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工場の灯りはさきほど消えて、窓から差し込む月明かりばかりが工場内をうっすらと照らしている。部屋のなかはさらに暗くて、壁にかけられた魔鉱石のランタンが揺らめいていた。
室内灯をつけることにヴァンダイクさんが文句を言うことはないだろう。それでも遠慮してしまう気持ちがあって、手元だけを照らしている。
使った食器も洗い終え、水切り籠に並んだ食器を拭きながら、どうしたものかなと考えていた。車のことだ。
修理費がかかるのは当然の理屈だ。人がほとんどいないこの世界で、直してもらえるというだけで幸運だ。問題なのは、ぼくがほとんどお金を持っていないことである。
ニトはどうするのだろう。
オート三輪の修理は無理だと言われていた。となれば、新しく蒸気自動車を買うのだろうか。廃車はたくさんあったし、部品も山になっている。ヴァンダイクさんなら軽々と一台くらい用意してくれそうだ。
拭き終えた食器を棚に戻していく。光がぼくの体で遮られて、食器棚には影絵のように映る。ふと、一番下の棚の端に手帳が立てかけられているのに気づいた。興味のままに手にとってみる。
ぼくの手よりも少し大きくて、分厚く、しっとりとした革の手触りだった。ぱらぱらとめくると、そこには文字と数字と色付けされて丁寧に書きつけられている。
「レシピ本?」
ぼくは文字を読めないが、絵をみればどんな料理かは分かる。肉料理が多い。たまに魚料理。時折、ページの隅が折られていたり、料理名を消すように線が引かれたり、走り書きのメモが数行、斜めに書いてあったりする。
昼間、ヴァンダイクさんにステーキサンドを持っていったとき、ぼくのことをラディと呼んでいた。きっとそのラディさんが書いたものだろう。ヴァンダイクさんのために、こうしてレシピを書き留めていたに違いなかった。
ふと、振り返った。
ランタンだけの灯りが影をはっきりさせるキッチンに、見たこともない誰かの影があるような気がした。ノートを閉じて、棚にそっと戻した。
「……あの」
顔をむけると、暗闇に沈んだ通路からニトが顔をのぞかせていた。灰色の髪がふわりと床にむけてまっすぐに垂れている。
「ああ、どうしたの?」
ニトは家の一室を借りてもう寝たものと思っていた。腕時計を見れば、時間はすでに夜の九時を回っている。
「いえ、何をしているのかと思って」
「後片付け。もう終わったとこ」
そうですか、と言いながら、ニトは部屋に入ってきた。初めて会った時と同じくらいの距離を置いたところで立ち止まる。
いくらかの間を置いてから切り出したのはニトだった。
「どうするつもり、ですか? 車のこと」
「良い質問だね。ちょうど今、考えたんだ」
「結論は……?」
ぼくは両手を挙げた。
「お金がなくて。物で支払えないか訊いてみるくらいしかないよ」
と言っても、価値のありそうなものといえば腕時計とスマホと、バックパックに詰めたキャンプ用品くらいだろう。けれどぼくにとって大事なものばかりで、手放したくはなかった。
「ニトはどうするの?」
訊くと、ニトは視線を落として首を振った。
「わたしも、分からないです。直らないって言われましたし」
「他の車を買ったら? いっぱいあるから、一台くらい動けるようにしてくれると思うけど」
言うと、ニトは「あっ」と小さく声を漏らした。思い当たっていなかったらしい。
「そっか、他の車を買えば……」
「ニトの方は何とかなりそうだね。よかった」
口ぶりからするとお金はあるらしい。なら大丈夫だろう。
ニトはぼくを見上げて、いくらか躊躇ったようにたどたどしく口を開いた。
「あなたは、どこに向かっているんですか?」
「難しいことを訊くなあ」
どこに? どこなんだろう。それはぼくも知りたいところだ。
どこかに行きたくて、というよりも、そこに居たくないからバックパックを背負ったのだ。どのみち、ニトには関わりのないことだし、聞いているのは今からのことだと分かっていた。
だからぼくは取ってつけたようにその理由を話した。
「人を探してるんだ。髪から服まで真っ黒な大きい人なんだけど。見たことある?」
「いえ……」
ニトは首を振った。それも想定の反応で、だからぼくは落胆することもない。
「あてもないからね、適当に走って、街があったら寄って、人がいたら訊いて。そんな感じ」
「……旅、ですね」
「旅、かな」
迷子がさまよっているだけと言ったほうが正しい気がした。
「きみは?」
「わたしは」とニトが言う。「ある場所を、探しているんです。どうしてもそこに行きたくて」
「遠いの?」
「わかりません。たぶん、近くはないです」
「曖昧だね」
「はい。地図を探しても載っていなくて」
それはまた大変そうだった。それでも、きっと、大事な探し物なんだろうなと思った。この歳の女の子が、滅びた世界で、ひとりで旅に出たのだ。強い思いがないと踏ん切りはつなかっただろう。
そこで、夜の端っこから忍び込んできた沈黙がぼくらの間に割り込んできた。会話のとっかかりを無くして、ぼくらは互いに立ち尽くした。それでも、ニトが何か言葉を探して、視線を彷徨わせているのはわかった。
ランタンの灯りが揺らめいて、床に伸びるニトの影が表情を変えた。
「わたしと、取引、しませんか」
「取引?」
ニトは明らかに緊張していた。なんども唇を迷わせてから、ようやく言葉を決めた。
「わたしのオート三輪の部品があれば、あなたの車は直るんですよね? 修理代金も、わたしが立て替えます」
「ありがたい話だ。でも、ぼくは何も返せるものがないんだけど」
「わたしの探し物を、手伝ってください」
「どうやって? ぼくはこの世界のことなんてろくに知らないんだ。まだ地図帳の方が頼りになるでしょ」
ニトは首を振った。そうじゃなくて、と前置きをして、
「わたしは、旅に出て、まだちょっとしか経っていないです。それだけでも、家の外で生きていくのはすごく難しいってことが分かりました。本を読んで知識はあります。でも、それだけじゃだめなんだって」
初めて会った日の夜に、ニトが缶詰を取り出したことを思い出した。あれが食事だ、と言っていた。たしかにあの食生活じゃ長くは続かないだろう。
「オート三輪も、わたしが魔鉱石を間違えたせいでこうなってしまいました。普通の蒸気自動車はたくさん水の補給をしないといけないし、操作もややこしいし……正直、ひとりではまともに運転できないと思います」
だから、とニトがぼくをまっすぐに見上げた。
「あなたが探し物を見つけるまでとか、お金を返すまでとか、そういう区切りで良いです。その間に、わたしに、旅の仕方を教えてください」
最後には甲高く裏返った声で言い切って、ニトは唇を引き結んだ。
肩がかすかに弾んでいた。出会ってまだ間もないぼくにその頼みごとをするのに、どれほどの勇気が要ったのか、想像は難しくなかった。
そうしてまで、ニトはその場所を探したいのだろう。その思いの熱の高まりが、ぼくには眩しかった。
昔のことを思い出した。いや、あんまり昔でもない。一年くらいだろうか。
この世界に来て、黒づくめの男に助けられて、ヤカンの持ち主だったあの人に預けられた。しばらく経って、ぼくも同じように頼んだ。あの男の人を探すために、旅の仕方を教えてほしい、と。
あの時、ぼくは今のニトと同じような目をしていたのかもしれない。
必死で、目標があって、そのためならどんな苦難も何とかしてやろうと思う、まっすぐな気持ちだ。
ぼくの言葉に、あの人はなんて答えてくれたっけな。ああ、そうだ。
「条件がある」
「は、はいっ」
「ぼくは、あなた、じゃない。恵介だ。一緒に旅をするなら、名前はちゃんと呼んでもらえる?」
ニトは張り詰めていた表情を和らげた。ほっと息を吐きだした。
「はい。よろしくお願いします、ケースケ」
呼び捨てとは思わなかった。くんとか、さんとか……いや、良いか。なにしろ、ぼくはニトに借金をすることになるわけだし。
「とりあえず、よろしくね」
手を差し出した。
ニトはそれを見て、おずおずと手を伸ばした。ひんやりとした小さな手が、ぼくの手を握り返した。ぎこちない握手だった。
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