第248話 魔獣に至る病
〈地の底の回廊にて〉
シャマールは訝しんだ。暗い回廊を一歩、二歩、と数えながら全容を把握しようとしているのだが、地下階段の深さといい、湖の底にあるとは思えないのである。ここは湖の底ではなく、昔話に在るような死者の国ではないだろうか。そう考えると中央部の巨大な穴はその入り口にも見えてくる。
「あまりそこを覗き込まない方がよいぞ、ここは
「ヤム殿、世捨て人というものは何でも知っておられるのですね」
「興味のあることはな。だからこそここに来たのだ。お主達はヒトが魔獣を創り出すと思っているようだが、いかに祝福を持っていたとしてもヒト風情ではありえぬ。となれば神の御技とみてよいだろう」
「……魔獣化の知識を得ればどうなさるおつもりで?」
「探しているものがあってな、そのために知識を使う」
「?」
シャマールがなおも追求しようとするものの、それはシルリの悲鳴で遮られた。シルリが指さす方向を一同がみると、巨大な鉄門があり、その隙間から大量の人血が流れ出ているのだ。オシールとシャマールが無言で抜剣し、その先へ踏み込んだ。
そこには魔獣か人か判じがたいものが大量に呻き声をあげていた。おぞましい事にそれらはお互いに喰らい合い、自らの体を膨らませていくのだ。それは魂と魔力を喰らい合い、吸収し、変化する邪術であった。オシールは魔獣の工房、と呻くように呟いた。
「おや、シルリ、自ら来るとは手間が省けてありがたい。どうも私の魔力では相性が悪い。祝福者である貴女の血ならば実験がうまくいくかもしれません」
仮面を被った男が、血だらけの手をシルリに差し出し、いやらしく手招きをした。仮面多くから覗くその目は蛇のようであり、その声は感情というものをどこかに捨て去ったような響きをしていた。
「他の祝福たちをどこへ連れて行ったのです!」
「貴女の目の前にいるではありませんか。まぁ、多少は変化はしてしまいましたが。ヒトを超越したことを彼らも嬉しく思うことでしょう」
「ひどい……。あなたは誰、どうしてこんなむごいことをするの?」
「ヒトに要求されるとは心外ですが、まぁよいでしょう。私の名はモレクといいます」
「悪神の名ではありませんか、あのラシャプやダゴンと同じ……」
「我らを悪神というのですか。まったくヒトは愚かな生き物だ。我が兄、ラシャプこそこの地上を支配するにふさわしい神であるというのに」
オシールが弟やシルリを守るように一歩踏み出し、飛び込めばモレクの首を跳ね飛ばすことのできる位置をとる。
「ほう、地上を支配するとな。天上を追われ、地上で這いつくばって生きるしかない、の間違いであろう? 力を失い、人の血を啜ることで生き永らえている哀れな神よ」
オシールの挑発にモレクと名乗った男の動きが止まり、やがて怒りで静かに震えだした。その体が蛇のように震えたかと思うと、たちまちのうちに倍ほどの体躯へと変化した。
「おい、ヤム、これはどういうことだ。あいつは本当に神なのか?」
「……神の魂がヒトに憑りついているだけだ。本来の力は出せまい。偉大であった神がヒトの精神と肉体の器に頼らねばならんとは落ちぶれたものよ」
オシールは十二年前の魔神との戦いを思い出していた。あの時はバルアダン王とヤバルの活躍、そして戦士たちの多くの犠牲によって辛くも勝利を得たのである。自分達だけでは勝機はないと判断し、シャマールに目配せをする。
「モレクよ、貴様の狙いは何だ?」
「説明の必要はありません。ヒトはただ血を我らに捧げればよいのです」
「……そこの魔獣の成り損ないを見る限り、強い魔力と肉体を掛け合わせているようだな。さしずめ魔人をつくる実験ということか」
「ヒトは愚かなままでいいのです。賢いと命を落とすことになりましょう」
「シャマール!」
シャマールはモレクの注意がオシールに向かっている隙に散らばる人脂に火を着けていた。そして長剣を一閃させ、天井の梁を両断する。石材が崩れ落ち、死体に燃え広がった火がモレクと彼らを分断した。
「いったん引くぞ!」
オシールは退却を指示するものの、石も火も木材もすり抜けて迫りくるモレクの姿を見て愕然とする。それはすでに人というより巨蛇というべき姿であった。禍々しい舌が杭のように突き出されシルリの肩を穿つ。シャマールとオシールが舌を両断しようとするも滑り弾かれてしまう。シルリから流れ出る血をモレクは歓喜の表情で吸い上げていった。
「雷よ」
ヤムの声と共に激しい落雷がモレクと工房に迸り、モレクはシルリの拘束を解き、僅かに後退した。
「……儂の祝福でこの工房を封印する。お主らは外の脱出路を確保せよ。四半時後に地上で会おう」
「待て、お主だけ危険な目に合わせるのは……」
「お前たちがいては全力がだせん。モレクには敵うまいが時間を稼ぐことはできる。娘の出血もある。お互い最善、最速を行くとしよう」
「……すまぬ。感謝する」
オシールらが去る気配を待って、ヤムはモレクに語りかける。
「モレクよ、お主らの目的は魔獣同士を喰らい合わせ、魔人を作り、自身の器と軍勢を作り上げる事だな」
「いずこの賢者か知りませんが、よくも思い当たること」
「そして人血を通じて魔力を回復し、いずれ完全復活をする……。広寒宮に追われ、肉体と精神を破壊されたお主達にとってはそれ以外に方法はあるまい」
「……もしや、同じく天界を追われた者ですか。それならばこちらにつくといいでしょう。我らの復活は近い。バァルらを殺し、地上だけでなく天も支配するのです。興味はないですか」
「よかろう。儂はヤムという。もはや天にも地にも興味はない。あるのはイルモートの力を使って世界を創り直すことだけだ」
「兄のラシャプと同じようなことをいう。もっとも兄は世界を壊すために力を欲するのですが」
「儂の研究を手伝えば完璧な魔獣と魔人を生産してやろう。ただしイルモートの力をどう利用するかは早い者勝ちだ。それまでは手を組もうではないか」
ヤムは異形の魔獣に手を当て、その月の祝福で巨大な魔獣を生成した。そして次の瞬間には魔獣同士を組合せ魔人すらも作り上げていく。しかし魔人は苦悶の声を上げて肉塊へと変わっていった。
「ふむ、お主らの魔獣化はやり方が雑だが検体は多いのが素晴らしい。こちらの研究もまだまだだが、より完璧なものを提供できると思うが?」
「……よろしい。近いうちにクルケアンとハドルメの全ての魔獣化を実行します。それまではクルケアン内の工房で研究してもらいましょう」
「この工房ではないのか?」
「ここがクルケアンの地下工房です。天と地の境目を利用し、二つの異なる場所を繋げているのですよ」
「なるほど、魔力をこの上で集め、それを設備の整ったクルケアンの工房に運び入れているのか」
「そう、魔力は多く集まったのですが血が足りない。それも強い魂を持った者の血です。ヤムよ、協力するというのなら手土産をもってきなさい。ひと月後に強い戦士を集め、この場所に来るのです」
「よかろう、あいつらがいう王とやらを呼びつけてやろう」
ヤムは工房を出ると魔力で封印をした後、やつれた顔をして地上に戻った。そこにはオシールらが心配して待機しており、兄弟は手を差し伸べ、ヤムを月光の下に引き上げたのである。
「封印はできたのか、ヤム?」
「あぁ、だがあのモレク神の巨大な力だ、ひと月もてばいい方だろう。流石に儂の手に負えん。お主らの王とその軍で討伐するといい」
「貴方は手伝ってはくれないので?」
「あの工房には興味があるが、お主らが討伐してから調べさせてもらう。国や人に義理はない。……ただ祝福者として儂の力を伝えるにやぶかさではないぞ。シルリ、お主は儂の弟子となり、力を磨くのだ。儂以外の者が封印できる必要もあろう」
「はい、シャマール達を助けるためにもこちらこそお願い申し上げます」
オシールは目の前の老人を観察する。神を封じ、怪我もなく帰還する男、それだけでも怪しいのに王の名を出して討伐を勧めてくる。反体制派の貴族であれば王の殺害を真っ先に狙うであろう。これは罠かもしれない。シルリを通じてヤムの動向を探らせた方がいいだろう。しかし弟の婚約者を危険な目にあわすのも気が引ける。
「シャマール、シルリと共にクルケアンに向かい、アサグ神殿長に報告せよ。そしてしばらくクルケアンで情報を集めるのだ」
「神殿長はトゥグラト殿のはずでは?」
「彼はエリシェ殿と家庭を持つので引退して市井にあるとのことだ。クルケアンに行けば新しい神殿長としてアサグ殿が就任しているはず。俺の代わりに祝いの言葉を伝えてくれ」
「トゥグラト殿に面と向かってお祝いを言うのは悔しいのですか、兄さん」
「ひねくれた奴だな。お前にしばらくシルリ殿と甘い時間を過ごさせようという兄心だ。甥の顔を早く見たいのでな。ひと月は護衛しながらクルケアンにおれ」
オシールは弟をからかった後、竜の鳴き声を聞いて空を見上げた。ロトとアバカスが竜に乗って迎えに来たのだ。その後には自分達の騎竜も飛んでいる。どうやら観測は終わったらしいと安堵の息をついてロトに手を振った。しかし振られた方は必死に叫んでいるようだ。
「オシール、魔獣に囲まれているぞ、数は三十!」
やれやれ、一難去ってまた一難か。だが空に在って竜と共に戦う以上、ハドルメ騎士団に敗北はないのだ。舞い降りた自分の竜の鞍に飛び乗ってオシールは叫ぶ。
「シャマール、ロト、アバカス、一人五匹は倒せ!」
「俺は十匹はいける」
「ロト、無謀と勇気は同じではないですよ」
「い、いや、僕を数に入れないでください。ハノン、できるだけ魔獣を避けて飛ぶんだよ」
騎士と観測員が魔獣と戦っているころ、モレクは人の体に戻り、仮面を外して工房の奥の階段を登っていた。それはオシールらが入ってきた反対側の階段であり、鉄門を開けるとクルケアンの大神殿へと通じていたのであった。モレクは一際豪奢な部屋に入ると椅子に深く腰掛ける。モレクの目の前には一人の神官が控えており、主君の機嫌を取るように話しかけた。
「モレク様、此度の祝福者の血はいかがでしたでしょうか。ラシャプ様、ダゴン様のお気に召せばよいのですが」
「タダイよ、貴方のおかげで我が兄の復活はすぐそこまできています。バルアダンに打ち倒されたダゴンも同じでしょう。それに面白い協力者を得ることができました」
「協力者ですと?」
「ヤム。同じ神人の貴方なら知っているのではないですか?」
「ヤム……。ナンナ神の従者ヤムでしょうか。たしかナンナ神が世界に溶けたことに絶望し、地に降りたと聞いたことがあります」
「世界を創りなおす、ということです。愉快ではありませんか。我らを封じたナンナの眷属が、この世界を否定するのですから」
タダイの目の前でモレクが呻き声をあげ、意識を取り戻したかのように立ち上がる。
「ここは……」
「ここは神殿の謁見の間です。アサグ神殿長。そのままお眠りになられるとはお疲れだったのでしょう。私室に戻られないと衛兵が騒ぐのでお探しに参ったところです」
「そうか、すまない。このところ疲れやすくなっているのかもな」
「神官一同、神殿長が多忙なのは承知しております。できるだけご自愛ください」
タダイはアサグに深々と一礼する。十二年前にアサグの体内に侵入したモレクは順調にその魂を侵食し始めていた。この国はすでに頂上から崩れているのだ。悪神とヒト、どちらが勝つか分からないが、せいぜい足掻いて世界を壊すことだ。タダイはよろめくアサグに肩を貸しながら、ゆっくりと謁見室を後にした。
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