第8話 鼻緒

 家庭の事情を考えれば、香穂には砂委員の役を断るという選択肢もあった。同じような境遇の子は大抵そうしていたし、香穂も当然拒否するだろうと思われていたから、やっぱりやりたいと言い出した時にはみんな驚いて、無理しなくてもいいと言い聞かせたりもしたのだけど、話が具体的になるにつれて朗らかになり、今まであまりしゃべらなかった食事の席でさえ砂委員のことを話しはじめた彼女を見て、大人たちは戸惑いつつも、大筋では喜ばしいことだと考えたようだった。

 日程も夏休み前の最終週と決まり、いよいよ一か月前になると、砂防倉庫までの道でもあの子の話はそればかりだった。

 この年にはもうほとんど梅雨というものが無く、夏至が近づく頃には砂で散乱した太陽の光が気圏を満たし、朝でも少し歩くだけで首筋に汗がにじむほどの暑さで、香穂の頬にも幾筋かの髪が貼り付いていたけど、当人は少しも気にせず、いつになく熱心にしゃべり続けた。

「あのね、最初は天井の砂を降らせるの。自分で落ちて来ないのは、いちばん冷たい砂ね。触っても、触ってないみたいなやつ」

 砂委員の仕事については、教えてもらわなくても分かっている。それよりも気になったのは、香穂と組む先輩がどんな子なのか、たとえば、つまりは、男子なのか女子なのかということだったのだけど、遠回しな質問を幾つか重ねた末に香穂から引き出した答えは、「島田さんはおんなのこだよ」だった。そして当たり前のような顔で「かわいいおんなのこ。島田りさ子ちゃん」と付け加えた。

 香穂が誰かを「かわいい」なんて言うことは滅多に無かったし、そもそも彼女の口から人の名が出ること自体珍しかったので驚きはしたものの、「かわいいおんなのこ」なら別に何も言うべきことはないと、その時は思った。

 ろくに雨も降らないまま六月が終わり、七月も半ばを過ぎ、ついに夏休みの一週間前になった。

 砂委員初日の月曜、朝から上機嫌で登校し、最初の仕事を終えて帰ってきた香穂は、まるで六歳の子供に戻ったみたいに真っ赤な頬で、麦茶のグラスを片手にあれこれとりとめのないことを話しつづけ、家族が揃って夕食の席につくと、おずおずと切り出した。

「おばさん、りさ子ちゃんをうちに呼んでもいいですか」

 今までに一度も無かったことだから、両親はとても喜んだけど、その喜びの中には、自分たちの肩の荷がほんの少し軽くなるという安堵も含まれていたと思う。

 それからの五日間、香穂がどのように砂委員をつとめたのか、見たことも、直接聞いたこともないし、想像するのも難しいけど、ただいくつかのイメージだけは鮮明に思い描くことができる。

 たとえば、まだ日差しの強い教室で、マスクもせず、髪も制服も眼鏡もそのままで、長ぼうきを手に、両腕を伸ばして天井を掃く香穂の上に、激しい銀の雨が降り、熱を帯びた頬や眼鏡のレンズを叩き、袖口からブラウスの中に流れ込んで、汗のにじみかけた肌を冷ましながら、低いところをたどってさらさらと下り、スカートのプリーツを滑り降りてスニーカーの足元に落ちるのを。

 あるいは、裸足の香穂が、夕風の吹き始めた浜を、赤旗の列から距離を取りつつ、一歩踏み出すたびにくるぶしまで埋まり、沈みそうな後ろ足で砂を蹴り上げ、はかない砂煙の航跡を残しながら、沖へ向かう後ろ姿を。

 やがて旗の色が黒に変わり、その黒旗もまばらになったあたりで、香穂は足を止めて振り返る。

「りさ子ちゃん、遅いよ」

 強さを増した浜風が紺のスカートをはためかせ、表層の砂がゆらめきはじめる。浅黒い両脚はすでに膝下二十センチくらいまで沈んでいる。香穂は邪魔っ気そうに制服のリボンをむしり取って投げ捨てて首元のボタンを外し、指をぱらぱらと動かして手招きする。

「りさ子ちゃん、行こう?」

 もちろん、そんな情景を本当に見たわけではないし、その意味するところを説明することもできないけれど、それはイメージというよりほとんど記憶のように、何度思い出しても鮮明で、いつまでも脳裏から消えることが無いのだ。

 香穂が島田りさ子といっしょにいるところを実際に初めて見たのは、彼女が消えたあの日から遡ること数週間前、砂委員の役目が残り一日となった木曜日のことだった。

 夏の陽がやや傾き始めたころ、案内を乞う声に応えて戸口に出ると、ほぼ同じ背丈の二人の少女が、しっかりと指を組み合わせて手をつなぎ、紅い顔を互いに見合わせていた。

 やせっぽちで浅黒い香穂の傍らにいたのは、おでこが広く、頬や肩がふっくらした白い肌の女の子で、家で水浴びをして着替えて来たのか、砂っぽい制服姿の香穂とは違って、よれたタンクトップとハーフパンツと石けんの香りをまとい、二つ結びにするにはちょっと無理のある長さの髪は、まだ乾いていなかった。

 香穂と手を握りあったままで腰を折り曲げて「お邪魔します」とあいさつした彼女の、メレンゲみたいにふんわりした胸元から目を逸らして足元に落とすと、黒塗りの下駄の上に、赤いちりめんの鼻緒を挟んで、桜色の短い指が綺麗に並んでいた。

「香穂ちゃんのお兄さん?」

「うん。ここんちのお兄ちゃん」

「暑かったね」

「アイス食べる?」

 そんなことをしゃべりながら、香穂と島田さんは階段の上に消え、普通の女の子同士みたいに何か言っては笑いあう明るい声が、夕方に島田さんが帰るまで聞こえた。

 深夜、またあの音とも言えない音が始まり、眠りに紛れてしまうまでずっと続いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る