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スベアの火で温めただけの簡素な朝食をとって、ぼくらは階段に腰をおろして待っていた。
腕時計を見て、過ぎた時間をたしかめる。赤い煙はもうすっかりと流れて消えてしまった。誰かが来る様子はいまだにない。
ぼくもニトも口にはださない。予想はついていたからだ。最初から、一度で、誰か来るとは思ってもいない。
「もう一回、撃ってみよう」
立ち上がると、ニトはぼくを見上げて眉を寄せた。
「今ですか? もう少し時間を置いた方が良いのでは」
「時間を置いても仕方ないよ。いつ撃つのが正解かなんて分かりっこないんだし」
ズボンの裾をまくる。
「で、ですけど、あと一発しかないんですから、慎重に」
「慎重にどうするの? 待つ?」
「うっ」
ニトはもごもごと言葉を迷わせてから、ぷくっと頰をふくらませた。
「……そんなに撃ちたいなら、撃てばいいですよ。知りませんから」
「こう考えてよ。いま撃っておけば、いつ撃とうかっていう悩みからは解放される。だめなら次を考えよう」
「能天気すぎます……頭がただの空洞だとしか思えません……」
「きみ、意外と辛辣だね」
その豊かな表現力はぼくをけなす以外の方向で役立ててほしい。
朝よりもぬるくなった水の中に足を入れ、ヤカンに向かった。ボンネットの上にはトランクが置きっ放しだ。最初から二発、撃つつもりだった。
リボイルだかトラクションだかは知らないが、どうせ来やしないのはわかっている。ただでさえ人は減って、法を執り締まる人も消えて、職場も学校も崩壊したような世界で、いまだにそんな仕事を熱心にしている人間なんているわけがない。
錠をあけて、信号拳銃を取り出し、握る。空に向けて、引き金を引く。
一回。安全装置で半ばで止まる。力をこめる。
二回。反動と発砲音。
見上げれば問題なく赤い煙が伸びていた。二度目の手順はうまくいった。奇しくも良い練習になった。
レバーを押して銃を折ると、空になった薬莢が残っている。取り出してトランクの上蓋の弾型に押し込んで、最初に入れていた二発を装填し直した。銃を納めて錠をおろし、また助手席に置いた。
階段まで戻ってくると、ニトが膝をかかえるようにしゃがんでいる。頰はぷくりとふくらんだままだ。
「機嫌、直してよ」
「……べつに悪くないです。銃はあなたのものなので、いつ撃っても自由です」
「知らないのかもしれないから言っておくと、今のきみの状態を機嫌が悪いって言うらしいよ」
「そうですか。初耳です。覚えておきます」
ツンとした言い方に思わず苦笑を浮かべてしまう。
「大丈夫だよ。すぐに来るってば」
と、言ってはみるが、ぼくはそう思ってはいないのだから、ずいぶんと白々しい響きになってしまった。
まあ、そうだな、とりあえずヤカンからすっかり荷物をおろして、ゆっくり寝転んで今後を考えようーーと。
「……これ」
はっと顔をあげたニトが目を見開いた。立ち上がって階段の際に駆け寄った。
突然どうしたんだよ、とは言えなかった。ニトが聞きつけた金属が擦れ合う音はぼくにも聞こえていた。
蒸気によって動かされたピストンの、巨大な蒸気機関車の走るような力強い排気音。すべてが遠くかすんでいて、けれどたしかに、ここまで届いていた。
ニトが驚いたようにぼくに振り返った。平原の一方を指差して、明るい声で言った。
「黄色い煙です! 移動式蒸気修理車です!」
そこにはたしかに鮮やかな煙が筋を伸ばしていた。やがて白い砂丘から浮かび上がるように、黒い点が現れた。それは間違いなくこちらに向かって近づいていた。
「……まじで?」
滅びたこんな世界で客がいるはずもないのに、真面目に仕事をしている人間がいるということが、ぼくにはさっぱり理解できない。それでも間違いなく、黄色い煙をもうもうと吹き上げながら、その車はこちらに向かっていた。
6
ヤカンのボンネットを開き、覗いて。ヤカンの後部ドアを開いて、覗いて。真っ黒に焼けた肌に髭面のおじさんは「ここじゃ無理だな」と言った。
「ボイラーからの配管の継ぎ目が溶けて割れてやがる。運転に慣れてねえやつが高温で焚き過ぎた結果だ。こっから蒸気が漏れたせいで燃料管も三本、使い物にならねえ」
「……はあ」
「燃料室の方も怪しいし、クランクもガタがきてる。チェーンにいたっちゃ丸ごと交換だな」
「……はあ」
おじさんの鋭い視線にぼくは背筋を正した。べらぼうに迫力があった。
「お前の車だろうが。しっかり聞いとけ」
「は、はいっ」
「こいつは工場に引っ張る。バラさなきゃどうにもならん」
「……お願いします」
あ、それは大丈夫です。とはもちろん言えなかった。いや、言うつもりもないのだけれど。有無を言わせない言い方というか。
「それで、もう一台あるんだったか?」
今度はニトを見据えた。べつに怒っているわけではないのだろう。それでもおじさんの目つきはなかなかに鋭い。
ニトはびくっと肩をはねさせると、小動物のような俊敏さでぼくの背後に回り込んだ。いや、ぼくを盾にするなよ。
おじさんは、代わりにお前が教えろとばかりにぼくを睨んだ。仕方なく、駅の横手を指差した。
「そうか」
と、工具箱を片手にざぶざぶと水を踏み分けて歩いて行った。
「ほら、もう行っちゃったよ」
後ろのニトに声をかける。
「……どうも」
不本意そうな低い声が返ってきた。
「怖かった?」
「いいえ!」
ニトはおじさんの跡を追うように歩き出す。意識して伸ばしているらしい背中が微笑ましい。ぼくもその跡に続く。
ヤカンの横に並んだ大きなトラックを横目に眺める。これが移動式蒸気修理車というものらしい。
とにかく、でかい。
横幅だけでヤカンを三台並べたくらいはあるだろうか。車体には丸められた金属の管や予備のタイヤなんかが固定されていて、後部の荷台の上には錆の浮かんだ黄色いクレーンと滑車が飛び出ていた。修理車というより工事車両と言われた方がしっくりくるような迫力がある。
駅の横手を曲がると、そこにも小さな階段と通用口があった。ニトがオート三輪と呼んでいた小さな車が停まっていた。文字通りの三輪で、ずいぶんと丸っこい。人が座れるのは運転席と助手席だけで、後ろは荷台になっていた。いまは幌が斜めに張ってある。タイヤも小さいもので、見た目も軽トラックみたいにシンプルだ。
おじさんはすでに開いたボンネットに顔を突っ込んでいたが、ぼくらの足音に気づくと顔を上げた。するとニトがまた、すすっとぼくの後ろに回り込んだ。
「おい、ろくにメンテナンスもしねえで動かしたろ。古い魔鉱石の燃え滓が焼き付いてやがる」
おじさんはボンネットをばたんと閉めた。工具箱に道具を戻して持ち上げる。
「こっちも工場まで運ぶしかねえな」
それだけ言うと、おじさんはぼくらの横を通ってさっさと戻ってしまった。
「工場まで運ぶしかないってさ」
「……聞こえてましたけど?」
「なら良いんだ」
背中に隠れたニトから睨まれつつ、取って返すようにヤカンに戻った。
それからもおじさんはテキパキと動いていて、ぼくらは見ていることしかできなかった。やったことと言えば、駅の構内に持ち込んだキャンプ道具をヤカンに積み直したくらいだろう。
おじさんは修理車から引いたワイヤーフックをヤカンの車体の下に取り付けた。そして修理車の運転席へはしごを使って乗り込むと、ドアを閉める前にぼくらを見た。
「なにをぼうっとしてんだ。早くそれに乗れ。出るぞ」
ぼくは言われた通りにヤカンの運転席に乗り込んで、助手席の荷物を後ろに片付ける。ニトはぽつんと立ったままである。
ぶおん、とけたたましい蒸気音が修理車から響いて、白い蒸気が噴き上がった。
「早く乗って」
窓から顔を出して言う。ニトはぴんと背筋を伸ばして寄ってきて、幾度か手を迷わせてから助手席のドアを開けた。
「……あの、お邪魔して、いいですか」
「もちろん。ほら、置いてかれちゃうよ」
修理車はマンモスみたいにゆっくりと動き出した。それを見て、ニトが慌てて助手席にお尻を滑り込ませた。
「あ、わっ」
ワイヤーがぴんと張って、ヤカンがぐんと動いた。
ニトが両手で引いてドアを閉めた。ぼくはハンドルを握り、方向だけを調整する。
おじさんの修理車はゆっくりとした速度で駅の横手に回って、ニトのオート三輪に横付けするように止まった。
どうするのかと二人で首を伸ばして見ていると、おじさんは修理車の荷台に上がって、台座から突き出たレバーに手をかけた。荷台のアームが蒸気音を吹かしながら動き出した。それはまるで、ゲームセンターのクレーンゲームみたいだった。
アームをオート三輪の真上に動かすと、おじさんは荷台から降りて、アームから引き伸ばしたケーブルをオート三輪の四方に取り付けた。あっという間の手際だった。そうしてまた荷台に登りレバーを動かすと、オート三輪は軽々と持ち上がった。
「すごいなあ」
「……あれ、落ちないですか。不安です」
「大丈夫だよ。たぶん」
「たぶん? たぶんって言いましたよね? たぶん?」
ニトははらはらと落ち着かない様子で、宙に浮いたオート三輪を見守っていた。
心配とは裏腹に、オート三輪はちっともふらつく様子もないままに、修理車の荷台にぴたりと積載される。おじさんはオート三輪を金具で固定すると、滑るように運転席に戻った。
ぼくはハンドルを握っていたけれど、街道に出るために曲がった時に調子を合わせただけで、あとはまっすぐで平坦な道になった。
ニトは助手席の窓ガラスに鼻を寄せて、ぐんぐんと遠くなる駅を見つめていた。
白い雲を浮かべる水上に駅舎がひっそりと佇んでいる。ぼくらが通ったあとに生まれた波紋も、駅までは届かずに消えていく。離れて見ればなんとも幻想的な景色だった。
「絵、描きたいな」
ぼそりと呟く声は独り言のようで、染み入るような響きがあった。初めて出会った駅のホームで、一心に絵を描いていたニトの横顔が思い出された。
引っ張られるだけのぼくらは止まることもできず、水上の駅はやがて蜃気楼のように遠くぼやけていった。完全に見えなくなったころ、ニトは窓から顔を離してシートに背を預けた。
整った容貌はつんと澄ました顔をしているが、わずかに下がった眉が心残りを語っていた。
「車が直ったら、また来たら良いんじゃない?」
ニトは「そうですね」と答えたが、それが言葉通りの意味でないことは分かった。説明しても理解してもらえないだろうとか、細部を言葉にするのが面倒くさいとか、話がややこしくなるとか。そういうときによく使う「そうですね」だった。
これは決して賛同の意味でも、了承の意味でもない。日本人らしい奥ゆかしい言葉なのである。現代っ子か。
前を走る修理車が、ぶぉおん、と汽笛をあげた。車体の下から大量の蒸気が吹き出した。それは濃密な霧となってぼくらを包んだ。視界は真っ白になって、何も見えなくなった。
どこに行くのかも、これからどうなるのかも、さっぱり分からないでいた。
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