第23話 黒いもの

 人は、砂でしかない。

 砂の時代が始まるずっと前から、この身体はもともと薄い皮膚に砂を詰めただけの五体の形の皮袋にすぎなかったのだし、自我や自己なんてその皮一枚の厚みの中の問題でしかなかったのに、それにもかかわらず、そんな当たり前の事実を日々の営みが意識の外に押しやり、「生きる」という、つまりは砂袋の形態を保つだけのことのために、人は力と時間を限りなく費やしてしまう。ひとたび袋を破って浜に流れ込んでしまえば、そこには力も時間も無限にあるし、どちらももう必要じゃなくなるのに。

 香穂は八つのときにもうそれに気づいていた。「ただそこに加わればいいの」と島田りさ子は言う。「そこにはもう、あなたとわたしはいない。でもあなたもわたしも、香穂ちゃんもいる。わたしたちが失くしてしまった物がみんな、街も、夏も、海も砂になって、ひとつになってそこにある」

 階段のふたを外して砂と一つになる深夜の密かな儀式は、日常生活のかりそめの世界を消し去り、全ては砂の中にあるのだという事実を思い出させてくれる。

 いつもよりも深く砂を掘り下げ、膝関節の下まで沈めると、ほどなくして感覚は失われ、意志のとおりに動く器官であることをやめた二つの脚は次第に浜と同質になって、境界としての意味を失った皮膚は限りなく薄くなってゆき、やがては水風船がぽんと弾けてぱしゃんとつぶれるみたいに、暗闇の中で全身の砂が一度に崩れ落ち、ちりぢりになった意識は果てしなく広く底なしに深い浜に溶け込んでいって、そうなってしまえばもう自分というものを見出すことはできなくなるだろうけど、でもそこには香穂もいて、かつて自分の心だったものと香穂の心だったもの、かつて自分の体だったものと香穂の体だったものが、重なり合い、入り込み合い受け入れ合い、溶け合い混じり合いそして――

 

 どん、と強い衝撃が来た。


 ――ん! ――んで! ――なこ……!!

 再び、三度みたび、どん、どんどん、と反復される背後からの強い物理的打撃と、めまぐるしく形を変えながら視界を動き回り、時々強烈に力を増して目に突き刺さる黄色い光と、叫ぶような人の声が、捨て去ろうとしていた人間の形を無理矢理に取り戻させようとする。

 ――さん! ――のさん! ――んですか!

 耐えかねて、襲いかかってくるそれらを腕で振り払おうとしたら、何か硬いものにひじがガツンとぶつかった。

「……うくっ!」

 その声に表れた苦痛の生々しさに、一気に意識が引き戻された。

 今の声は、ルイ?

 さらに激しく、繰り返し、声は耳の近くで何度も叫び続け、拳は背中に打ちつけられる。

「……ったぁ! ……もうっ! バカ! 戻ってきてよっ!」

「……ルイ、痛いよ……」

「痛いのはこっちだよっ! いったい、何を、やってるんですか!」ルイは叫ぶというより泣きわめいていた。「あなたはもっと、賢い人だと思ってた!」

 突然、両肩の関節が、外れそうなほど強く後ろに引っ張られた、かと思うと、あの華奢な身体のどこにそんな力があるのか、細い両腕でがっちりと羽交い締めにされて階段の上に引きずりあげられて、何の抵抗もできないまま、ルイに馬乗りになられ、平手で頬を三度、四度と続けざまに打たれた。

「何人の大人が、どれだけたくさんの人が、そうやって駄目になっていったか、あなたは知らないんですか! わたしは知ってる! たくさん見た! 最初の父も、先生も、それから、それから……」

 目を開けると、寝間着にしている古いTシャツを着て、ストラップで首に携帯電灯を下げたルイがいた。揺れる携帯電灯の光が顔を照らし、唇の端から黒いものが一筋垂れているのが見えた。

 血だ。傷つけたのか、この手が、この子を。

「ルイ、ごめん、さっきは……」

「うわああああっ」ルイは言葉にならないなにかをわめきながら頭を激しくぶつけてきて、とんでもなく大きな声で泣きつづけた。「うわあああああ」

「ごめん、ルイ、痛かったよね」

 子どもというのはみんなクッキーの匂いがするものなのか、どうすればいいのか、もう分からなくて、ただ大声を出すのだけはやめてほしくて、泣きじゃくる子どもの背中に両腕をまわして抱きしめると、細い身体の中で何かが燃えているんじゃないかと思うほど熱かった。

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