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テントから出ると、白紙のような朝陽が差し込んでいた。
寝ぼけ眼で階段に腰を下ろし、ぼけっと景色を眺めた。夏空によく見るような大きな入道雲が山から沸き上がっていた。目の前の澄んだ水たまりが今ばかりは海に思える。
かがんで両手を差しこみ、すくい上げた水で顔を洗った。水はひんやりと心地よかった。三回も繰り返せば目も覚める。シャツの裾で顔を拭い、そのまま後ろに倒れこんだ。
青い影の張り付いた構内の天井が見えた。横に細長い蛍光灯のようなものが釣り下がっている。背中のタイルがほんのりと暖かく、このまま寝てしまいそうなほど心地が良い。
目を閉じて両手を広げて転がっていると、ざぶざぶという音が聞こえた。
それはやがて、ぺたぺたに変わって、すぐ近くで止まった。ふわりと柔らかい風と、初夏の香りがした。
「なにをやってるんですか?」
幼い響きを語尾に残した、すこし高い声。
「太陽を感じているんだ」
「それは、異世界の儀式かなにかです?」
「いや、趣味」
「……そうですか。楽しそうですね」
目をあけると、膝を抱えてしゃがんだニトがぼくの顔を見下ろしていた。
「おはよう」
「はい。おはようございます」
「朝ごはんが欲しいの? ちょっと待ってね」
「ちがいます」ニトは頰を赤くした。「そんなに食に卑しくありません」
卑しくありません!
そんな表現をじっさいに使う人には初めて出会った。真偽はさておき。
「じゃあ、どうしたの?」
「……あなたの車なら、信号拳銃が載っているんじゃないかと思って」
「トランクに入った小さい銃ならあるけど」
「それです。わたしのオート三輪には無いんです」
「銃をどうするの?」
「助けを呼びます」
「詳しく聞こう」
ぼくは勢いをつけて上半身を起こした。ニトが驚いたように身体を引いた。
「……故障したり、燃料や水不足で立ち往生したときには、信号弾で赤い煙を空に打ち上げるんです。それを見た移動式蒸気修理車(リボイル・トラクション)が駆けつけてくれるんだとか」
「へえ。そんな文化があるのか」
「わたしも本で読んだことがあるだけなんですが……」
人がほとんどいなくなったこの世界で、まだ移動式蒸気修理車とかいうのを運転している変わり者がいるかは分からない。それでもここで日向ぼっこをしているよりは有意義そうだった。
「さっそく試してみよう」
ぼくが立ち上がると、ニトも倣った。
ズボンの裾をまくり、階段を降りて、水の中に足を沈める。顔を洗うには心地よかったけれど、両足をつけるには少し冷たさが過ぎる。
ざぶざぶと水をかき分けてヤカンに向かう。ニトも後ろをついてきた。昨日の雨のせいだろう。いくらか水位が増したようで、昨日よりも歩きづらい。
助手席から小型トランクを取って、ボンネットの上に置き、錠を開いた。
上下二連の小型の銃が、赤い布張りの型にぴったりとおさまっている。上蓋には六発分の弾を収納できるように型があるが、今は頭の赤い銃弾が二つ並んで収められているだけだった。
「これだよね?」
横に並ぶニトに訊く。
「はい。赤い弾頭が信号弾です」
まだ一度も撃ったことがないので、それを知ったのは初めてだった。なんでこの二つだけが赤いのかずっと疑問だったのだ。
信号拳銃をトランクから取り出すとずっしりとした重みがある。小さくても銃身はすべて金属だ。銃把に合わせて握ると、ちょうど親指のあたりに小さなレバーがある。押し込みながら左手で銃身を下げると、手元近くで折れるように曲がって、装填してある銃弾の尻が飛び出した。
二発のそれをつまみ出して、トランクの型に押し込んだ。代わりに赤い銃弾を二つ装填して、銃身を戻す。
撃鉄を親指で引くと、手元でがちりと噛み合う音がした。あとは引き金を引くだけで良いはずだった。
ニトの顔をうかがうと、どこか緊張した表情がぼくを見つめていた。止める様子もないので、ぼくは手を上に伸ばした。耳に二の腕をぴったりと付け、反対の耳は手のひらで抑える。引き金に人差し指をかけた。
ニトが慌てて両手で耳を覆ったのをたしかめて、ぼくは引き金を引いた。ところが引き金は半ばで、がちりと固い感触に止まってしまった。
なんだ、とさらに指を引くと、途端に軽くなって、次の瞬間には音と衝撃が手首に響いた。
ニトが両耳に手を当てたまま、小さく口をあけて見上げていた。
ぼくの頭上に真っ赤な煙が高く伸びていた。縦に尾を引いた飛行機雲のように、まっすぐに。ちゃんと撃てたらしい。手の中の発煙銃を見る。
「……どうしました?」
「引き金を引いたとき、途中で指が止まったんだ。急に重くなって」
「それは安全装置です」
「安全装置?」
そういえば、映画でそんな言葉を聞いたことがあった。でもそれって、レバーとかボタンじゃなかったっけ。
「誤射を防ぐために、引き金の途中で止まるようになってるんです。そこでもう一度、今度は強く引いて、ようやく撃てるそうです」
「なるほど。よく知ってるね」
「本で読みました」
「博識だ」
「いえ。知っていることしか知らないです」
哲学者みたいなことを言うニトの顔は、べつに冗談を言っているようでもなかった。
しかし、そうか、安全装置なんてものがあったのか。
ぼくは手の中の銃を見る。その重みは、何度持っても変わらない。良い勉強になった。
「……なにかありました?」
「いや、なんでもない」銃をトランクに戻して、蓋を閉じて錠をかけた。「これで誰か来てくれると良いね」
「そう、ですね。でないと、困ってしまいます」
二人して空を見る。赤い筋は高く伸びていて、その先の方は随分と細い。風に流され、輪郭は少しぼやけている。これをどこかで見てくれる人が、まだいるだろうか。
しばらくそうしていたけれど、ぐう、と間の抜けた音に視線を戻した。
「…………」
ニトがうつむきがちにお腹を両手で押さえている。
「今日も鳥は元気そうだ」
「……よく言って聞かせておきます」
「さ、朝ごはんにしよう。食べていくでしょ? ま、缶詰なんだけど」
駅に戻ろう、と水の中を歩き出す。背中越しにニトの歩く音を聞く。
「……あとで、缶詰をお支払いします」
そんなつぶやきに、ぼくは思わず吹き出した。
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