第6話 カーブ
姓も同じ、家も同じだったことから、事情を知らない人には兄妹と間違われることもあったが、実のところ香穂は従兄の娘にあたるやや遠い血族に過ぎず、もちろん同じ市内の親戚として幼いころから顔は知っていたものの、うちに一緒に住むようになったのはあの子が八つのとき、
うちに来たばかりのころの香穂はとにかく何も言わない子で、あるいは全く口を利けなくなってしまったのかもしれないと大人たちは気の毒がり、しかしあんなことがあったのだから無理もないと声をひそめあったものだった。
ほどなく夏休みに入ったため、香穂はしばらくは小学校にも通わず、与えられた二階の部屋から出てくるのも食事の時くらいで、話しかけてもほとんど返事さえしなかった。緊急のこととはいえ、家族に女の子がひとり加わったというのは、それまできょうだいというものを知らなかった子どもにとって非日常の体験で、人には言えないけど高揚感みたいなものもあったのだが、その時の香穂からはもう、親戚の集まりでいちばんにぎやかだった眼鏡の女の子の面影は失われていた。
夏休みが終わる頃には、香穂が舟入町の家に帰れそうにないことがいよいよはっきりしてきた。オペラ通りより低い市街地は放棄して、砂に呑まれるに任せざるを得ないというのが県庁の判断だったし、香穂の家族もすぐには見つかりそうになく、彼女はわが家から小学校に通うことになった。
うちはオペラ通りから二つの坂道を上がったやや高い場所なのだけど、同じ段丘の上にあった小学校まで、子どもの足で二十分ばかり歩く間、住宅や木立が目隠しになって、浜はほとんど目に入らなかった。ただ一か所、ボウリング場跡の空き地の横を通る時だけ、視界をさえぎるものがなく、果てしない砂の広がりを見わたしながらカーブする道をおよそ五十歩、その頃の香穂の足ならおそらく六十数歩、徒歩で通り抜けなければならず、そこで香穂が取り乱したり動かなくなったりすることを大人たちは危惧していた。
最初の朝、その場所に通りかかるまでは、香穂は黙って後ろをついてきていた。時折振り返ると、
木立が途切れ、カーブに入り、白い地平線が視界に広がり始めたあたりで、香穂が追いつくのを待った。
洋梨の柄に重なっていた木漏れ日の斑点が消え、全身が日なたに出てから二、三歩あまり、香穂の足が動かなくなったのは、レンズ越しの彼女の瞳がみるみる色を変えてゆくのが分かるくらいの距離だった。
熱を帯び始めた九月の光の中で、香穂は凍りついていた。
この時間を長引かせてはいけないと思ったのは、小学校に行けないと困るとかそんなこと以前に、ここでこうして身体を
「香穂」
名前を呼び、駆け戻って、だらんと下がっていたその左手を取り、小さくて硬くて冷たい五本の指をきつく握ってぐっと引いた。
「行こう」
秋が過ぎ、冬が来て、指が痛くなるほど寒くなると、ダウンジャケットと毛糸の帽子の香穂は、カーブの入り口で黙って手袋を脱いで左手を差し出したものだった。彼女が通学路でとりとめのないことを色々と話すようになったのはそのころだったと思う。
香穂とはちょうど三つ違いで、同じ学校に通ったのはその年の九月から翌年の三月までの間だけだったから、毎日手をつないでそのカーブを行き来したのもその半年あまりの間だけだった。
それ以外に彼女の肌に触れたことは、後にも先にも無い。
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