第274話 神の存在証明④ 大切な人の、その夢のために

〈エラム、アナトらと共に死者の国へ向かう〉 


「何だ、教皇に連隊長殿ではないか。俺はおまえら神殿に反旗を翻すべく大忙しなんだ。しばらく放っておいてくれ」

 

 酒瓶が散らばる小神殿の一室で、アナトはうつろな目で訪問者を罵った。

 

「情けない奴だ。俺はそんな奴を助けたわけではない」

「……フェルネス、あの時誰が助けてくれと言った? あぁ、そうだ。あの時に死んでいればサリーヌが死んだと気づくこともなかった」

 

 倒れた酒瓶を拾い上げ、残った数滴を舌先に垂らし、アナトは笑う。激怒したフェルネスが襟首を握りしめ、拳をアナトの横面にたたき込んだ。派手な音がして椅子と机、そして人形のような男が床に転がった。

 

「どうした、もっと殴れ、そして殺せ! それともバルアダンのもと上官は、奴と同じく役立たずか!」

 

 フェルネスがアナトに向けて一歩を踏み出したとき、ニーナの叫びが二人の耳を打った。

 

「止めて!」

 

 アナトはニーナの咎めるような、それでいて自分と同じくらいに思い詰めた顔を見て、顔を背けながら椅子に座り直す。

 

「……それで何のようだ」

 

 エラムとトゥイはアナトの前で腰をかがめ、その震える手を握りしめる。冷えた心と体に熱を感じ取ったアナトは身を震わせ、力なく肩を落とした。

 

「アナトさん、あなたには明日の市民集会の招集をしてもらいます」

「エラムよ、俺にそんな資格はないのだ。護民官? そんな大層な奴はいない。ここにいるのは妹を守れなかった馬鹿な男だ。なんと言っても無駄だぞ」

「僕は説得に来たのではありません。それは別の人にやってもらいます」

「何だと? では君は何をしに来たのだ」

「ニーナ、頼む」

 

 ニーナが神器である大銀杯を床に置く。そして一同に目配せをすると、全員が軽く腕に短刀を滑らした。血が杯を満たしていき、やがて月光の輝きを纏い出す、

 

「兄さん、今から兄さんを叱ってくれる人に会いに行きます」

「ニーナ?」

「おじいちゃんが私に力を残してくれたのは、きっとこのためなんだ。戦いのためではなく、会いたい人に会えるこの素晴らしい力を、みんなのために……」

 

 ニーナはアナトの手を取り、愛おしく頬に当てた後、軽く歯を当てる。一筋の血が杯に注がれ、少女を中心に光が部屋を包んでいった。

 光の後には闇が広がっていたのだが、魂が淡く輝くことで互いの無事と場所を確認する。

 

「……ここはどこだ?」

「儂が支配しているシャヘルの精神の中だ。甘ったれたアスタルト大神官のために、わざわざ招待してやったのよ」

 

 一同の先頭に立つ老人の魂がそう呟いた。

 

「俺を大神官と言う貴様は何者だ?」

「シャプシュ、ハドルメのシャプシュだ。今はシャヘルとして活動しておるがの。……久しぶりと言うべきかな?」

「シャプシュ翁!」

 

 振り向いた老人の顔を見て、アナトは呻くように声を上げる。あの子供好きの優しい老人が、魔人となり血をすすり、クルケアンを支配しているのだ。自分達は過去の世界でもっと何かを、救いのための何かをするべきだったのではないだろうか。言葉をなくしたアナトに老人は笑う。

 

「気にすることはない、儂の記憶も曖昧でな。大神官はもっと不敵で傲慢で、不器用な男の印象だったのだが、どうやら最後の印象しか合っていないようだ。都合の悪いことは忘れるに限る」

 

 一方、フェルネスはシャプシュの姿を見て何かを思い出せそうな衝動を感じていた。おかしい、自分もおぼろげな記憶しか持っていないというのに、この精神の世界ではシャプシュとの思い出が次々と蘇ってくるのだ……。

 

「どうやら呼びかけても待ち人は来ないようだ」

 

 残念だがこれまでだ、と続けようとしたシャプシュをエラムは暗い空を指さして制止する。

 

「空への道がある! あれはアバカスさんの精神の内で見た魂の軌跡だ。……あの人は僕達に来いと言っている」

 

 未知の世界で、エラムとトゥイだけが魂の軌跡を観測できていた。

 かすかに揺れるその軌跡を二人は目を凝らして追いかける。慌ててついていく一同は、互いの姿を見て驚きの声を上げた。

 

「兄さん、姿が変化しているわ」

「ニーナ、お前だって」

 

 アナトは神獣騎士団の甲冑ではなく、神官服を着ていた。そしてニーナはみすぼらしい衣服を身にまとっている。それは彼らが初めて会ったときの服装だった。みればフェルネスの姿も変化し、少年の姿となっていた。

 

 やがて彼らは草原に出る。黒い空に美しい草原、夜空なのに明るいのは月が出ているからだろうか? アナトは空を見上げ、そこに青い星が輝いていることに気づく。

 

「ここは滅んだクルケアンの世界か! しかしあの時はこの草原はなかったはず」

 

 アナトは草原にアスタルトの行宮を見つけた。バルアダンとサリーヌがいたその場所に、吸い寄せられるように足が向かっていく。あそこに誰かいるのだろうか、月の女神ナンナの精神か、それとも……。

 

「お主と雖もここは通さぬぞ、ダレトよ」


 行宮の前で壮年の男性が立ちはだかった。

 そして呆れたようにアナトの腕を掴んで、叱りつける。


「シャヘル!」

「相変わらず事を急ぐ男だ。もうすこし落ち着かんか」

「そこに誰がいるのです! もしやサリーヌでは!」

「その通り、ここにはあの子の魂が眠っている」

「……推し通る」

 

 アナトはシャヘルの腕を乱暴に振り払い、行宮の奥に向かって駆けだした。

 しかし次の瞬間、彼の視線は床と同じ高さにあったのだ。ただの神官であったシャヘルに神獣騎士団の連隊長を止められるはずもなく、見上げればもう一人の見知った顔が哀れみを込めた目で見下している。

 

「ラメド元老!」

「アナトよ、ここを通すわけにはいかん」

「なぜだ! そこに、この奥にサリーヌがいるのだろう!」

「お前には資格がない」

「何だと?」

「あの御方に直接会えるのは、バルアダンだけだ。今、お前の声を聞けばこの世界は崩れるかもしれん。バルアダンによってハドルメの魂が世界に帰るときこそ目覚めなければならないのだ」

「……俺は兄だぞ、ラメド! サリーヌを守り切れなかったバルアダンなんぞを待つ必要はない!」

 

 ラメドは激高するアナトのみぞおちを突き、呻き声を無視して行宮の外の草原に放り出した。そこには権能状をもったシャヘルが、今度は温かい目でアナトを待ち受けていた。

 

「シャヘル、何故だ、何故俺には資格がないのだ!」

「サリーヌはもう自分の家族を持っておる。夫であるバルアダン、息子であるロト、アドニバルという家族をな。そしてあの子が最後に願ったのはハドルメを救うこと、そして願った夢は小さな家で家族を待ち受けるものであった」

「!」

「この世界はナンナとタフェレトの力を持って顕現し、サリーヌの夢によって死者の想いが形を持ち始めたのだ。それを貴様に邪魔をされるわけにはいかぬ」

 

 惰弱と言われ、阿諛追従の才しかないと笑われていた男の、その射すくめるような眼光にアナトは言葉を失う。

 

「なぁ、アナト。サリーヌはみんなが帰ってこれる世界を守るために命をかけた。バルアダンはその世界を勝ち取るために現世に向かった。それで兄であるお前は何をしている?」

 

 うな垂れ、草をかきむしるアナトの横にシャヘルは腰を下ろす。草の匂いに誘われて彼方を見れば、多くのハドルメの民が笑い、遊び、そして歌っている。

 

「自分のやることを、できることをするがよい。死にそうな妹のために、助けを求めてクルケアン中を駆け回ったときのように」

「……あの時と一緒だ。力がない俺には助けることができなかった」

 

 シャヘルは苦笑した。なぜなら隣に座っていたはずの青年の魂は少年の形に変わっていたからだ。結局、この男の魂の本質は変わらないのだろう。純粋で、不器用で、妹思いの優しい子供なのだ。だからこそ周りが手を差しのばすのだ。気づいているのだろうか? 泣き叫んでいた少年の周囲には多くの友人がいることに、そして愛し、支えてくれる人がいることに……。

 

「あぁ、力のない子供だ。だがな、お前のその必死さのおかげであの子は強くなった。サラも手を差し伸べた。バルアダンも、故シャムガル元老も、ラメド殿もな。あの時と一緒だよ、アナト。自分一人では何もできないのだ。クルケアンの市民に力を請うがいい。そしてサリーヌが愛した世界を守るのだ」

 

 シャヘルは少年の頭を優しく撫でる。そしてレビと呼ばれていた少女が安堵の息をついてシャヘルの横に座り込む。

 

「シャヘル様、ありがとう。あたいがいくら言っても聞いてくれないんだ。でも少しだけ嫉妬するかなぁ」

「おやおや、若い娘に嫉妬されるとはな。でもそう思えるなら君も元気が出た証拠だ。この馬鹿を頼むぞ」

「それはもちろんだけど、シャヘル様、まだ言っていないことがあるよね」

「おや、何かあったかな」

 

 シャヘルは青い星を見上げてとぼけるように視線をそらした。少女はその様子を見て足をばたつかせながら笑い転げる。なぜ自分の周りには嘘が下手な男しかいないのだろう。これでは悪い女に騙されてばかりではないか。愛すべき男達の腕をとり、淑女を自称する少女はその腕に思いっきり力を込める。いささか乱暴に過ぎたのだろうか、少年はようやく顔を上げて抗議する。

 

「死にかけたあたいとダレトを救ってくれたのは、シャヘル様ですよね」

「救ったのは君達を利用しようとした機関の神官どもだ。私ではないよ」

「ううん、魔人化の時。いやその前かな、神の二つの杯(イル=クシール)を飲ませてくれた薬師様がいたことをうっすらと覚えている。泣きながら神様に奇跡を願っていた」

「……」

「あたいに注ぎ込まれた魂はヤム爺ちゃんの一片。かけらとはいえ、あたいよりずっと強いお爺ちゃんの魂を受け止め切れたのは薬師様の薬があってこそさ」

「それが私という確証はあるまい」

「まったく、素直じゃない薬師様だね。意地っ張りなところはサラ導師やダレトにそっくりだ。でもあたいのことより、ダレトのことが聞きたいんだ。ダレトはなぜ、ダレトのままなの?」

 

 少女は思う。自分は神薬と何よりヤムが守ろうとしてくれたことにより、自我を侵されることなく保つことができた。そしてアナトはダレトのままだ。そこに不純なものなどいっさいない。それでいて魔人としての力を振るうことができる。誰かの魂が、意図的にダレトに力のみを貸しているのではないだろうか。ダレトの意識から距離を置き、見守り続けている魂が。この死者の国にたどり着けたのはシャプシュがシャヘルに呼びかけたからだが、何かもう一つ繋がりがあるのではないかと考えたのである。

 

「あなたがシャプシュの魂に精神を譲り渡したのは、ダレトの精神に入り、他の魂の浸食から守るためではなくて?」

 

 少年の目が大きく見開かれた。男は少女の言葉に少し照れるような反応をして、先ほどの少年と同じく草をむしり出す。

 

「……だから、先ほどのシャヘル様の言葉は追加されるべきよ。ダレトを見守っていたのはサラ導師達と、自分だってね」

 

 中年男の魂は恥ずかしがるように頷いた。

 顔を見合わせた少年と少女が嬉しそうな表情を浮かべると、光と共にアナトとニーナの姿に戻り、シャヘルに跪いた。

 

「シャヘル、あなたが守ってくれた妹のために、そして情けない俺を助けてくれたあなた自身のためにも、市民と共に世界を守ろう」

「シャヘル様、私達を助けてくれて、また私達のために泣いてくれてありがとう。あなたに誓ってこのアナトを守りつづけます」

「生きていてくれれば、幸せになってくれれば良いのだ。私を縛りとすることはない。だが、成長したお主らを見るのは嬉しいことだ。期待しているぞ、二人とも」

 

 礼をして辞そうとするアナトをシャヘルは呼び止めた。

 

「行宮の魂には会えないが、夢の中のあの子なら良いだろう。……アナトよ、会っていけ」

 

 シャヘルが指さす方に、少女が少年と追いかけっこをしている。本来ならば魔障により寝台から離れることのできなかったはずの少女は、兄と呼ぶ少年を楽し気に追いかけ回している。アナトとニーナはゆっくりと近づいていった。少年がアナトにぶつかると、その姿はかき消え、追いかけてきた少女が男にぶつかる。

 

「ごめんなさい! もう、兄さんたらまた隠れて!」

「……兄さんと遊んでいたのかい?」

「ええ、でもいつもいなくなってしまうの。神官を目指すならいい加減に落ち着いてほしいわ」

「ねぇ、あなたのお兄さんはそんなに落ち着きがないの?」

「そうよ、お姉さんもきっと兄さんを見れば分かるはずよ。だらしがなくて、ずる賢くて!」

「本当?」

「ううん、周りの人がそう思っているだけ! 本当はね、私にだけはとても優しい、かっこいい兄さんなんだ。でも不器用だから誤解されるの。だから私がしっかりしなくちゃね。兄さんには必ず神官になってほしいから」

「……兄さんが神官になってしまうと離ればなれになってしまうぞ。それでもいいのかい」

「いいの、私もいずれ神官になるから。それにね、なんだかんだ優しいから、きっと神学校の先生に向いていると思うんだ。でもうっかりして準備や資料を忘れそうだから私がそのお手伝いをするのよ!」

「……そうか、きっとその兄さんも喜ぶだろう」

「どうしたの? 声が震えているわ。気分でも悪いの?」

「いや、大丈夫だ。さぁ、兄さんを探しておいで。きっとすぐ側にいると思うよ。そんな優しい兄さんならきっと近くにいるはずだ」

 

 少年が丘の上で手を振っている。その姿を見て少女は花のような笑顔を浮かべる。

 

「すごい、本当にいたわ! あなたたちは偉い神官様?」

「そうよ、君達が神殿に来るのを待っているからね。頑張って、お兄さんが怠けないように見張っていてね」

「任せといて、兄さんの夢は私が守るんだから! だから時には厳しく小言を言うつもりよ」

 

 悪戯をする子供のような表情をして、少女は少年に向かって走り出した。

 アナトとニーナは手を握り少女が少年に追いつくのを見守っている。

 やがて丘の上で息が切れた少女を少年が手を差し伸べて引き寄せた。

 突然いなくなった兄に対して文句を言っているのだろうか。

 しかしそれもすぐに笑顔に変わり、手を取って走り出すのだ。

 その時、ニーナはつないだ手が震えているのを感じた。

 

「アナト、いいのよ。大神官だろうが、護民官だろうが関係ない。思いっきり泣いて。でも泣き終わったら、サリーヌが守ろうとした世界のために立ち上がってね。私はずっと側で支えてあげるから……」

 

 膝が崩れ落ちたアナトをニーナは優しく抱きしめた。

 そして自分の想い人が再び立ち上がるまで静かに寄り添っていた。

 

 

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