第5話 家

 古い木造家屋だったから、二階の香穂の部屋から下まで物音が聞こえてくることがよくあった。

 香穂は静かな子だったけれど、早朝や夜更けには、子どもなりの暮らしが生む微かな音、たとえば足音とか、椅子を動かす音とか、丁寧に砂を掃き集める音などが聞こえたり、あるいは音とも言えない気配のような、音としては何も感じられないような音が、ちょうど雪が降り積もるのが聞こえるみたいに、耳のあたりにしんしんと感ぜられたりもした。

 何の音にせよ、そこに確かに香穂がいて、まだ眠らずにいるという事実は胸に温かいものだったし、万が一、今この瞬間にこの高台の住宅地まで砂が押し寄せてくるような破局が起こったとしても、二階で目覚めている香穂が真っ先に砂に呑まれることだけはないと思うと少し安心できた。

 深夜、砂丘の冷たい舌先が、表層でさらさらと絶え間なく崩れながら着実に前進を続け、眠る少女にそっと這い寄り、次第に厚みを増す堆積の重さで両脚の自由を奪いつつ、薄い胸を固く押さえつけ、やがて息苦しさに眠りから覚めたあの子が、頭を上げたり、顔をそむけたり、唇を堅く結んだりしてあらがおうと試みてもその甲斐なく、砂はついには鼻孔に入り込み、たまらずに開いた唇の間から、喉の奥まで一気に流れ込む――。もっとも恐れていたのはそんなイメージだった。

 朝になると香穂は自分で目を覚まし、きちんと制服を着て眼鏡もかけた姿で「おじさん、おばさん、おはようございます」と家族の前に姿を見せた。だらしない服装で家の中をうろついたりすることもなく、部屋の砂かきも自分でちゃんとやって誰の手も借りず、もちろん子どものことだから、朝食のテーブルでラジオのトークに「えへへ」と笑ったり、猫背で腕をだらんとさせて「眠い」とか言って、「ちゃんと座りなさい、香穂ちゃん」などと叱られたりする場面もあったけれど、うちでの暮らしに慣れたように見えてもやはりそれなりに気を張っているのは、そばで見ていれば分かった。

 玄関を出てから、砂防倉庫の角で通学路が分かれるまでの道を二人して歩く間だけ、香穂はおしゃべりになった。家でも静かで、学校でも口数が少なかったらしい香穂が、その五、六分間に限っては自分から口を開き、つっかえたり口ごもったりしながらも、ときには喜び悲しみや怒りの表情さえあらわにしたものだったけど、思えばどんなことを話していたのだったか、香穂の話し方には普通の子と違うところがあって、「えーと」「だけどね」「あのね」ばかりが多く、どこが始まりともどこが終わりともつかず、またその話題は外界の客観的な場所や時間との関係が曖昧だったから、まるで夜の夢の話を聞いているみたいに模糊もことして、はっきりしているのは、全てが何らかの形で砂と関わっていることだけだった。放っておくと香穂の話はいつまでも続き、砂防倉庫の分かれ道で立ち止まってもまだ次の言葉を探していたりするものだから、話の途中でもこちらから切ってやるしかなかった。

「香穂の学校はあっちだろ?」

 香穂は次の言葉の最初の音を言おうと開きかけた口の形をそのままに、レンズの奥の目をほんの少しびっくりしたように大きくして、言葉にならない言葉を飲み込もうとするみたいにうなずき、そしてぴらぴらと手を振るのだった。

「……ばいばい」

 三年、四年、五年を経てなお、香穂の中には吐き出しても吐き出しきれないものがあり、話にならない話や、言葉にならない言葉や、声にならない声や、音にならない音に耳を傾けてくれる誰かを求めていたのだろう。香穂の「ばいばい」を聞くたびに、細い神経が一本ぷつんと切れるような痛みが走ったのは、おそらくそのせいだった。

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