第7話 音

 その音が始まるのは、皆が寝静まった頃、時には深夜の二時や三時だったりした。

 音と言ってもかすかな気配のようなものに過ぎず、神経を集中していなければすぐに見失ってしまうのだけど、この耳で感じられたのは確かだし、他の物音にまぎれると聞こえなくなってしまうのだから、やはり物理現象としての音だったのだろう。

 週に一度くらい、始まりも終わりもはっきりと聞きとれないので何分間とは言えないが、断続的に一時間ほど続く音にじっと耳を傾けていると、香穂の身に何かが起きているのではないかと不安にもなったけれど、もはや幼いとは言えない彼女のドアを、真夜中に用もなく開くわけにはいかなかったし、何かあったのかと直接たずねることもためらわれた。

 音の源が分かったのは、香穂が島田さんと砂委員を務めたあの夏より、およそ半年前のことだった。おそらくは深夜というより夜明け前に近いころ、何かの気配にふと目を覚まして、暗闇と布団の中で耳を澄ますと、まるで雪が落ちるような、水を通した水道管がかすかに震えるような、ジャケットから出したレコード盤が静電気を発するような、火を消したコンロが冷えてゆくような、しかしそのどれとも違う、あの音が聞こえてきたのだ。

 しばし寝床で耳をそばだてながら、どこから発せられる音なのか、香穂は眠っているのか、それとも起きているのかと当てもなく考えをめぐらせていたが、切れ切れに続いていたかすかな音は、やがて戸外からの風音にかき消されてしまい、吹き止むのを待ってみても風勢は強まるばかりで、ついには軒先の電線がひゅるひゅると鳴り始めるに至って、これはただの強風ではないと気づき、枕元にあるはずのラジオを手さぐりで探そうとした時、家中の柱や梁が破裂するように「ぱああん!」と音を立て、千本の鞭の悲鳴とともに砂の雨が窓を襲ってきた。

 もはや警報を確かめるまでもなく、町は嵐のただ中にあった。

 周りの建物や木々にある程度守られているとはいえ、気密の甘い木造家屋はただでさえ砂が入り込みやすく、ましてこの夜の嵐はその年で一、二を争う激しさだったから、室内の空気はたちまちのうちに、布団をかぶっていても分かるほど砂っぽくなった。ラジオのかわりに探り当てた電気スタンドのスイッチを押すと、幸い停電はしておらず、薄い砂煙のせいで紫がかった光に浮かび上がった部屋は家具も窓ガラスもすべて普段通りだったから、思い切って温かい布団を飛び出し、狂った風音と木材のきしみが響く冷たい階段を裸足で駆け上って、形だけのノックももどかしくドアを開けた。

「香穂、だいじょうぶ?」

 天井の明かりは消えていたけれど、勉強机の小さな蛍光灯がついていて、物の形や色が分かる程度には明るかった。閉ざされた雨戸ががたがた揺れていたが、風鳴りは階下より静かだった。

 香穂は薄い身体をベッドの端に横たえ、Tシャツの胸の上で両手を組んでいた。

 冬でもやや浅黒い脚は、ショートパンツから二本並んでするりと伸び、膝関節で折れ曲がってマットレスの縁から下を向き、足首から先は四角い大きなクッキー缶の中に隠れていた。

 忍び足で近づいてみると、香穂の長い髪はくしゃくしゃの毛布の上に広がって、無造作に放り出された眼鏡にからみついていた。レンズもフレームも無い素顔に真横から光が当たっているせいか、小さな鼻がいつもより立体的に見える。うっすらと砂の積もったまぶたは、閉じるでも開くでもなく、そのあわいで少し震えているようだったし、頬は朱を帯び、あかみの差した唇が半ば開いて濡れていたものだから、熱でもあるのかと思ったけど、苦悶の色は無く、眉は穏やかに開いていた。腕や太腿の筋肉が少し緊張しているようにも見えたが、呼吸による胸の上下の他には香穂の身体に動きは無く、目覚めているのか、眠っているのか、そのどちらでもないのか、判断するのは難しかった。

 床に置かれたクッキー缶には、白い砂がみっしりと詰まっており、香穂の足はその中に隠れていた。天井や壁に付着しているのと同じ、肌目の細かい粉雪のような砂の中に、両足をくるぶしまで埋めていたのだ。

 風はまだ激しく、ごとごとと揺れる雨戸に、何度も何度もかしゃかしゃと砂が降りかかるのが聞こえた。しばらくそうしてベッドのそばで香穂の顔や身体を見下ろしていると、嵐の音にまぎれて、香穂の口のあたりから何かが聞こえた気がして、思わず一歩うしろに下がった。

 それは言葉でも声でもなく、文字にするなら「ちっ」とか「ぴち」とでも表記すべき、濡れた唇か唾液の泡が立てるような単なる小さな音に過ぎなかったし、顔や手足の表情には何の変化も無かったのだけれど、急にどうしても彼女の姿をまともに見ていられなくなって、いたたまれずそのまま後ずさりでベッドを離れ、そっとドアを閉じた。

 翌朝、香穂は嵐について全く触れず、家族がその話をしてもきょとんとした顔で、砂防倉庫までの道でも常と変わらぬとりとめのないおしゃべりの末に、いつものように「ばいばい」と手を振った。

 それからしばらく二階からの音は途絶えたけど、二か月ほどして再び始まり、また毎週のように繰り返され、そしてあの夏まで続いた。

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