2-4.苑麻真也

 家に帰ると玄関に靴があった。ピカピカのプレーントゥの革靴。別に持ち主の趣味が靴磨きなわけでも物の扱いが丁寧なわけでもなく、ちょっとでも痛んだらすぐ捨ててしまうというだけの話である。

 リビングに行くと、ソファにかけた親父がコーヒーをくゆらせていた。ひと口すすったところで俺に気付いて、「ああ、お帰り」と言った。

 苑麻真也。『家庭問題はお任せください……安全・安心の苑麻法律事務所』の所長、要は弁護士である。ネットの評判によるとなかなか敏腕――らしい。実際働いているところは見たことがないので詳しくは知らない。

「珍しいじゃん、家にいるなんて」

「丁度暇な時期でね。たまには家族サービスでもしておこうかと」

 コーヒーでも飲むかい? と言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。滅多に家にいない親父がコーヒーまで入れてくれるなんていうのは貴重な機会だ。俺はレアものに弱いのである。

 コトンと音を立ててコーヒーカップがガラステーブルの上に置かれる。いい香りがする。ひと口飲んで息をついたところで、親父が切り出した。

「君は最近どう? 何か変わったことはあるかい」

「いや別に。平穏そのもの」

 親父は俺のことを『君』と呼ぶ。うちではずっとそうだったので余所様のご家庭でもそういうもんだと思っていたのだが、これも割と珍しいらしい。名前が長いからだろうか。真一郎って言いにくいもんな。自分の名前だけど。

 変わったことと言われれば非日常的な世界に足を踏み入れたばかりではあるが、エデンの話は特にしない。

「この辺も何しろ物騒だからね。痴情の縺れで刃傷沙汰なんて、身近であるとは思わなかった」

「え、刺された?」

「いや僕じゃないよ、クライアントが。これから裁判だってときに刺されて重傷だってさ」

「そういうの、言っていいもん? 守秘義務違反じゃねえの?」

「シロ寄りのグレーって感じかな。まあセーフでしょ、このくらいの情報じゃ個人の特定も無理だし」

「そんな適当でいいもんなの?」

「だって君はそういうこと、ベラベラ喋る方じゃないでしょ」

 にこりと笑う。親父がちょくちょくこういうを言うせいで、俺は無表情が得意になった。

「それに、そろそろ夏も本番だしね。愛する息子に釘を刺しておかないと。うまくやれば、彼女の一人や二人、出来ていてもおかしくない時期だから」

「親父が言うと洒落になんねえよ」

 ちょっとだけ口調が尖る。意識して抑えたつもりではあったのだが。

 果たして親父は一瞬だけ俺の目を見て、それから、物言いたげに目を細めて口元を緩くした。

 この表情かおで何人んだろうな、なんてことを考えて、下品過ぎたので打ち消した。

「言葉の綾ってやつだね。仕事だったらやらかしだけど、家庭内のことだから勘弁してもらえると嬉しい」

「いや、俺も悪かった。ごめん」

 謝っておく。実際責めるつもりはなかったからだ。今更、という前置きは付くが。

「まあ、要は、君に彼女がいたとして、羽目を外し過ぎないようにって言いたかったんだ。いろいろと楽しい時期だろうけど、どこで何があるのかわからないから。夜遊びなんかもほどほどにね」

 ……『夜遊び』の部分に、含みを感じたのは気のせいだろうか。

 自分でも気付いていない間に、無表情が崩れていないことを願う。

「心配されてたんだ」

「これでも親だからね。まあ、君が分別のついた男だってことくらいは、僕だってわかっているよ」

 またこの親父はそういうことを言う。俺は渋い顔をしてコーヒーを飲み干した。

 スティックシュガーでもコーヒーフレッシュでもごまかせない苦みが、今はやけに舌に残る。

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