3


 食は娯楽だ。

 と言っても、使える食材といえば缶詰と水くらいのもので、ここ久しく生肉や魚を食べていない。茂る野草はよく見るものの、それが食べられるのか、ぼくには判断がつかない。かなり偏った食生活を送っている。

 あたりはすっかり暗くなっていた。街灯のひとつもないけれど、中天にある月が辺りを柔らかく照らしてくれている。

 ランタンの灯りが弱くなっていたので、小さなハンドルをぐるぐると回した。手回しで発電ができるのだ。これのおかげでスマホにもわずかばかりの充電ができる。

 缶詰を並べて、ランタンの灯りで説明書きを読むが、もちろん異世界の文字だから中身ははっきりとしない。それでも缶詰を開けて中身を知るという経験を繰り返してきたので、サイズや外装の雰囲気で推測する技術を身につけている。

 今日はこれだと缶詰を開けると、中は赤黒いソースのからんだ肉の塊がぎっしりと詰まっていた。鼻を寄せるとツンと鼻を刺激する辛みを感じた。それでいてどこか甘い香りもした。

 箸で肉をつまんで口に入れた。甘さと酸味があった。それからすぐに、

「かっら……!」

 舌を刺すような味だ。辛味は旨味にもなるが、ここまでくればただの刺激物だ。

 肉は鶏肉っぽくて、この世界の缶詰ではわりと定番だ。ただ、ソースとは初対面だった。チリソースに近いようで、とにかく辛い。ぼくが楽しめる基準を明らかに超えている。

 どう料理したもんかと思案しながらスベアに着火した。赤い揺らめきが構内の壁に反射した。

 小さな鍋を乗せ、そこに鶏チリの缶詰をあける。空になった缶詰を使って水をくみ上げて、残ったソースを溶かし、そのまま鍋に加える。缶詰を洗うのと、味を少しばかり薄めるのと、一石二鳥だ。

 積み重ねた缶詰から見慣れたものをふたつ取った。ひとつは豆の水煮だ。もうひとつは、キャベツの千切りの酢漬けのようなものがぎっしり詰まっている。両方とも鍋に放りこんだ。

 スプーンでかき混ぜながらくつくつと煮込んでいく。鍋の縁で泡が立つほどに温まった頃合いに、スープの味を見る。

「……まあ、うん」

 予想通りとしか言えない。そりゃ、こういう味がするよね。

 木箱から小型のトランクを引っ張り出した。金具を押して開く。中には小瓶や小さな筒なんかが詰まっている。この世界で集めた調味料のケースなのだ。

 砂糖を取り出して、鍋に放り込む。スープの粉末を加えて、味に奥行きが出ることを期待する。刻んだハーブの葉が混ぜ込まれた塩をひとつまみ。すべて目分量だ。飲食店じゃあるまいし、食べるのも自分だけだし、料理はいつも直感と気分でやっている。これでなかなか、美味くなる。

 ぐるぐると混ぜながらスベアの火を弱めた。焦げないように様子を見ながら煮詰めていく。やがてソースがどろりとしてきて、スプーンで掬えばキャベツが煮溶けつつある。息を吹いてしっかり冷まして、歯でこそぐように食べた。

 舌が悲鳴をあげるくらい熱かった。

 口の中に息を吸い込んで冷ますと、味が顔を見せた。どろりとした甘味があった。酸味はかすかに。スープの粉末のおかげだろう、出汁のように旨味の奥行きがある。辛味はずいぶんと薄まって、ほど良く舌を楽しませてくれる。飲み込んだあとに口の中がヒリヒリしたが、それが気持ち良いくらいだ。

「ぼくは煮込み料理の天才かもしれない」

 真顔で言ってみるが、もちろん独り言である。この世界にツッコミを入れてくれる人間はもうほとんどいない。ボケは死んだのだ。

 スベアの火を切ってから、円筒形の缶詰を取った。中には素朴な味わいで固くて口の中でモソモソして唾液を奪い取る凶悪なパンが入っている。これがぼくのもっぱらの主食だった。

 視界の外でじゃぶじゃぶと水を割る音が鳴った。ぼくは身を固くした。

 夜は人の警戒心を強くする。背筋で糸が張りつめるように緊張感が高まった。

 パンの缶詰を握りしめて、音の方をじっと見る。影が動いているように見えた。月明かりに浮かび上がるように白い残影が揺らめいている。

 ぼくはほっと息をついた。やがてランタンのLEDの白い灯りに照らされたのは、あの絵描きの女の子だった。

 彼女は片手に靴を持ったまま階段をあがってきた。やけに真剣な表情をしていた。

「あの」と彼女は切りだした。「その匂い、迷惑なんです」

「に、匂い? ごめん、臭かった?」

 女の子は首をふった。眉をひそめて、怒っているみたいに目を細くした。

「……美味しい匂いが気になって、落ち着かないんです」

 きっとぼくは、きょとん、なんて表現がしっくりくる顔をしていただろう。

 それから、吹き出してしまった。パンの缶詰を抱えこむようにして笑いを堪えたけれど、あまり効果はなかった。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

 目尻に浮かんだ涙を拭うと、女の子が変わらず、不機嫌そうな顔をしていた。それは少しばかり幼げな印象を感じさせた。

 ぼくが手招きをすると、女の子は野良猫のように警戒しながら、夜闇を背景に浮かび上がる白い素足でぺたぺたと近づいてきた。

 それでも絶対に手が届かない場所でーー何かあれば、すぐ逃げられる距離で立ち止まった。

「晩御飯、まだなの?」

 訊くと、女の子はワンピースに羽織った上着のポケットから缶詰を取り出して見せた。

「それだけ?」

「……食料は、貴重なので」

 たしかに、とぼくは頷いた。こんな水上の駅ならなおさらだ。

 ランタンの灯りに照らし上げられた彼女の髪は、夕方とはまた違った、深みのある灰色をしていた。光によって色味を変えるその髪に、不思議と目を寄せてしまう。

「よかったら一緒に食べる? ひとりの食事には飽き飽きしてるんだ」

 女の子はじっと鍋を見つめながら、「……いえ」と首をふった。お腹がぐうと鳴った。途端に、お腹を抱きかかえるように座り込んだ。

「聞かなかったことにしてください」

「いや、ばっちり聞こえたよ」

「……鳥の、鳴き声です」

「なるほど、それなら仕方ない」

 納得して見せたというのに、女の子は恨めしそうな顔でぼくを睨んだ。

「じゃあ取引をしよう。その缶詰をぼくにくれるなら、この鶏と野菜のチリ煮込みを分ける。どう?」

「うっ」

 難問を前にした数学者のように険しい顔だった。ただ、見つめているのは湯気をあげる鍋だ。

 ぼくがこれみよがしにスプーンで鍋をかき混ぜると、女の子の鼻がすんすんと鳴った。

「……その商談、乗ります」

 厳しい決断だったらしい。女の子は重苦しく言った。ぼくはまた笑った。

「ほら、こっちにおいで」

 言いながら、木箱から金属の皿とスプーンを探し出した。いつもは調理した鍋やフライパンからそのまま食べるので、こうして食器を使うのも、誰かと一緒に食事をするのも、同じくらい久しぶりだった。

 皿に盛り付けていると、女の子はしゃがんだまま、ゆっくりと寄ってきた。驚かせてしまったらすぐにでも飛び跳ねて逃げていきそうだった。

「ぼくは恵介。きみは?」

 皿にスプーンを添えて差し出すと、彼女はそれを見つめた。ちらりと瞳だけを動かして、ぼくの顔をうかがった。

「……ニト、です」

 手に持った缶詰を床に置き、ずいとぼくの方に押しやって、ニトと名乗った女の子は皿を受け取った。その揺るぎなく頑なな態度が好ましく思える。

 ニトは皿の中身を見下ろしている。ぼくはそんな彼女を見ている。ふと上げた目線とかち合って、ぼくは視線を鍋に戻した。

 缶詰から取り出したパンをスライスする。缶詰の形のままに丸太のようなパンなのだ。スベアから鍋をおろし、その火でパンを炙る。

 わっ、と小さな驚きの声が響いた。見ると、片手にスプーンを持ったまま、ニトが自分でも驚いたように口を押さえていた。

「口に合わなかった?」

 心配になって訊いてしまう。なにしろ自分の好みに合わせた味付けだ。

 ニトはぶんぶんと首をふった。自分の反応に恥じらったように、すんと表情を落ち着けて、

「おいしくて、驚いただけ、です」

「そっか。なら良かった」

「……料理人ですか?」

「まさか。趣味だよ」

 両面にきつね色の焼き目がついたパンを、腕を伸ばして女の子の皿に乗せた。

「あっ」

「これに載せて食べるともっとおいしい。かもしれない」

「……取引にパンは入ってない、です」

「もともと、パンと合わせてひとつの料理なんだ」

「その理由は後付けでは……?」

「事前に取引内容を確認しなかったきみが悪い。おとなしくパンも食べるように」

 女の子は不満げにぼくを見ていたが、ぼくは気にせずパンを炙る仕事に戻った。

 しばらくすると、サクっと耳に心地良くパンをかじる音と「んっ」と驚く声がした。ぼくはにやける顔を押さえるのに苦労した。

 食事には二種類ある。ひとりの食事と、ひとりじゃない食事だ。

 べつに和やかに会話をするわけではない。それでもぼく以外の、料理を冷ますために息を吹く音がある。パンをちぎる暖かい音がある。食器同士のぶつかる軽やかな音がある。この寂しい世界で、自分以外の誰かがいる。

 小鍋に残ったソースをパンできれいに掬いとる。口に放り込むと、ソースを吸って柔らかくなったパンがほろりと溶けた。ほとんど無味のパンがこの時ばかりは甘辛さを纏って舌を楽しませてくれた。

 女の子はすでに食べ終わっていた。食器が未使用みたいに綺麗な状態で、ランタンの灯りを照り返している。皿をじっと見つめる顔に浮かぶのが名残惜しげに見えるのは、ぼくの都合の良い思い込みだろうか。

「足りなかった?」

「……いえ。おいしかったです。ごちそうさまでした」

 さしだされた食器を受け取って小鍋の上に重ねた。

 ぽつ、ぽつ、と、音がしたわけではない。落ちた水滴がそんな風に見えただけだ。それはすぐに間隔を狭めた。月が浮かぶ平坦な水面に、ひっきりなしに丸い波紋が繰り返され始めた。

「強くならないうちに入ろう」

 ぼくらは階段前に陣取っていて、そこにも庇はあるけれど、斜めに降りこまれたら濡れてしまう。

 ぼくはバックパックを背負い、木箱を抱えて構内に入った。月明かりもここまでは手の届かない様子である。歩くのをためらう暗闇が寝そべっていた。

 と、光が差した。ニトがランタンを手に付いてきてくれていた。

「ありがと。助かる」

「いえ」

 ぼくとニトは並んで立って、急に雨脚を強くした夜空を眺めている。月は出ているからすぐに止むような気もしたし、朝まで降り続きそうな気もした。

 どちらにせよ、この雨が止むまではニトも戻れないだろう。

「車?」

「いえ、オート三輪です」

「オート三輪って?」

 なぜそんなことも知らないのだ、という表情をたっぷりと味わった。

「……荷台付きの、小型三輪自動車です。蒸気自動車ほど運転は難しくないので。資格を持っていないのは、どっちも同じなんですけど」

「あ、やっぱり蒸気自動車の運転って資格がいるの?」

 お前はいったい何を言っているんだ、という表情で、ニトはぼくからヤカンに視線を移した。運転しているんじゃないのか、と言いたいらしい。

「運転の仕方は教わったけど、資格はもってないんだ。この世界の人間じゃないからさ」

「異世界人だったんですか」と、ニトが目を丸くした。「……本当に、いたんですね。本の中だけの存在かと思っていました」

「本当にいるんだよ。はじめまして」

 ニトはいくらか視線を迷わせた。

「こんな状況で、大変、ですね。少し前なら国賓待遇だったのに」

「それは初耳なんだけど」

「この世界の文明は、迷宮の産出物とそこから召喚される異世界人の知識によって発展してきましたから。どこの国も異世界人から何かしらの恩恵を預かろうと必死でした」

「……来るにしても、明らかにタイミングを間違えちゃったな。そもそも来たくはなかったんだけど」

 額に手を当てた。期待に応えられる知識なんて持ち合わせてはいないけれど、それでもこうして滅んだ世界でホームレス生活をするよりは、国賓としてふんぞり返っていたかった。

「まあ、いいや。どうにもならないし。帰る方法って知ってる?」

「……かつては、召喚された迷宮の魔力変動期に合わせて帰還するとされていましたが、今は世界中が魔力飽和状態なので、魔力変動も起きません。それに迷宮はすべて資源が枯渇し、封鎖されたと聞きます。むしろ、あなたはどうやってここに?」

 ぼんやりと記憶にあるのは、朽ちた石造りの遺跡だった。

 一泊二日を予定したキャンプに向かう途中、マンホールに落ちたような浮遊感にあって、気づけばそこに立っていた。

「さっぱり分からない。事情が分かりそうな人は知ってるけど、そっちはどこにいるのかが分からない」

 探し続けてもう六ヶ月と二十五日が過ぎていた。

「そう、ですか」

 ニトの視線に気遣うような優しさがあった。良い子なんだろうな、と考える。

「きみも旅を?」

「……はい。初めての、旅、です」

 含みのある言い方だった。そこを深く訊いて良いものか、悩んだ。

 踏み込むには、ぼくらの間にはまだ深い溝があった。人はおずおずと出会うものだ。そこから急に距離を詰めるのは、どうにも品がないように思えた。

「そっか。お互いに大変だ」

「はい」

 ざあ、ざあ、と雨が降っている。

 広がる一面の水の平原に、絶え間もなく波が生まれている。流れてきた厚い雲に、月の灯りがゆっくりと遮られた。

「実は」とニトが言った。「オート三輪が、故障してしまったんです。ずいぶん動かしていなかったから」

「奇遇だね。ぼくの車も壊れてるんだ。前から調子が悪くて」

「えっ」

 ニトが髪を揺らしてぼくを振り仰いだ。

 ぼくはその表情を見返した。

 お互いに見つめあって、どうしてか気まずい沈黙が横切った。

「そう、なんですね」

「困ったよね。こういう時、どうしたら良いんだろ」

「普通はリボイル・トラクションに頼るそうですけど。こんな状況ですから……」

 聞き馴染みのない言葉に首をかしげると、ニトが「あっ」と気づいて説明してくれた。

「移動式の蒸気修理車のことです。街道を何台も周回していて、故障車を見つけるとその場で修理してくれたり、蒸気工場まで牽引してくれるんです」

「それは便利だ」

 まさに今、助けてほしい。

 月が隠れてしまって、山にも平原の先にも家灯りのひとつすらない。かつてはこの駅を利用する人がいて、平原を走る車のヘッドライトがあって、虫や鳥の鳴き声が聞こえたのだろうか。

 城跡に立って昔に想いを馳せるような気持ちだったが、馴染みのない世界の、見たこともない過去を想像するのは難しかった。感傷的な気持ちよりも、明日、どうすべきかという問題が差し迫っていた。

「そろそろ、戻ります」ニトはぼくに向けて頭をさげた。「夕飯、ごちそうさまでした」

「雨だけど。もう少し待ったら?」

「いえ、すぐそこなので。もう夜も遅いですし」

 門限の迫ったお姫さまのように言って、靴を持ち上げ、雨の中に階段を降りていく。夜闇の中に消えていく背中を見送った。水をかき分ける音は、やがて雨音にまぎれて聞こえなくなる。

 そのまま、しばらく立っていた。またひとりになると、ますます寂しさが募った。目の前の夜ですら陰気に見えてくる。

「あっ」

 雷が落ちるように気づいた。

 さっきの、もしかして、助けを求められたのではないだろうか。車が動かないことで困っているのは、ぼくだけではないのだ。

「なにが奇遇だね、だよ」

 実際、ぼくも状況は同じなので、助けようもないのだけれど。もう少し言い方はあったはずだ。

 ニトが去った方を見やるが、今さら追いかけるわけにもいかなかった。

 大きくため息をついて、ぼくは構内に戻った。

 今日はもう、寝よう。

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