6


 朝食を食べ終えてから、昨夜、話し合って決めたことを話すと、ヴァンダイクさんは「そうか」とひとつ頷いただけだった。

「手間がなくて済むな。それなら昼には片付くだろう」

「あと、お願いがあるんですけど」

「なんだ。高圧チャージャーでも載せるか?」

 なんだろう、高圧チャージャーって。強そうだな。いやそうじゃなくて。

「ニトのオート三輪を、ぼくの車の後ろにくっつけて欲しいんです。連結というか、牽引というか」

「持って行くのか」

「はい。ニトの荷物を載せる空きもないので、とりあえず。出来ますか?」

「誰に言ってんだ。だがな、運転が難しくなるぞ」

「……がんばります」

 ヴァンダイクさんは頷いてヤカンに向かった。

 工場内には朝日が差し込んで、すっかりと明るくなっている。これで、とりあえずの目処は立ったというわけだ。ようやく肩の荷が下りた気がした。

 昼にはできあがるということだから、荷物を片付けておかねばならない。

 家に戻ると水音がした。覗いてみると、朝食に使った食器をニトが洗っていた。流し台が少し高いようで、やりづらそうに頑張っている。

 歩み寄って、食器棚の前で立ち止まった。

「お皿、拭こうか?」

「大丈夫です」

 そう言われてしまうと、無視して手を出すわけにもいかない。ぼくは手持ち無沙汰に立ちつくした。さすがにニトの背をじいっと見ているのも悪く思えて、持て余した視線と時間を寄せられるものを探した。棚の下段に立てかけた、昨夜のレシピ本を取った。

 ぱらぱらとめくる。ああ、文字が読めたらな。この世界の食材を使って、この世界の料理を作ることができるのに。絵だけを参考に作るわけにもいかない。

「なにを見ているんですか?」

 顔をあげると、布で皿を拭きながらニトが首を傾げていた。

 ぼくは手帳を開いたまま、くるりと手を回してニトに見せた。レシピ本だよ、と伝える前に、ニトが不思議そうに言った。

「特別な日に?」

「うん?」

「はい?」

 ぼくとニトは顔を見合わせて、ちぐはぐなキャッチボールをした。どっちも正しく投げたつもりでいて、受け取り損ねていた。

「特別な日にって?」

 ぼくが訊くと、ニトは「あっ」と声をあげた。

「文字、読めないんですね。すみません。そこに書いてあるんです、右隅の、丸く囲んである文字です」

 言われてもう一度手帳をみると、たしかに走り書きがあった。レシピのほとんどが読みやすく丁寧な字で書かれているのに、それだけが筆記体のように荒っぽい。

「特別な日に?」

 どういう意味だろう。添えられたイラストを見ても、特別な料理のようにも見えない。派手でもないし、豪勢でもない。

 ニトがお皿を持ったまま近寄ってきた。

「メルタイユ……たしか、マリット地方で有名な家庭料理です。小説にもよく出てくる定番料理ですよ」

「特別な日に食べるものなの?」

「いえ、日常的に食べられていると思いますけど……」

 言いながら、ニトは顔を寄せるようにして手帳を見た。

「メルタイユは家庭ごとに味付けが違うって読んだことがあります。その家の歴史と思い出が詰まっているんだって。だから特別、なのかもしれません」

 なるほど、とぼくはうなづく。

 そうか、特別な日に、か。

 意味はわかっても、読めるわけではない。曲がりくねった線の羅列が、意味をもつ塊に変化しただけだ。ただ、この荒っぽい文字を書いたときの感情が、ありありと伝わってくるような気がした。

 それはただの思いつきだった。だれかに言い訳をするみたいに並べる言葉はない。ふと口から出た言葉だった。

「ねえ、レシピを教えてくれる?」

「作るんですか?」

「お昼ご飯にしようかと思って」

「それは構いませんけど」ちらりと目線を落として、ニトが言う。「これ、オーブンを使いますよ」

 キッチンを使うのが申し訳ないと言ったぼくに配慮してくれたらしい。

 そうか、それは困ったな、と腕を組んだ。

 そのとき、ざあっと風が吹き込んだ。

 青いカーテンが風をはらんで、大きく膨れ上がった。窓から外の光景が良く見えた。車にかかりきりのヴァンダイクさんがいる。ちょうど陽に照らされていて、そこだけがまるで輝いている。風は止んで、カーテンはまた窓を隠した。その一瞬は、何事もなかったように過ぎた。

「……どうしました?」

 声に目を向けると、ニトが訝しげにぼくを見ていた。

「いまの」と言いかけて、気を改めた。「いや、何でもない。良いんだ。最後だから、キッチンを借りよう」

「はあ。ケースケがそう言うなら」

 釈然としない表情を向けられるが、ぼくはそれに上手く説明できそうになかった。説明したとしても、理解もされないだろう。

 使っても良いと、許しをもらったような気がした、なんて、霊的な物言いだし。

「とりあえず、必要な食材と調味料を教えてくれる?」

 ニトを連れて冷蔵室に入った。ニトは手帳を見ながら、これがレッソで、こっちがキャリンで、と丁寧に教えてくれたけれど、覚えられる気はしなかった。それに、ニトが示すのはどれも缶詰だったのだ。

「……材料って、缶詰なの?」

「これは調理用の食材缶です。長期間保存できるように密閉されてるんです」

「それって、便利かな?」

 開けてすぐ食べられるのが缶詰の良いところなんじゃないだろうか。

「魔力飽和による世界の崩壊がやってくると知られるようになってから作られたそうです。地下や山の上に物資を集めて閉じこもる人たちが買い求めたとか。調理済みの缶詰は味が悪いので」

 言われて、たしかにとぼくは頷いた。控えめに言っても、手を加えないと食べられたもんじゃない物は多い。それを考えると、食材だけを缶詰にして、あとは自分で作るというのは合理的なのかもしれない。

 ニトに言われるがままに缶詰を抱えて外にでて、それをキッチンの作業台に広げた。今度は調味料を揃えて、準備はできた。

「それで、まずはどうしたら良いかな」

「オーブンを予熱するそうです」

「よし」

 と、コンロの下に備え付けられたオーブンを開けたは良いものの、この世界のコンロの使い方が分からない。

 じっと睨んでいたら、横合いからニトの手が伸びて、扉の横にあった小さなレバーを何度か上下させた。オーブンの中から圧縮された空気が送られるような音がした。レバーを最後まで押し下げると、小さな爆発音がして、オーブンの中からじわじわと熱気が漏れてくる。

「燃料はまだあるみたいですね」

「……ありがとう」

「どういたしまして。次は食材を切りましょう」

 オーブンの扉を閉じて、缶詰を取った。蓋をあけると、中に太くて丸っこいキュウリが三本、入っていた。取り出してみると多少しんなりはしているけれど、新鮮な野菜だった。

「すごいな。これが缶詰か」

「缶に魔鉱石の粉末を混ぜ込んでいるんだとか。魔力反応で完全に密閉ができるそうですよ」

「お前、スーパー缶詰なのか……」

「どういう意味ですか、それ」

「何でもない」

 缶詰を全てあけて、ニトのいう通りに食材を切っていく。

「切り終えたら炒めるそうです」

「はい、先生」

「わたしは先生じゃありません」

 フライパンをコンロに置いてオイルを垂らした。点火の仕方もわからなかったので体をどけると、ニトが無言でやってくれた。

 しばらく炒めていると、水分がでるにつれて野菜もしんなりと柔らかくなった。

「次はこれを加えてください」

 と手渡されたのは、味見をした限りではお酢と白ワインに近いものだ。

「それを耐熱容器に敷いてください」

 食器棚を探すと、上段に黒くて分厚い鉄皿があった。蓋と、こぢんまりとした取っ手もついている。スキレットみたいなものだろう。

 こびりつきを防ぐためにオリーブオイルを敷いて、さっきのしんなりとした野菜炒めを広げた。

「その上に、さっきの輪切りにした野菜を重ねて並べるみたいです」

「野菜炒めの上に野菜なんだね」

「さっきの野菜炒めはピペラードというそうですよ。ソース代わりなんだとか」

「その発想は初めてだ」

 輪切りにした野菜は四種類ほどあって、きゅうりやナスやトマトに大根みたいなものだ。それをランダムに重ねて、皿の中に斜めに並べていく。外周に沿うようにぐるりと円を描いて、真ん中まで敷き詰めた。

「そしたら?」

「ハーブと塩と油をかけて、蓋をして焼きます」

 味付けは基本、ハーブと塩だけの素朴なものらしい。野菜の甘味を引き出す料理なのだろう。

 オーブンを開くと、途端に熱い空気があふれ出た。蓋をしたスキレットを中に入れて、扉を閉じる。

「ふう……どれくらい?」

「一時間じっくりとコンフィするそうです」

「コンフィ?」

「コンフィです」

「……どういう意味?」

「……さあ」

 それは知らないんかい。

 ぼくらはお互いに顔を見合わせて、やりきった笑みを交わした。ふたりで協力して料理を作ることは、関係を深める上では効果があったらしい。

 どれくらいの期間になるかは分からないけれど、ぼくらは一緒に旅をするのだ。仲が悪いよりはずっと喜ばしい。

「おいしいものが出来ると良いですね」

 とニトが言った。

「出来るに違いない。がんばったからね」

 ……たぶん。

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