第270話 嫉妬
〈タダイと悪童達とモレク〉
タダイはシルリの像に権能杖を当てると、その力を引き出しクルケアンの上層物全てを破壊した。
そして瓦礫を空に浮かべ、今にもそれらを落とさんとモレクやギデオンらの恐怖心を煽る。
「アドニバル、今だ!」
ギデオンの声を受けて、翼の破れた巨竜が内壁の側面を疾駆する。
力強いその四肢と鋭い爪が壁に亀裂を生じさせ、クルケアンの下層は揺れていった。
飛竜は空を飛ぶものと思い込んでいたタダイは虚を突かれ、神獣を盾に防ごうとするが、勢いをつけた巨大な質量に抗し切ることはできず、内壁の西側に叩きつけられた。
「なぜだ、バァルの意識は既に精神の表層にはいないはず!」
「久しぶりだね、タダイ」
「……バァルではないな、誰だ?」
「つれないな、共に永劫を生きる者同士だろうに。どうだ、私はまだ生きることをあきらめていないぞ」
「貴様、アドニバルか!」
アドニバルは落下する寸前に人の体ほどもある爪でもって神獣の首を引き千切り、シルリの石像を高く放り投げる。タダイは半ばめりこんだ内壁を足掛かりにし、権能杖を祝福で鞭のように変えて石像を絡めとろうとするが、同時にシャマールも像に向けて手を伸ばしていた。果たしてシャマールは石像にまとわりついた鞭ごと抱えて落下する。
救いのない状況で、情死を選ぶというのか? タダイはヒトの感傷に呆れ、冷笑する。だが、自分を追い詰めたこともあるあのハドルメの英雄がこうも簡単に死を選ぶはずがないとも思うのだ。下方を見ればアドニバルが傷ついた翼を広げて追いつこうとしている。
「そういうことか。だが、どのみちクルケアンの瓦礫で潰されるのだ」
タダイは空に浮かべているクルケアンの瓦礫を下方の空洞に向けて叩きつけた。自身は身を守るため壁に押し付けられたのを幸いとクルケアンの内壁に身を潜める。
「これだけの重みに耐えられるものか、絶望にわめき嘆くがいい」
「いや、それではまだ足りん。ギデオン曰く、悪戯の成功の極意というのはな、相手が呆れて声も出ない状況に追い詰めてこそ至上らしい。まだまだ修行が足りんな」
タダイは気づけば指呼の距離にいたヒルキヤの存在に驚愕する。
「ヒルキヤ! なぜここにいる」
「アドニバルの背に隠れてな、さぁ、タダイ、瓦礫を落とすのを手伝ってやろう」
「な、何を言っている?」
にやりと笑うヒルキヤのその足元には火の着いた導火線が赤々とその存在を主張していた。そしてその先を見て、タダイは言葉を失った。ばかな、下に仲間がいるというのに、さらにクルケアンを崩して何になるというのか……。そして次の瞬間、タダイは爆発で自らが穴の中央に吹き飛ばされたのを感じたのである。頭上に黒く巨大な塊が落ちてくるのがやけにゆっくりと感じられ、目の前が暗くなった。いや、それは怒りと屈辱であったのかもしれない。瓦礫よりも先に、落下してきたラメドとガルディメルが突撃槍を突き出して彼の目の前にいたのだから。
巨大な爆発音と落下する瓦礫の音が交差する。竜のアドニバルが、心配そうな顔でギデオンを見つめる。西側にある車輪のギルドの隠し部屋、その武器庫からの爆発は、落下する瓦礫をわずかに東側に寄せていく。それでもこの場所が安全とは言えないのだ。
「アドニバル、心配するでない」
「!」
「あとは日頃の行いよ。大丈夫だ。このギデオン様の善行を神はちゃんと見ておられる」
「……」
竜は観念したかのように目を瞑る。
やがて轟音と共にクルケアンは全壊した。
「やれやれ、少しばかり善行が足りなかったか。いや、儂の功徳を知らない神の怠業というべきだな」
ギデオンが瓦礫の中から這い上がる。呆れたようにラメドが続き、地上に出るや不満を漏らす。
「あのな、私が石像の力を使って先に落とした瓦礫を防壁とせねば全員が死ぬところだったのだぞ? お前の作戦を読み取るのは骨も心も折れる」
「儂とヒルキヤの悪戯を懲らしめていたのはお前だ。まぁ、強固な信頼、というやつだな」
「……私を共犯者にしないでもらおう」
老人達が皮肉気な目をそれぞれに向け、力が抜けたようにへたり込んだ。ともあれ、彼らは生き残ったのだ。シャマールとガルディメル、竜も彼らに倣い、空を見上げて笑い始める。
そこに石を擦って歩くような音が響き、ギデオンは座ったまま顔を向ける。
「おぉ、無事じゃったか、アサグ、いやモレク神というべきかの」
「……なぜ私まで助けたのです。ヒトに情けをかけられるなど侮辱でしかない」
「侮辱ではない、同情だ」
「同じことだ、瀕死の身がそれほど哀れか」
「そうではない。お主、瓦礫を前にして呟いたであろう、兄上、と」
「!」
「家族を想って死ぬことに同情しただけよ。お主が敵であることに違いはない。次に会う時は必ず殺す」
モレクはわなわなと震える手を押さえるように権能杖を握りしめる。ギデオンの言葉は屈辱でもあるが、それ以上にヒトに自分の気持ちを推し量られたことの不安でもあった。
カラリ、と小さな小石が転がるような音が響き渡る。モレクは自分の後ろから聞こえたその音に反応しようとするが叶わず、鈍い痛みと共に真っ赤に染まった自らの両手を見つめた。歪む視界でその赤色を追っていくと、腹に大きな穴が開いていることに気づく。そして熱を帯びた、狂ったような声が痛みと同時に聞こえてきた。
「イルモートの力を込めた神殺しの
「タダイ、か……」
タダイは
「これで一柱。後はラシャプ、ダゴン、メルカルトを殺せば、愚かなヒトだけだ」
「兄を殺、さはせん……」
モレクが這いつくばりながらタダイに近づく様子を見て、タダイは蛇か人であるか判じ難いではないかと嘲笑う。
「おや、流石は蛇の王。他の獣王とは違い醜い姿をさらけ出すものだ」
「……醜いといったか」
「はぁ、そういったのですが、死にゆくその体では聞こえませんでしたか?」
「兄は、ラシャプはこの身を美しいと言ったのだ……」
「貴女を利用する為でしょうに! ラシャプは獣の時代から貴女を女としてよりも、戦いの道具としてしか扱っていなかったでしょう」
「ち、がう……」
「貴女も自分を醜いと思うがゆえに、主の祝福を受けた時も、ヒトを憑代とする時も男の姿を選んだ。なんとまぁ、哀れで滑稽なことだ」
自分が滑稽なのはその通りだ、モレクは薄れゆく意識でそう思う。しかし、ラシャプは獣を絞め殺すこの胴を、力を奪うこの毒牙を、獣の世界における美しい武器なのだと言ってくれたのだ。それだけは誰にも汚されるわけにはいかなかった。
「兄は、兄は!」
タダイは首に咬みつこうとしたモレクを長剣で薙ぎ払う。
モレクはタダイを止められないと知り、視界がゆがんでいくのを感じていた。
涙? 涙を自分は流しているというのか……。
モレクは剣先が自分の頭蓋に振り下ろされる光景を見ると同時に、ラシャプと共に戦った獣の時代を思い出す。
傷つきながらもバァルやメルカルト、ダゴンらに挑んだあの時こそ自分の黄金時代であったのだ。
死にゆく前に見る光景こそ夢というものだろう。最後に望む世界を見られるのであれば死も悪くない。しかし、モレクの夢はクルケアンに戻ってしまう。何か自分はここに未練でもあるのだろうか? アサグとしてラシャプに補佐する日々は、確かに充実はしていたものだが……。
「アサグ神官、今日の訓練をお願いします」
夢の中で幼い声に振り向けば生気の抜けきった目をした少女がいた。
「サリーヌ! なぜここにいるのです」
「何をおっしゃいます。アサグ機関の見習いとして、訓練をするようにおっしゃったのは貴方様でしょうに」
そうだ、ニーナという少女は兄の魔力を受けその健康を取り戻したのだ。
あまつさえ兄から名を与えられた。それは主が自分達に名を与えた時と同じ、祝福であったのだ。
そして自分は彼女を嫉妬し、厳しい訓練を施した。生かさぬよう、殺さぬように……。
「どうしたのです、この程度で人が殺せると思うのですか!」
棒で打ち据え、うずくまるサリーヌをさらに罵倒する。しかしこの少女は何度虐待を受けても立ち上がるのだ。虚ろな目で訓練用の剣を握りしめ、自分に対して一礼をする。
「アサグ神官、申し訳ありません。続きをお願いします」
「……何故だ、何故諦めることを知らぬのです。それでは死んでしまうのですよ」
憎みつつも心配をする自分に驚きつつも、モレクは問わざるを得ない。身寄りもなく、いずれ手を血で汚す機関で生きていくしかない少女は、なぜ絶望をしないのだろう。
「力が欲しいのです」
「力?」
「兄に会いたい、そのためには生きる力が欲しい」
「記憶を失ったというのに、兄だと?」
「……名も思い出せません。ですが、夢で逢うのです。陽だまりの病室で私に楽しい冗談を言って気遣う優しい兄を。そして魔障で半身が爛れ、包帯でそれを隠すような醜い私を綺麗だねといってくれるのです」
サリーヌは、いつか兄と出会うために生き抜く強さが欲しいのだとモレクに語った。
「兄という言葉を発する時だけ、強い目をするではないか」
「え?」
「何でもありません。さぁ、訓練を続けましょう」
「はい!」
なぜだ、なぜ私は兄ではなくサリーヌの夢を見ているのだ。
気付けば、いつの間にか成長したサリーヌを引き連れて自分は大廊下に立っている。
「サリーヌ、あれがバルアダンです。トゥグラト様に反逆する恐れがあり、セトと同じく監視をしなさい」
「はい、アサグ神官……」
「どうしたのです?」
「あのバルアダンの横にいる神官は誰でしょうか?」
「……ダレトといいます。別の機関に属するものですが、同じく危険な男です。機会があれば共に行動し、様子を探りなさい」
「はい」
そうだ、自分は彼女の兄を知っていた。
ナブーが彼女を攫ってきたときに家族が奪い返しに来ないように調べさせたのだ。
そして、ただ一人の家族であるダレトに死因は病死とし、死体は魔障が余人に影響を与えないように焼却したと伝えたのも自分だ。会わせる必要はなく、セトの監視だけさせればよかったのに、なぜダレトと行動を共にせよといったのだろう。
サリーヌの目が生気に輝きだしたのもこの頃からだった。ダレトに惹かれ、兄ではないかと慕い始めたサリーヌを、自分は舌打ちをしつつも放置していたのだ。しかし、その目も自分が再び曇らせてしまうだろう。魔人としてバルアダンとダレトを追い詰め、結局はダレトの存在を消してしまうのだから。
ダレトが自らの魔力を暴走させ、自分を巻き込んで死のうとする。
その時、レビという少女がダレトに駆け寄り、抱きしめ合った。
光が弾けるとともに背後でサリーヌの悲痛な声が聞こえる。
あぁ、兄を失い、再び孤独になることを恐れた叫びだ。
この時自分は何をしたのだろう?
そうだ、魔人の力ではなく蛇の王としての力を使い、ダレトとレビの体を鱗で覆ったのだ。
何故だ? 何故だろうか……。
再び時は流れ、サリーヌはバルアダンの部下として最前線で戦い続ける。
アナトと名を変え、記憶を失った兄を悲しそうな瞳で見つめるが、そこに弱さはなかった。
心の痛みに耐え、兄の幸せを願っていたのだ。
「そうか、私はそれを美しいと感じたのか」
長い回想の果てに、モレクは自分が草原に立っていることに気づいた。
見上げればそこには青い星が浮かび、黒い空が海のように天を覆っていた。
「こ、これはもしや死者の国か?」
ナンナやタフェレトが世界に溶けることで作り出した死者の国。
月の広寒宮の反対側にあるというその国は女神らの加護により、自分やラシャプは
なればこそ、クルケアンの大階段から天に上り、直接に月に侵攻するつもりであったのだ。
「情けないこと。死んだ今となってこの国に入れるとは」
草原に笛の音が鳴り響く。モレクはそれに誘われるように歩を進めていった。
音の先には彼女がいた。ただし、その彼女は初めて会った時の幼い少女の姿だった。
「サリーヌ、私を導いたのはあなただったのですね」
あの時のサリーヌとはいえ、瞳からは穏やかな、それでいて満ち足りた輝きを発している。辛さを忘れるのは、この死の国の優しさであろうか。
「アサグ神官、手合わせをお願いします!」
「……いや、手合わせはもういいのです」
少女は不思議そうな顔を自分に向ける。
「なら、一緒に笛を吹きませんか? 今度は私が教えて差し上げます」
モレクは苦笑してそれを謝絶する。すると少女は頬を膨らませて抗議した。
「ずるいです! いつも私の訓練に付き合ってくれているのに、何も恩を返せていません。私はアサグ神官に何かしてあげたいのに」
「何かをしてあげたい?」
「そうですよ。……せめて言葉だけでも。私を強くしてくれて、ありがとう」
「な、何を馬鹿な。私はヒトを、そしてお前達を……」
「でも、残念。アサグ神官にはまだ帰る場所があるみたい」
帰る? どこに帰るというのだ。
モレクは突然体が軽くなり、意識が青い星に向けて引き寄せられるように感じた。
「次に会ったその時に、一緒に笛を吹きましょう。美しいモレク神」
「何を言う、私の醜い体を美しいなどと!」
サリーヌが額を寄せる。そしてモレクはその瞳を通して自分の姿を認めたのだ。主が与えるはずであった、魂に相応しいその姿を。
はっとサリーヌを見つめなおすと、其処には少女の姿はなく、王妃としての彼女がいた。
あの時の薄汚れた少女は、今、モレクの前に気高く美しい姿で立っている。
そして自分を抱きしめた後、青い星が浮かぶ空に向けてそっと押し出したのだ。
「愛する家族を守りなさい、モレク神」
遠ざかる王妃を見て、モレクはラシャプの想いを理解した。
あぁ、自分達は確かにヒトに劣っていたのだ。なぜならこんなにも人を美しく、眩しいと思うのだから……。
「……レク、…モレク!」
自分の名を呼ぶ声に、モレクは導かれるようにして目を覚ます。
辺りを見回すとタダイの死体と、自分を覗き込む人の顔があった。自分の代わりにタダイを討ち果たしたのだろう。もっともタダイは人のいる限りどこにでも存在する。早く現世に帰り、ラシャプにタダイの裏切りを伝えなければならない。
「……シルリの力で私を現世に戻してほしい」
「敵であるお主をか?」
ラメドが剣の柄を握り、
モレクは頭を下げて重ねて願う。恐らく自分は火槍に込められたイルモートの呪いにより数日の命であり、最後は兄のラシャプの許で死にたいのだと。神が頭を下げる様子に戸惑った一同は、ラメドに視線を送り、判断をゆだねた。
ラメドの中のサラの魂が揺れ動く。数瞬の後、彼は頷き、生き残った全員での帰還を宣言した。
安心し、薄れゆく意識の中、モレクは思う。
サリーヌに抱いていた嫉妬は兄を奪われるからではない。
最初はそうだったかもしれないが、彼女の魂の強さに、そして美しさに嫉妬していたのだ。
何と醜い自分であろうか。このことを兄に話せば笑ってくれるだろうか、それとも怒ってくれるだろうか。
やがて崩れ落ちたクルケアンで光が生まれ、そして消えていった。
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