まぬる @nkdmnr

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