第247話 老人と魔獣
〈オシールとシャマール、湖に浮かぶ祭壇にて〉
「シャマールよ、どうやらあたりだ」
湖面の島にある廃墟された祭壇の中で、オシールは錆びた鉄門を探し当て、宝を見つけた子供のように笑顔を弟に向ける。シャマールは苦笑しながら頷いた。兄は恐らく中にいる敵と戦えるのが嬉しいのだろうが、ハドルメ騎士団の頂点に立つ男として今少し威厳を持ってほしいと思ったのである。しかしこのような状況では、騎士としてより戦士としての一面が強い兄を頼もしくも思う。
「地下への階段だと、湖の中で水漏れがないのはおかしい」
「兄さん、どうやら祝福の力が込められているようです。石にもそのつなぎ目にも魔力の膜を感じます」
「魔獣の生息地に、祝福者の隠れ家か。なぁシャマール、誰が中にいると思う」
「クルケアン貴族の反体制派の中では祝福者はおらず、そうなると神殿関係者としか」
「そうだな、強い祝福持ちの中ではサリーヌ王妃は論外だ。お主の恋人のシルリも外しておこう。……となればトゥグラト殿、アサグ神官、タダイ神官しかおらぬ」
「エリシェ殿をお忘れでは?」
「あの方が黒幕なら諸手を挙げて降参するさ。昔から勝てたためしはないからな。何よりあの性格だ、できるはずもない」
「兄さんも存外気が多い。王妃様然り、エリシェ殿しかり……。初恋の君達にはお優しい事で」
「ふん、それはお互い様というものだ」
シャマールは幼き日を思い出す。兄がエリシェに勝ったためしはない、そもそも勝負ではなく、素直になれない弟が姉に構って欲しいと甘えるようなものだった。幼い兄が悪戯をエリシェに仕掛ければ、彼女はそれを先回りして待ち受けて、拳骨を喰らわせるのが日常であったからだ。悪戯でわたしに勝てるとは思わないように、と胸を張ってそう宣言するエリシェは生命力にあふれて美しかった。なぜか自分まで監督不行き届きで連座されることが多かったのだが。それでもその後に供される菓子と茶を楽しみにしていたものだ。楽しいおしゃべりにはサリーヌ王妃も加わり、王もトゥグラトも顔を出して……。
そう、自分たちの初恋は黄金で縁取られた絵画なのだ。大人になり、不穏な空気が漂い始めた現状を憂うほどにその絵を見たいと欲し、あの時に帰りたくなる。
「――兄さん、人の気配がします」
二人は螺旋階段を見下ろした先に小さな灯を確認すると、角灯を消し、息をひそめて階段を降りていった。細い通路の奥には広間があり、光はそこから漏れている。靴底が床に張り付く不愉快な感触に、オシールは目を凝らして暗い足元を確認した。眉をひそめたのは床に肉片と油と脂と血が点在することに気づいたからであった。
「剣を抜いておけ、まず俺が広間に突入し相手を牽制する。お主は状況を見て最善の行動をとれ」
「分かりました。兄さん、お気を付けください」
オシールは柱の陰で広間の音を聞き、場所と人数を確認した。近い場所に一人、これは女性だ。泣いているのだろうか? 鎖の鈍い音が響くことから尋常な様子ではあるまい。そして甲冑が軋む音と衣擦れの音……。これは長衣の上に胸甲をつける神官のものだろうか。
「動くな、魔獣を用いて世を騒がす不逞の輩、王の名の下に成敗してくれる!」
オシールはわざと魔獣と王という表現を使い相手の出方を探った。相手の反応次第でどこの勢力の者か判じるためであったが、それは無駄に終わった。背後から状況を冷静に観察しているはずのシャマールが大声で女性の名を叫んだからであった。
「シルリ!」
「シャマール!」
シャマールは恋人の名を叫びながら駆け寄り、その手を縛している鎖を長剣で断ち切った。なぜここにいるのか、そう問いただそうとした時、シルリは緊張の糸が切れ気を失ったのである。
オシールは奥に佇む老人を凝視する。権能杖を持つその姿は神官らしくあるが、ハドルメ、クルケアンの神官服の意匠ではない。その大きな体は剣を握らせても脅威となるだろう。オシールは目の前の男の顔を確認し、とりあえず知人ではないと知って安堵の息を吐いた。恐らくは邪教の徒であろう。
「お主が黒幕か、素直に降参すれば命だけは助けてやろう」
「残念ながら関係者といったところだ。さぁ、そこの娘を渡してもらおう。只の兵士には推し量れぬ事情があるのだ」
「断る。弟の婚約者をみすみす引き渡す兄がいるか」
「……そうか、お主達は兄弟か」
「それがどうした」
「ならば二人して守りたいものを守ればいい。だが実力がなければそれも叶わぬぞ?」
「何をいっている?」
「どれ儂がお主らの力を試してやろう」
オシールは不愉快に思う。こちらが攻めてきたはずだ、しかし会話の主導権は相手が握っている。この老人に巨木のような重圧を感じるのだ。オシールは気圧されるままに剣を振り上げ、相手の頭に向けて一撃を放った。
「ほう、ヒトの身でなかなかの膂力よ。だが鉄を切断するにはまだ技量不足だ」
オシールの渾身の一撃は、しかし男が振り上げた権能杖によって受け止められていた。オシールは手首に鈍い痛みを感じ、弟に警告を発する。
「シャマール、この男の権能杖は全て鉄だ、無闇に打ち合うな!」
「ならば撃ち合わずに仕留めましょう」
シャマールは老人に向けて迷いなく踏み込んだ。鉄杖を片手で自在に振り回す男、兄の一撃を受け止める男など見たことはない。打ち合いよりも一撃にかけ、男の心臓を剣先で抉ろうと突きを入れる。しかしシャマールのその一撃も兄と同じく防がれたのであった。男が杖を変化させ、盾としたのだ。
「月の祝福者、やはりお主が魔獣を創り出していたのか!」
オシールは大剣を上段に構え、体重の全てを乗せて剣を振り下ろした。シャマールは背後に回って下段から振り上げる。ハドルメ騎士団の精鋭の二人による、その連撃を躱すことのできる者は王以外に存在しないはずであった。
「二人ならば武では儂よりも上を行くか。ならば魔力ではどうだ?」
二つの剣先が男の体を両断する寸前、権能杖から小さな雷が発せられ二人を弾き飛ばした。シャマールはよろめきながらも恋人の為に前に出て、剣を構えた。そしてうずくまる兄に、シルリを連れて逃げてくれと小声で懇願する。
「ふざけるな、俺はな、甥っ子ができた時に菓子を振舞うことだけを夢見てきたんだ。邪魔をするものではないぞ」
「……兄さん、以前は甥っ子に剣を教えるのが夢といっていませんでしたか?」
「ん、そうだったか、まぁ、似たようなものだ」
冗談が下手な兄の気遣いを嬉しく思い、シャマールは気力が充実していくのを感じた。兄と視線を合わし頷き合うと、同時に踏み込んで左右から強烈な斬撃を叩きつけていく。数合の後、男は防ぎきれないと悟るや、再び雷を放出した。
老人は兄弟の姿を満足げに観察している。兄が雷を受け、弟が弾き飛ばされないように兄の背を支えているのだ。苦痛と共にオシールがにやりと笑う。魔力を放ったわずかな隙をつき、シャマールの長剣が男の頭蓋を打ち砕くべく振り下ろされた。
「待って、オシール、シャマール!」
「シルリ?」
「その人は私を助けてくれたのです。私を、いえ、私達を攫ったのは貴族たちでその方ではないの」
シャマールが意識を取り戻したシルリに駆け寄り、宥めながら事情を聴いていく。神官やクルケアンの市民の祝福者たちが神事と称して集められ、ここまで連れられたこと、そして生贄として多くの人が殺されていったこと、自分の番かと覚悟した時にこの老人が助けてくれたことを伝えたのだった。
「シルリの事情は分かりました。ではなぜ貴方は誤解を解かず、我々と戦ったのでしょうか」
「何、儂にも弟や守りたいものがあった。それでお主達の力を見極めてやろうと思ったのだ」
「ふん、偉く上から目線ではないか。そういうお主は守りきれたのか?」
老人は目を伏せて頭を振った。
「長く生きるとな、全て手から零れ落ちるだけだ。生きる望みを持たない老人を問い詰めるものではない」
「……失礼した。我ら兄弟への忠告として受け取ろう」
「それで、あなたは何故ここにいるのです?」
「儂は大森林の端に住む世捨て人よ。ただ祝福は持ち合わせておる故、世界の真実を探求することが生きがいとなっておる。ここにいるのは湖で禍々しい魔力が満ちていたため様子を見にきたのだ」
「世界の真実?」
シャマールは男の言葉を脳内で反芻して考えていた。大森林の端には古代の遺跡や廃墟しかなく人が住める場所にはない。兄と自分をあしらった武力といい、魔力といい、常人であるはずがない。これほどの人物であれば数十年前に名を挙げていてもおかしくないのだ。
「何、祝福は神が人と大地に残したものだ。ならば逆にたどれば神に出会えるのではないかと思ってな」
「神の御姿を仰ぐのではなく出会うとは、それは不敬ではありませんか」
「ヒトには不敬であろうよ。しかし祝福者にとってすればそうではないのだ。自身の力の根源を辿るのに不敬もあるまい」
「……あなたのお名前を聞いていませんでした」
「ヤム。昔の仲間は儂の事を
そういって男は皮肉気に笑うと、広間の先を示した。
「首謀者は逃げたらしいが、向こうにはまだ生き残りの祝福者がいるはずだ。それに魔獣もな。世界の狂気に足を踏み入れる覚悟があるならば同行してもらいたい」
「もちろんだ。俺達はそのためにここに来た」
「ヤム、あなたにはまだ聞きたいことがあるのですが、生存者を助けてからにしましょう」
広間を出るとそこは回廊になっていた。回廊の中央には巨大な穴が存在し、全てを飲み込むかのような深淵をのぞかせている。ヤムは回廊を走るオシール、シャマール、シルリの後ろ姿を見てほくそ笑み、自らはゆっくりと暗い回廊を歩いていくのであった。
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