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 絵を描くには場所選びが大事なのかもしれない。ただ、それにしたってもう少し選びようがあったんじゃないだろうか。

 工場に着いてからいつの間にか姿が見えなくなっていたニトを、見上げるような場所で見つけた。工場の壁に伸びる階段の、ほとんど一番上だった。階段の踊り場にイーゼルを立てて絵を描いている。ぼくは絶対に登りたくない。怖すぎる。

 おおい、と声をかける。二度、三度と繰り返して、ようやくニトがぼくに気づいた様子をみせた。なにしろ高いので、表情までははっきりしない。

 お昼ご飯だよ、と声を張る。ニトがうなずいた、気がした。たぶん。

 今度はおじさんに声をかけに行くと、ヤカンが見るも無残な有様になっていた。チェーンや管が車体の前後から伸びているし、開け放たれたボンネットの上には取り外されたエンジンがクレーンで吊られている。周りには部品が並べられていて、もしかしてこのままばらばらにされるんじゃないかと不安になるほどだった。

 いや、いや。と首を振る。大丈夫。おじさんはプロだ。きっとすぐに元どおりさ。

 気を取り直しておじさんに声をかけた。

「ああ? メシ? 置いとけ。そのうち食う」

 気の無い返事だった。食にこだわりがないのか、仕事優先なのか。どっちもだろうか。

 無理強いもできないのでそのまま家に向かう。敷き布に座って待っていると、やがてニトが戻ってきた。

「絵は完成した?」

「いえ、まだです。乾かしてます」

「乾かす?」

「水彩なので」

 どうやら水彩は乾かす時間がいるらしかった。小学校の授業で使った気もするが、あまり記憶は定かではない。

 敷き布の上、つまりぼくの隣を勧めたけれど、ニトはかぶりを降って、ぼくの斜め向かいに足を抱えるようにしてしゃがんだ。

「わ、すごい」

 皿を見下ろしてニトが目を丸くした。そこにはバゲットサンドが山になっている。

「おじさんが食料は好きに使えって言ってくれたんだ」

「……あとで、お礼を、言います」

 ニトが非常に困難な任務に挑むスパイみたいな顔をした。おじさんが少し苦手らしい。

 いただきます、とバゲットサンドをひとつ取った。食べやすいように切り分けたけれど、それでもニトが持つと大きく見えた。

「……っ!?」

 ニトが目を丸くした。そして慌てた様子でぼくを見た。挟んであるものに気づいたのだろう。

 ぼくはにやりと笑って見せた。

「そうだよ、お肉だ」

「あ、赤い、です」

「これは缶詰じゃない。ちゃんとした、お肉だ」

「ぶ、分厚い、です」

「ステーキサイズに切り出して、焼いたんだ」

「それを、パンで……!?」

「これがサンドイッチの王様……あまりに勿体なくて、ぼくもやるのは初めてだった。人はこれを、ステーキサンドと呼ぶ」

 パンからはみ出るほどの分厚いステーキである。それパンいるの? と思わず言ってしまうくらいに贅沢な食べ方だ。

 ニトはごくりと唾を飲み、ステーキサンドを見つめた。パンの下から赤みの残る肉汁がぽたりとあふれた。口をあけ、かぶりつく。

「ん……ん? ん!?」

 んの三段活用は初めて聞いた。器用な子だなと感心する。

 ニトは頰を膨らませながら、顔をくしゃりと寄せた。それはこれまでにないほどの笑顔だった。

「んーっ!」

 忙しなく飲み込むと、はあ、と艶っぽい吐息をつく。

「缶詰じゃないお肉って、こんなに美味しいんですね……驚きです」

「肉はね、大事だよね」

「大事です」

 なにが大事なのかは、ぼくもニトもよく分かっていないけれど、ふたりして頷きあった。ぼくらは感覚で会話をしていた。

「この甘酸っぱいタレは何ですか?」

「焼いた時に出た肉汁に、たまねぎの酢漬けと、赤ワインと、バターを混ぜたんだ」

「もしかして天才ですか?」

「苦しゅうない」

 ニトは一口をかじるたびに幸せそうな笑みを浮かべた。これでもかと食を楽しんでいる。

 ぼくだってもちろん食べている。間違いなく美味しい。けれど、ニトの表情を見ていると、もしかして彼女が食べているサンドイッチの方が特別に美味しいのかもと思った。そんなはずはないのだけれど。

「ニトは天才かもしれないな……」

「なにがですか?」

 食事を美味しく食べることにも、才能というのはあるのかもしれない。

 小さな体にたっぷりとサンドイッチを詰めて、ニトは満足そうにお腹を撫でた。

 さきほどまでの柔らかな表情は姿を隠し、今ではすっかり澄ました顔になっていた。あの顔をまた見るためには美味しい料理を食べさせるしかないようだ。

 ふとおじさんを見ると、こちらに来る様子もなく、汗をぬぐいながら作業に取り掛かっている。

 ぼくはお皿を持って立ち上がり、おじさんのところへ運んで行った。

「お昼ですよ」

「ああ、そこに置いといてくれ、ラディ。こいつを片付けたら食っちまう」

 おじさんは、はっとしたように顔をあげると、自分の言葉に苛立ちをぶつけるみたいに舌打ちをした。

「悪いな。何でもねえ」

 ぼくは手近な台の空いたスペースにお皿を置いた。

「そういえば自己紹介もまだでしたよね。ぼくは恵介です。あっちの女の子はニトです。遅れましたけど、助けてくださってありがとうございます」

「助けたつもりはねえさ。これが仕事だ」

 ヤカンからまた管を取り外しながらぶっきらぼうに言う。

「あの、お名前を聞いても?」

 あぁ? とおじさんが顔を上げ、ぼくを訝しげに睨んだ。

「名前なんざ工場のそこらへんに書いてあんだろうが」

「読めないんです。この世界の人間じゃないので」

「なんだお前、迷い人か」

「迷い人とも呼ぶんですか?」

「実際、迷ってんだろ」

「……たしかに」

 まるで迷子のような呼び方は不本意なのだけれど、実態はその通りだから苦笑いしかでない。帰り道も、帰る方法もわからないのである。

「そら残念だったな。がらんどうのこんな世界じゃ面白くも何ともねえだろ。昔はごみ溜めみたいに賑わってたんだが」

 ばきっ、と明らかに金属をへし折る音が響いた。

「……あの、直りますか?」

「直りますかだって?」

 おじさんがぼくに顔を向けた。

「そら直せるさ。それがおれの仕事だ。けどな、部品がないんじゃどうしようもねえこともある。それを今、確かめてんだよ」

 それより、とおじさんが言う。

「修理代、用意しとけよ。こいつは高くつくぞ」

「修理代……?」

「ああ? まさかおれがただの人助けでやってると思ってたのか?」

 何かをもらえば、対価を払う。それはまったく当たり前のことだった。

 お店で物を買っても、修理しても、お金を払うことが当然だ。そんなことを忘れていた自分に、ぼくは驚いたのだ。

「いえ、もちろん分かってます」

「なら良い」

 いつの間にか、ずいぶんとこの世界で呆けていたらしい。お金のやりとりなんてまったくしていなかったものだから。

 おじさんはまた作業に戻った。ぼくは支払いをどうしようかと考えながら踵を返した。

「ヴァンダイクだ」

「え?」

 振り返る。おじさんはこちらを見てもいない。

「おれの名前だ」

 どうやら、さっきのぼくの質問を覚えていてくれたらしい。ぶっきらぼうでいて、それでもどこか優しさのある振る舞いに、おのずと笑みが浮かんだ。

「修理、よろしくお願いします、ヴァンダイクさん」

「おう」

 この人に任せておけば大丈夫だろうと、いまそう思えた。

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