第21話 残量


 三日目の朝、ルイは自分から起きてきて、物置き部屋のドアをノックした。

「何かします」

 ルイの顔色にはいまだ憔悴しょうすいが見て取れたが、声は澄み、目の輝きも戻りつつあった。

「教えて下さい。食事の準備とか」

「まず、顔を洗おう。君の顔は砂だらけだよ、ルイ」

 外にある水場に連れてゆき、身体の清め方を教えた。水場は隙間だらけながら一応トタン板の戸がついた小屋になっており、シャワーもあるものの、貴重な水をむやみに使うわけにはいかないので、顔と髪だけを水で洗って、首から下は絞ったタオルで拭くことにしているのだけど、そういった事情はルイのいた県庁でも同じだったらしく、教えるまでもないようだった。

 ルイが小屋の中で身を拭っている間に、風向風速計や空中砂量計のデータを回収し、やぐらに登って水タンクの残量を確認してみたが、二人分使っても約束の金曜日までは十分もちそうだった。

 やぐらの上からはどちらを向いても白い砂の水平線で、消防署の望楼も完全に埋もれているようだったが、今朝は空気がやや澄んでいるらしく、空にはかすかな赤みと青みがあり、ぼんやりとした光の広がりで、まだ昇って間もないはずの太陽の位置も分かった。

 梯子はしごを降りようとした時、ふいに誰かに見られているのを感じ、はっとして振り返ると、視線の主は小屋の前で気遣わしげにこちらを見上げているルイだった。

 ぼやけた朝の光の中に立つほっそりしたシルエットは、貸してやったTシャツの丈が長すぎるのと、濡れた髪を下ろしていたというそれだけの理由のせいだろうけど、ワンピースを着た香穂を思わせた。

「……大丈夫だよ。水はたっぷりある」

 ルイはこくんとうなずいたが、そんなことは考えていなかったという顔だった。

 部屋に戻るとルイはベッドの縁に腰を掛けて、水浴びだけでも疲れたのか、軽く肩で息をしているようで、今すぐ料理や掃除をさせたり仕事を教えたりしようとは思わなかったけど、金曜までの間に、県庁との連絡を回復するなり、この子がここでしばらく生きてゆける算段をするなり、なんとかしてあげなければ、このまま一人でここに残すことになってしまう。

 コンビーフと缶詰トマトとパンの朝食の後、今度は緊急無線の出力を少し上げて県庁に三十分間ほど呼出信号を送り、それから周波数を変えて他のいくつかの監砂台も呼び出し、念押しのためにやぐらに登って軟球銃で信号弾を打ち上げると、空高くにインクのしみのように広がった赤い煙が、比較的視界のいい今日ならば誰かが見つけてくれるのではないかと期待を持たせた。

 ルイはまたベッドの端に座って、本や収集物を眺めたりぼんやりとしたりして過ごしていたが、午後になると糸が切れたように力無く四肢を投げ出して、とぎれとぎれのはかない寝息を立て始めたので、その姿を片目の端に収めつつ、インスタントコーヒーを飲みながら巡検用具の手入れをしたり、防砂服を繕ったり、普段どおりの作業をして過ごしたが、その間も無線には何の反応も無く、まさか県庁そのものが砂に呑まれてしまったのだろうかという考えが意識の隅をよぎったものの、さすがに本庁舎のある高台がここよりも先に沈んでしまうとは考えづらかった。

 視野の片隅で眠り続けるルイの具合を気にかけつつも、真っ直ぐに目を向けることができないのは、つまるところ心が乱されてしまうからで、それというのも、膝上まであるだぶだぶのTシャツの裾からやや奇妙な角度に開かれてするりと伸びた、滑らかで直線的な二本の脚のうち、右の一本だけがベッドの縁で折れ曲がって床に向かってぶらんと下がっている様が、いつか見た香穂の姿とそっくり同じだったからだ。

 何が事実の記憶で、何が昨日見た夢で、何が今この瞬間に脳が捏造したイメージなのか、区別する術は無いし、時間軸の中に位置づけることもできなければ、物語として語ることもできないのだけど、今のルイと同じ姿勢で、同じこのベッドに横たわっていたあの子の映像が、ルイの姿に重なって消えないのだ。

 夕方のうたた寝だったのだろうか、制服のままでベッドに斜交はすかいに寝そべり目を閉じた香穂の左脚は、重なり合った紺色の折り襞の下から真っ直ぐに伸びていたが、右脚のほうはだんだん開いてマットレスからはみ出し、今のルイと全く同じ形で下向きに曲がり、床に置かれたクッキー缶の中に沈んでいた。

 白い砂に足首まで隠れた右足の傍らには、まるで何かが入ってくるのを待っているかのような、滑らかな空白の砂面があった。

 招かれているのか。

 一瞬そう思ってすぐに自らを恥じ、いや拒まれてるんだ、といじけた気持ちになって、その相矛盾する二つの思い込みの間で、ほんの何センチか足を持ち上げて缶の中に踏み入れることもできず、部屋を出てゆくこともできず、こうしてベッドの傍らに凍りついて動けないまま、今日まで時が流れてしまったけれど、でもあと数日で金曜日が来れば、止まっていた時の流れを取り戻すことができる。

 ルイの右足がひくりと動き、ひょいと跳ね上がるのが視界の真ん中に見えて、目をそらしていたはずが、我知らずのうちにじっと見つめていたことに気づいた。

 体を起こしたルイは眠たげな目をこちらに向け、一瞬驚いた表情をして、それからすぐにほっとした顔になった。見ようによっては笑顔に見えなくもなかった。

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