第2話 階段

 校門を出て、木立の中の坂道を降りるとオペラ通りに突き当たる。小さな町の、砂に埋もれかけた商店街にそんな異国風の名前がついているのは、かつてオペラ館だかオペラ座だかという名の映画館があったためらしく、長い時を経てにぎわいをすっかりなくした今も、その名だけはとどめていた。

 商店街とはいうものの、巳年みどし七月の大嵐以来、旧市街の路面は常に砂に覆われていて、商品のパッケージの中にまで砂が入り込んでいるようなありさまだったから、まともに商売を続けようという気のある人たちはとっくに高台に店を移してしまい、残って商いを続けていたのは、遅かれ早かれ店じまいするつもりの老人たちだけだった。すき間なく並んだ二階家のほとんどはもう商売をやめていて、しかも半ば以上が空き家だったし、通りの真ん中にある丸菊百貨店も、赤煉瓦の建物の形だけを残してとっくの昔に空っぽになっていたけれど、その並びにはまだ生活雑貨などを扱う店が四、五軒ばかり連なっていて、そこだけはどうにか商店街らしく見えた。

 その中でも、学校が近いこともあってまずまず繁盛していたショウブンドウという文房具屋の脇の路地の先に、浜へ降りる階段があった。

 この路地をふだん使うのは、砂を捨てに行く近所の人くらいのもので、用事もないのに好きこのんで通る人間が香穂の他にそれほど多くいたとは思えない。黒板塀に挟まれた細い道の奥へ、壊れた温室や物置の傍らを通り抜けると、砂に覆われた六畳敷きほどの空き地があり、地面はそこで終わっていた。その先の、ビルで言うと二階分くらい落ち込んだ段差の下はもう浜で、そこから向こうは砂だけ、もうどこまでも砂しかない。石垣で固められたこの段丘崖だんきゅうがいが、言わば旧市街の最後の防壁だった。

 その広場から、石垣に取り付いたコンクリートの階段が浜へ降りていた。もともと何段あったのか分からないけど、たぶん砂の中にも何十段も埋もれていて、見えているのは全体の一部に過ぎなかったのだろう。

 家や学校で姿が見えないとき、香穂はたいていこの階段にいた。最上段に靴とソックスを脱ぎっぱなしにして、砂際のいちばん下の段に座り、素足の指で砂に線を描いたり、足首まで砂に埋めてみたり、両手ですくい上げた砂をさらさらと制服のスカートの膝の間に溜めてみたりして、大人に見つかったらこっぴどく叱られるのは分かっているはずなのに、頭上からの視線も気にせずに遊んでいた。

「おーい、香穂」

 石垣の上から声をかけると、くるりと顔を上げて口元をゆるめ、「うん、ああ」とかそんなことを言って、制服の砂をぽんぽんと払いながら立ち上がるのだ。

「嵐が来たらどうするんだよ」

「だいじょうぶ」

「いつか死ぬぞ、そんなことしてたら」

 言わずもがなのひと言だったけれど、香穂は何でもないような顔で眼鏡を外し、唇をとんがらせて左右のレンズにふっと息を吹きかけた。

「だれにも言わないよね?」

「言わないけど」

「おじさんおばさんにも?」

「言わないよ」

「ありがと」

 唇の両端をきゅっと上げて眼鏡をかけ直し、素足でぴたぴたと段を駆け上がってきた香穂が、立ったままで片方ずつの足を上げてソックスとスニーカーを履くのを待つ間、浜のほうを眺めていると、風が出てきたのか、薄曇りの空と浜との境界はぼやけて溶けあい、ほとんど一様な乳白色の、距離感のない広がりとなって、全部が空のようにも、白いスクリーンが目の前に目の前に垂らされたようにも見え、香穂がそんな何も無い世界にわざわざ触れようとする気持ちは、やっぱり分からないのだった。

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