第275話 神の存在証明⑤ 神様の居場所

〈シャヘル、死の国のクルケアンにて〉


 シャヘルはアナトとニーナの後ろ姿を見ながら、自室のあるクルケアンの西端の小さな小神殿に戻っていく。あの二人については心配あるまい。少々お節介を焼いたかもしれないが、それはまぁ、若い者にいい顔をしたい年長者の悪癖である。用が終われば消え去るのも役目なのだ。

 花が咲き乱れるこの神殿は、薬師であったときからのシャヘルのお気に入りの場所だった。権力闘争にまみれた大神殿よりも、草木や花に囲まれたこの小さな場所こそ自分の聖域なのだ。何より、年の離れた友人と出会った、大切な場所でもあった。想えばそのときから自分は神の存在証明をしようと決心したのだ。


 神を敬い、神を疑い、そして最後に神に縋った。

 シャヘルは自分が人であった最後の瞬間を、小神殿に続く小道を歩きながら思い出す。



「シャヘル、時間だ」


 施薬院の薬草園で軟禁されていたあの時、一人の老人が自分の死を告げに来た。


「……お前は誰だ」

「ヤムという、だが覚える必要はない、いや覚えていても記憶が混濁し、認識できなくなる。なにせこれからお主は他の魂と混ざり合わさることになるのだからな。自我がほしければせいぜい抵抗するがいい」

「ヤム? 貧民街に棲んでいたという長老ではないか」

「ほう、よく知っておるな」

「ダレトの報告によれば魔獣の襲撃を受けて死んだはず」

「先に言ったとおりだ。何も知らぬまま死ぬがいい」

「待て! もしや、ダレトが保護したという少女は、隣室で生死の境をさまよっている子ではないのか? それならばお主の養い子であるはず」


 ふてぶてしい老人に初めて動揺の色が浮かぶ。そうだ、間違いない。あの子はレビ、ダレトが後見人となった少女なのだ。


「……あの子にも魔人化を施す。生きるか死ぬかは運が決めることよ」


 違う。ヤムの震える言葉はクルケアンに災厄をもたらす者のそれではなく、孫を心配する親のものだ。魔人とするためではなく、それによってあの子が助かる道を選んだのであろう。


「あの子を助けたいか?」

「……儀式の際に儂の魂を分け与えた。少しは自我が残るだろう」

「それでも別人だ。だがな、安心するがいい。あの子の自我は残る」

「何だと?」

「儀式でそこの神の二つの杯イル=クシールを使うのだろう。その配合を変えておいた。肉体と精神の恒常性をもたらす、いや在るべき姿に固定するザハの実を多くしたものを仕込んでおいたが、どうやら無事に使われたらしい。儀式をしても魔人ではなく、お主の力を受け継いだ子が現れるだけだ」


 薬草棚の小さな壺を確認し、それがなくなっていることに満足する。しかし、その横の大きな壺、恐らくダレトのための神薬はまだ使われていない。儀式はこれからなのだろうか?


「奇妙な奴だ。殺そうとする者になぜ恩を売る」

「そうだ、貴様に恩を売るのだ、賢者ヤム。その代わりに一つの願いを聞いてほしい」

「普通は恩を売る前に対価を要求するものだ。儂が実行しないと考えないのか」

「子を救う親の気持ちに条件なぞつけるものか。それに私もあの子を救いたいと想ったからこそだ」

「……聞くだけは聞いてやろう」

「ダレト向けの調合をしたがザハの実が足りぬ。これでは魂が浸食されてしまう。魔人化に魂を必要とするのであれば、私の魂を使え」

「き、貴様、自分は死ぬとでも言うのか」

「あぁ、そうだ。この体など新しい魂にくれてやる。ダレトの魂に入り、私が他の魂を調伏して奴の自我を残そう。さぁ、ヤムよ。お主が子に抱いた気持ちも、私の気持ちも同じ。故に、頼む。ダレトを救ってやってくれ」

「……さすがに全ての魂を抜くとその体も保たん。さりとてわずかな魂では目的もかなうまい。魂の八割をダレトに移す。それで良いな」

「それでいい。ありがとう、ヤムよ」

「今から自分を殺す相手に礼を言うな。これだからヒトは理解できんのだ」

「そうか、私は賢者ヤムを理解したぞ」

「ほう、どう理解する? 数百年生きる儂の何を理解したというのだ」

「孫が救われたと知って涙を流す、ただの爺だ。ふん、そこらの人とどう違う? 一緒だ、一緒なのだよ」


 自分の頬に手を当て、涙を流していることに気づいたヤムが驚愕の表情を見せた。そして荒々しい足音が聞こえ、多くの神官に囲まれたとき、ヤムは冷たい目をしてこう宣告した。


「では、シャヘルの魔人化の儀式を行う。魔獣の魂をここへ」

「はっ!」


 視界が狭窄していき、ヤムの口元だけがわずかに見て取れる。そしてその口はこう動いたのだ。任せておけ、と……。


 そうして自分はダレトの魂を守り、魂の力の全てを置いて、この死者の国に来たのだった。

 ナンナとタフェレトが創造したこの世界では、四度滅びたというクルケアンの人々の記憶が残っていた。


 死者の記憶。

 時間の流れが不確かなこの世界で多くの人の記憶を見る。

 クルケアンのみでハドルメの記憶がないのは嘆かわしいが、それでもそこに神の存在の片鱗を見た。


 なぜ人は獣と違うのだろう。

 なぜ人は獣のように争うのだろう。

 主神が獣王を神にしたのは、そして魔獣を人に変えたのはなぜだろう。

 

 人の記憶は見ることができる。でも獣の記憶は見れないのだ。

 何だ、簡単なことではないか。獣に歴史は綴れない。


 獣の親に名前なく、子に名前なし。

 家族の情が幾ばくかはあるとはいえ、生存を優先する本能であった。

 そんな時、ナンナ様からかつて主神が魔獣に人の姿を与えたと聞いた。


 爪で我が子を傷つけないように、

 牙で親を傷つけないように、

 そしてその手で互いを抱きしめ、

 その口で想いを伝えられるように。


 ……そこまでが主神の奇跡だ。

 そして人に我が子に名をつけるという文化を教えたのだ。

 探し求めていた神の存在とその祝福は、超常の力ではない。魔力でもない。

 ただの文化であった。


 しかし、それを連綿と繋いできた歴史は奇跡といえるだろう。

 私達一人一人が神の愛を次の世代へと受け渡していくのだ。

 なれば民が笑う姿こそが、神の存在証明であろう。



「タフェレト様、なぜこの死者の国を創造されたのですか」

「イルモートの力によって世界が螺旋にねじれ、繰り返していくことに気づいたからです。そして五回目となる最後の世界において、その原因や対策をしようとしたのが始まりでした」

「死の蒐集、死者の想いを集め、歴史を知ろうとされたのですな」

「その通りです、賢者シャヘル」

「私を賢者などと、恐れ多い」

「あなたのおかげで、私もナンナも人とは何か理解できるようになりました。精神から魂を切り離し、人となった私達の魂は愛を知り幸せに生きています。やはりこれまでの私達だけでは人を知ることは不可能だった」


 そうだ、私は彼女らに勧めたのだ。人として生きてくだされ、と。愛が何かを考えるのではなく、愛されるために人となるのだと。

 タフェレトの隣にいるナンナの精神がため息をつきながら私に愚痴を言う。


「精神体ゆえ、元の魂の思考工程の分析はできても理解はできん。が、生まれ変わったサラと名乗るあの者は、人の基準でいってもいささか暴れすぎではないのか? ラメドとか言う男とクルケアンで遊び回ったり、喧嘩をしたり、酒を飲んだり。歳をとっても若い頃と変わらん。哀れなことよ」

「心が老いることを知らないのでしょう。それは素晴らしいことなのですよ」

「ナンナ様、それを言うのなら私の魂であるタファトを見て下さいまし。想い人であるイグアルが一向に愛を語らないのです。愛を知っても成就しないとは魂が可哀想で……」


 私は笑い声を上げた。

 歯車のようにしか考えない女神の精神が、愚痴を言っているのだ。魂は、いや愛の祝福は精神に影響を及ぼすらしい。そしてそれは、きっと肉体にもだ。

 人を知った今ならば彼女たちも分かるのではないだろうか。

 愛とは真逆のイルモートの力を、世界を四度滅ぼし、五度復活させたその力の由来を。


「お二方、世界を滅ぼすイルモートの力とは何でしょう」

「魔獣の破壊衝動、そして主神が与えた愛情だな。タフェレトは如何に?」

「はい、愛の感情が近しい人の死を悼み、恐れるようになったのでしょう。それがイルモートの力であり、今も増していく理由です」

「そして人とイルモートは人生のやり直しを求めるのだ。シャヘルよ、世界の崩壊を救う困難さがここにある」


 救うべき人が破壊とやり直しを求めているのだ。

 女神と私の諦めや絶望はサリーヌが優しく打ち砕いてくれた。

 死者の想いを蒐集するだけのクルケアンに、死者の魂が集まりだしたのだ。傷ついた魂は、サリーヌの夢が作った死の国で癒やされ、そしてまた人として生まれ変わる。世界をやり直すのではなく、次の人生を歩めるようになるのだろう。


 ありがとう、ダレト。あなたが兄であったから病室の少女は優しくなったのだ。

 ありがとう、バルアダン。あなたが夫であったから兄を失った少女は強くなったのだ。


 この喜びを誰に伝えればいいだろう、共有すればいいだろう。

 愚かなことだが、私も生前から成長していないのだ。

 人の欲とはかほどに浅ましい。

 つまるところ、人の愛とは与えるだけでなく、受け取るものでもあるのだ。

 ふむ、少し哲学的に過ぎるな。一言で言い表すと……。


「さみしがり屋、ということでは?」


 どうやら想いを口に出していたのだろう。

 ああ、そうだ。私達は孤独を恐れる、だから愛し愛されたいのだ。


「そうだな、その通りだ。エラム」


 久しぶりに会った少年は、顔つきがいくらか大人びてきたようだ。この子が将来、クルケアンを背負うと思うと嬉しくなる。おや、横に愛らしい少女が付き添っているな。エラムを守るように、そして支えるようにしっかりと腕を組んで。ふふっ、そうか、そうか。


「シャヘルさん、神様はいましたか?」


 よく聞いてくれた。我が友よ。

 語りたいことがたくさんあるぞ。

 それに君の話も聞きたい。

 さて、どちらを優先するか悩むところではあるな……。

 欲張りな私はそれらをまとめて話すことにしよう。


「あぁ、神はいるぞ。私はその存在を証明した」

「どこにいるのです?」

「目の前の若い恋人達の中にいる。さぁ、小神殿へお入り。そこでゆっくり話そうじゃないか」


 顔を赤らめる若者の背中を、いささか強く押しながら、私は神殿に駆けるように入っていった。



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