第22話 野生の小鳥
リコイルロープを勢いよく引っ張って発電機のエンジンをかけるのには少しコツが必要で、七、八回試みてやっと成功させたルイは「やったあ」と声を上げ「これで電気は心配なしですね?」と白い歯を見せたが、本当は喜んでいられるような状況ではなく、予備のバッテリーも残り少なく、もう発電機の燃料もあまり無いから、こうして多少補ったところで数週間のうちにエネルギーの備蓄が尽きるだろうことは明らかだったのだが、ようやく元気になってきたばかりのルイに今そこまで話すわけにもいかなかった。
「とりあえずはね」
ルイが来てからまもなく一週間、電力はもちろん生活のためにも必要だが、今は無線の出力をできるだけ上げて、何としても県庁に連絡をとらなければならない。
ルイは「水タンクを見てきます」と言って、砂上を裸足のままで、どうしたらそんなことができるのか古い世代には分からないのだけど、跳ねるように軽やかに走ってゆく、防砂服でなく白いシャツのルイの後ろ姿は、この砂の世界では長らく目にしていない野生の小鳥を思わせた。
理由はわからないけれど、ここへ来て四日目の月曜の朝に、ルイは長かった髪を自分でばっさりと切ってしまい、それを境に別人のように、よく動き、よく笑うようになって、香穂を思い出させるような気配は霧のように散ってしまったのだが、思った以上に利発な子で、六日目の今朝ともなると、言われなくても自分からやぐらに上りタンクの貯水量をチェックして、するすると降りてきて目盛りの数値を報告してくれたし、砂位計や風向風速計の読み方も、空中砂量計のサンプルの取り出し方も、何度か横で見ているうちにもう覚えてしまったらしく、県庁からの補給さえちゃんと続くなら、監砂台でひとりで生きていくこともできそうだった。
朝の日課が終わり、昼食も済ませると、ルイは勉強を教えてほしいと言いだした。
「十歳までしか先生に習ってないんです。父は意味が無いと言って、あまり教えてくれませんでした」
だから本の内容はなんとなく分かっても、読み方の分からない字が多いのだというので、ここにいるうちは、わずかな間だけでも望み通りにしてやろうと思い、テーブルの前にふたつの椅子を隣り合わせに並べ、本を持ってくるよう言うと、きれいだからという理由でルイが本棚から選んできたのは古い旅行雑誌で、二人でページを覗きこみ、海や山や街並みの風景や、今ではこの世に存在するかどうかも分からない工芸品や料理の写真を見ながら、既に砂の底になったであろう地名や、指すべき概念すら失ってしまったかも知れない文字の読み方を、ひとつひとつ尋ねられるままに教えてやると、まるでそれぞれに得難い神秘的な価値があるかのように、ルイは小さな声で何度も何度も繰り返した。
数センチ隣で、前のめりになったり、ちょっと傾いたり、上がったり、下がったりするルイの両肩は、簡単にひねり壊せそうなほど華奢なようでもあるけれど、ふとした瞬間には、どんな外力でも跳ね返し、あるいはするりと
二時間ほど勉強を続けて、そろそろ集中力が切れてきたらしく、ルイは紅茶を入れてくると言って、二人分を持って戻ってきた。
「浜の下には今でもこんな世界があるんでしょうか」とルイは閉じた旅行雑誌の表紙の、海と列車の写真を眺めながら言った。「行ってみたいな」
「いや、こんな世界はもうないよ。砂の中では、全てが姿を変えてしまうからね。何もかもが砂になってしまう」
「それはやだな。じゃあ死んだあとでいいや」
ルイは雑誌を本棚に戻し、すっかり磨りガラスになった手鏡をコレクション棚から持ってきて、回したり角度を変えたりして眺め始めた。
ここでこんなふうに暮らしの術を伝えたり、字を教えたりしてやれるのは、あと二日ばかりの間だけかも知れないことを、この子にいつ伝えればいいのか、それとも最後まで黙っているべきなのか、それについて深く考えてしっかりと決める余裕は、申し訳ないけれどもう無かった。
こうしている間にも、緊急無線機は一定間隔で、県庁に向けて最大出力の呼出信号を発信し続けている。連絡が取れれば、もともと県庁の子であるルイのことは彼らに託せばいいが、約束の金曜になっても県庁からの応答が無い可能性については、今は考えたくなかった。ルイひとりでも、ルイひとりなら、補給が無くても何とかここで1か月以上持ちこたえられるだろうが、その先のことは、考えたくなかった。
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