砂委員の街

猫村まぬる

第1話 教室

 学校はそのころまだ旧市街を見下ろす高台にあって、晴れた日には三階の教室からひろびろとした浜を見渡すことができた。

 浜はあっても、海はなかった。少なくとも香穂たちの世代で、海を見たことがある者はなかった。丘の下には、旧丸菊まるぎく百貨店と消防署の望楼だけが目立つ黒瓦の家並みが横たわり、そこから向こうにはただ白く輝く砂ばかりが広がっていた。

 風がすっかり止んで、よほど晴れ上がっていれば――と言っても、もうそんな日は滅多に無くて、目の前の家並みでさえ、灰青色かいせいしょく砂塵さじんにかすんで薄っすらとしか見えないのが常だったのだが――砂の白と空の青との境界に、昔の灯台がぽつんと頭を出しているのが見えたり、日々起伏を変える砂の気まぐれで、錆びた廃船のマストが姿を現したりすることもあったけれど、たとえどんなに空気が澄み渡った日でも、その彼方にあるはずの水界の青を見分けることは、目の悪い香穂のみならず、ほかの誰にもできなかった。

 学校ではまだ毎日授業が行われていたはずだが、教師の声は香穂の頭の中でわんわんと反響するばかりで何の意味もなさず、ただ彼女を気だるい午睡に誘うだけだった。香穂はたぶん窓際の机で、細い背中を丸めて、顎を前に突き出すようなあのだらしない姿勢で頬杖をつき、ガラスの向こうを眺めながらやがて眠りに落ちていったのだろう。

 この時期には、敏感な子どもたちはもう、未来を語る大人たちの言葉に空々しいものを聞き取って、自分達の将来は砂の中にしか無いのだと感じ始めていたし、実際、浜から町へと吹く風に運ばれて砂は絶え間なく増え続け、いくら丁寧に目張りをしても、砂防窓を閉ざしてボルトを固く締めても、少しずつ教室に入り込み、一日の授業が終わるころには、床といわず壁や天井といわず、教室中の全てを被膜ひまくのような薄い層で覆いつくしていた。

 授業中ずっと机に突っ伏したままだった香穂の黒い髪や、小麦色の腕や、紺の制服や、眼鏡のレンズにも、砂は降り積もった。そして時折眠りが浅くなって呼吸が乱れたり身じろぎしたりすると、ブラウスの袖口やスカートのひだから、銀の糸をつーっと引いて床に流れ落ちるのだ。

 終業の鐘と同級生たちのざわめきに目を覚ましても、香穂の目に映る教室は砂まみれのレンズ越しにぼんやりとしていた。思わず激しくまばたきをしたら、朦朧もうろうとした視界に、まつげから飛び散った砂粒が銀砂子ぎんすなごみたいにきらめくのが見えた。

 体を起こすと、肌着の中にまで入り込んで薄層はくそうをなしていた砂が、全身のあちこちでさらさら流れはじめる。こそばゆくて思わずびくっと身を縮めた瞬間、砂の膜は一気にはがれ落ち、耳の後ろから首筋へ、さらに肩へ、背中から腰へ、あるいは腋窩えきがから脇腹へ、心前こころさきからへそへと、幾筋もの冷たい滝になって肌を撫で下ろす。

 数秒間きゅっと目を閉じ、香穂はため息をつく。


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