第二幕「ヴァンダイク・ブラウンの蒸気工場」


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「これはひどい。どうしてこうなるまで放っておいたんですか」

 ぼくが言うと、おじさんは片眉を上げた。それだけじゃまだ足りないとばかりに、ふん、と鼻息を鳴らした。

「おれぁ蒸気技師だ。料理人でもメイドでも主婦でもねえ。厨房のことは知らん」

「だからって、使い終わった皿くらいは片付けましょうよ」

「ああ。最近は廃材を皿代わりにしてる。食い終わったら捨てられるからな」

「……毎日、なにを食べてるんですか」

「あるモンをだ。食えりゃ何でもいい」

 おじさんはさっさと部屋を出ていった。取り残されたぼくは、腰に手を当ててそれを前にした。

 キッチン、である。いや、キッチンだった、だろうか。

 流し台とコンロと作業スペースの痕跡はあるが、今は汚れた食器や空の缶詰、よく分からない金属の板なんかが山積みになっていて、とても使えたものではない。昼食を用意しようと思って申し出たのだけれど、早くも後悔した。

 ため息をもらし、部屋を見回すと、やけに頑丈そうな扉が目にとまった。取っ手を引くと、途端に冷気が漏れ出した。思わず喉から歓声が漏れた。

 自家発電なのだろう。ちゃんと役目を果たしている冷蔵庫を見るのは久しぶりだった。

 顔をつっこむと冷え切った空気が肌をぴりぴりとつついた。中はちょっとした小部屋ほども大きい。壁にも通路にも棚が作られていて、食料が整然と並んでいた。いくらか歯抜けになってはいるけれど、使い切れない、と表現できるくらいには量がある。

 入ってすぐ右手にあった小さなレバースイッチを押し上げた。天井の照明が何度か点滅して、温かな黄色い光で室内を照らした。

 ぼくは中に足を踏み入れた。

 棚にならんだ食材を眺めていく。両手で抱えるほどもある瓶に入った色あざやかな野菜の酢漬け。山積みになった缶詰。穀物の袋。さまざまな調味料のボトル。乾燥したオリーブ。見ただけでは分からない木箱も並んでいるが、あれも食料だろう。

 奥までたどり着くとまた扉がある。革巻きのレバーを開いて、息を呑んだ。

「嘘だろ……」

 そんな、こんなことが、ありえるのだろうか。

 信じられない。

 あまりのことに、ぼくは手で口を覆った。

「お肉が、こんなに……!」

 そこは冷凍庫だった。切り分けられた塊肉がぎっしりと入っていた。この数ヶ月、缶詰の加工肉しか食べていない。そうか、お肉って、こんなに鮮やかな色をしていたのか。

 ごくりと唾のかたまりを飲み下した。

 目にしてしまったことで、姿を隠していた衝動が湧き上がっていた。肉への渇望だった。

 冷凍庫のドアを閉め、駆け出しそうになるのをこらえつつ、ぼくはキッチンから廊下を抜け、まっすぐに家の外に出た。

 そこは広い倉庫の一角である。

 見上げるような高さにこげ茶色の鉄骨が張り巡らされている。大型のクレーンがあって、あちこちにチェーンが吊り下がっていて、あたりには何台もの蒸気自動車が並んでいる。倉庫への出入口は飛行機工場みたいに巨大で、いまは開け放たれているために外の景色がよく見えた。

 ぼくらが連れてこられたこの場所こそが、おじさんの言う蒸気工場(スチーム・ファクトリー)だった。

 ただ、いまはそんなことはどうでもよくて、ぼくはおじさんに駆け寄って声をかけた。ヤカンのボンネットを開いて中を覗き込んでいたおじさんは面倒臭そうに顔を向けた。

「なんだ。忙しいんだよこっちは」

「冷凍庫の、あの、あれです、お肉」

「肉がなんだ」

「つ、使っても良いですか」

 おじさんは眉を寄せた。

「好きにしろ。そんなことで話しかけるんじゃねえ」

 しっしっ、と手で追い払って、おじさんは作業に戻った。

 邪険な扱いだけれど、ちっとも気にならない。なにしろ許可が下りたのだ。今日は、お肉だ。小さくガッツポーズを決めてぼくは踵を返した。

 スキップをしながらキッチンに戻って最初にしたことは、もちろん片付けだった。

 ゴミをまとめて麻袋に放り込み、汚れたお皿は洗う。水切りがいっぱいになれば皿を拭いて食器棚に戻し、また洗う。

 幸いなのはコンロや流し台に料理汚れがないことだった。油や食材を壁にぶちまけてそのままだったりということはなくて、場所さえ確保できれば調理に支障はなかった。

 分厚い木製のまな板をおいて、包丁を持つ。使い込まれて刃が磨り減ってはいるものの、丁寧に研がれていた。おじさんではないだろう。厨房のことは知らん、と言っていたし。

 汚れ物がなくなってキッチンが元どおりになると、かつてそこに流れていた空気までがおずおずと戻ってきたみたいだった。

 横手には細長い窓があって、青染のレースのカーテンが掛かっている。窓を押しあけると風が吹き込んだ。カーテンのはためきに合わせて、床に注ぐ陽光が揺れた。窓からヤカンの修理に取り掛かるおじさんの姿が遠目に見えた。

 ぼくはキッチンを振り返った。

 壁に取り付けられた棚にはスパイスの入った小瓶が並んでいる。すべてに手書きのラベルが貼ってある。棚の横には鮮やかな布織りのタペストリーが飾ってある。すっかり色あせた本の切り抜きが貼り付けられている。

 さっきまでは何の意味もない、ただの風景だった。けれど今では、そこに面影を感じる。

 ここを使っていた人は、当たり前のように存在したのだ。それはおじさんの奥さんかもしれないし、お母さんかもしれないし、娘かもしれない。あるいはお父さんかもしれないし、息子かもしれない。

 この場所に立つことで、ぼくはその人のことを少しだけ理解できた。

 包丁を丁寧に扱う人だ。スパイスを見分けられるようにラベルを貼る人だ。冷蔵庫の中をきちんと整理する人だ。青色が好きだった人だ。それから、毎日、料理をしながらおじさんを見守っていた人だ。

 ぼくは包丁とまな板を棚の中にしまって、キッチンを出た。

 ヤカンに近づいていくと、おじさんがまた顔をしかめた。

「今度はなんだ」

「すみません。ちょっと調理道具を取りたくて」

「あぁ? 厨房があるだろうが」

「使い慣れた道具が一番なんですよ」

 おじさんは自分が持っていた工具に視線を落とし「そらぁ、間違いねえな」とうなずいた。

 とっさに口から出た言葉だったが、意図せずおじさんの理解を得られたらしかった。

 ヤカンの後部座席から調理器具の入った木箱を取り出し、バックパックを背負う。寝床用の敷き布も忘れずに。家の前まで戻ったら、荷物をそ下ろして布を広げた。あぐらをかいて荷物を漁る。

 やっぱりこっちの方が落ち着くことは間違いない。食材だけは、拝借することにしよう。

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