第216話 子に託すもの⑥ 私の名を呼んで
〈ティムガの草原にて〉
ダゴンが飛び去った後、バルアダンはその後を追おうとしたが、乗騎たるタニンの姿を求めることはできなかった。そのかわりタニンがいたはずの場所にはバルアダンに似た青年が立っていた。
「バルアダン、ダゴンら悪神共の乱行は私の不始末だ。心から詫びよう。そして再び封印するために手を貸してほしい」
「バァル……!」
それはイルモートの赤光によって力を一時的に取り戻したバァルであった。バァルは倒れているアナトから槍を拾い上げると、その切っ先をヤバルに向けた。武の祝福が槍を覆い、神をも打ち倒す神器と化す。
「さて、メルカルト、先にお主から封印させてもらおうか」
「バァルよ、私も貴様と戦いたいのだがな、果たすべき約定があるのだ。しばらく休戦といこうではないか」
「約定だと?」
「うむ、この男に力を貸すと魂にかけて誓った。その目的を達するまでは寄り道はできん。貴様との再戦が我が生涯の望みであってもだ」
「相変わらず義理堅い奴よ。貴様だけは他の悪神と違い、ただ私を超えることだけを望んで広寒宮に攻め入ったのであったな」
メルカルトは不機嫌そうに首を振り、その意識をヤバルの精神の内に再び潜めたのである。精神と肉体の支配権を奪われたと思い込んでいたヤバルは、戸惑うように声に出してメルカルトに呼びかける。
「メルカルト、お前は私を侮辱するのか、それとも憐れんだのか。私はバルアダンに敗北したのだ、生き永らえる資格なぞない!」
メルカルトはお主の目的を達する時まで力を貸し続けるのだと、ヤバルの心中でささやく。ヤバルが力を貸せ、と叫んだ瞬間、メルカルトは恐怖に黒く染め上げたヤバルの魂の中で、色彩に溢れたある光景を見たのである。それこそがヤバルが望んだ力を欲する理由であり、約定で達成するべき目的であった。
そしてメルカルトはヤバルの肉体を通して眼前のバァルとバルアダンを見る。この二人を超えるためには強い肉体が必要であった。惜しむことではあるが、このヤバルの肉体では届かないのだ。ヤバルを凌ぐ肉体を手に入れるまではメルカルトは今の器を生かす必要がある‥‥。魂に生じた僅かな軋みに違和感に首を傾げながら、メルカルトは自分の決断をそう理由づけていた。
「ヤバルよ、ハドルメ騎士団よ、立て! 私は貴方たちの誇りを、生き様を尊敬する。後代にその在り方を示すために私は貴方達の王になろう」
バルアダンは敗北にうな垂れる騎士団を叱咤し、立ち上がらせた。
「この御方は天の支配者であるバァル神だ。今から私たちはバァル神と共に、悪神であるダゴンを討つ! ハドルメ騎士団、その魂の強さを神の討伐で示して見せよ、そしてその名を国に、世界に知らしめるのだ!」
雷鳴に撃たれたかのように騎士たちは姿勢を正す。そしてヤバルに向けて彼の下知を待った。強者に従うのは仕方ないとしても、彼らに直接に命令を下すことができるのは只一人であるのだ。
「……我が騎士団よ、バルアダンに敗北したのは私の未熟であった。死を選ぶ方が楽ではあるが、民のために生き恥をかこう。いや、違うな。民のためにこの命を捧げようぞ。ハドルメ騎士団、転進! 南方の草原に向かった悪神ダゴンを討つ!」
敗者であるはずの騎士たちはその命の使い所を見つけ、士気も高く声を上げた。ヤバルに続き馬首を翻し駆け去っていく。
バルアダンは神官でもあるシャプシュにアナトの治療を任せ、残った軍馬をバアルと自分の乗馬とし、ハガル将軍と共に戦地に向かう。ふと南方を見ると、空は二つの赤い光に包まれていた。一方は落陽の光であり、もう一方はイルモートの力であろう。戦場にもうすぐ着くという時、彼の許へエリシェからの急使が駆け込んできてきたのである。それは高台の城に送り込んだオシールだった。
「陛下、大変です、大変です!」
「どうしたのだ、オシール。高台の城が落とされたとでもいうのか」
「もう城なんてないよ! 巨大な盆地が出来上がって魔獣に取り囲まれているんだ。皆必死に防戦している。ううん、それよりも大事なことなんだ。ヤバル様にお伝えしたかったのだけど、風のように魔獣の群れに飛び込んでいってしまった……」
それが自分の失態というように、オシールは泣き始める。
「イスカ様が、イスカ様の陣痛が始まったんだ。お腹からすごい魔力があふれ出てきてこのままでは母子ともに危険なんだ、早くヤバル様に伝えないと!」
バルアダンはオシールの頭を優しく撫でて落ち着かせる。彼にとっては魔獣よりも身近な人が苦しんでいる方が怖く、辛いのだ。優しくて強いこの子こそ、ハドルメ騎士団の誇りを受け継ぐべき人材であろう。バルアダンはオシールの手を引き、自分の鞍に乗せた。
「オシール、共に来い。怖くはないな?」
「勿論!」
使命を果たせると知って元気を取り戻したオシールの元気な返事に破願すると、バルアダンは馬の腹を蹴ってヤバルを追いかけた。そしてサリーヌとニーナの力であろう、雷鳴が鳴り響き、土槍が林立する戦場で遂にダゴンの姿を見かけたのである。それはまさにヤバルたちハドルメ騎士団がダゴンに向けて突進した時であった。
「サリーヌ、ニーナ!」
バルアダンは上空にいる二人を呼び、サリーヌにはオシールをハミルカルに乗せ後方からの支援とアスタルトの軍の指揮を、ニーナにはアナトと共にトゥグラト達と合流するように命じた。特に尋常ならざるイスカの出産についてその助けをしてくれるようニーナに頭を下げる。
「バル様、貧民街では魔障を伴う出産に立ち会うことがままありました。赤子が月が満ちるのを待たずして、魔力を用いて母の腹を割いて生まれてくるのです。兄と私で月の祝福を用いれば恐らくは大丈夫とは思いますが、子供がそのまま成長するかは……」
「それでもだ。私はイスカに、そしてヤバルに子の姿を見て欲しい。……ニーナ、頼んだぞ」
「はい、お任せください」
サリーヌが指揮に戻ったことでアスタルトの兵の戦列が組織化され、そして後方からアサグたちの神官兵の弩が魔獣に降り注ぐ。魔獣は人間を包囲しているものの、次第にその数を減らしていった。
ニーナは神獣でアナトとシャプシュを探し出し、傷ついてはいるものの命の別状がない兄の様態に安堵した後、戦場の只中の、急ごしらえの天幕に向けて降り立った。
「エリシェ、イスカさんの様態は!」
「あぁ、ニーナ、わたしの祝福では赤子の魔力を抑えきれない。このままでは二人とも死んでしまうわ!」
天幕の中は青い光に包まれていた。恐らくエリシェがその祝福で浄めているのだろう。ニーナはエルシャが大階段で発していた同じ光を思い出す。やはりエルシャとこのエリシェは繋がっている。もしこの世に生まれ変わりがあるのだとすれば、間違いなく彼女は友人のエルシャなのだ。あの時、焼け出された貧民街から救われ、呆然としていた自分に手を差し伸べてくれたエルシャに、時代を超えても自分は借りを返さねばならない。だからこそ、自分は彼女をエルと呼ぼう。四百年を超えてもなおめぐり合う大切な友人に親愛の情を込めて。
「エル、私たち兄妹なら対処できるわ。赤子を取り上げたこともあるしね。あぁ、シャプシュ様は兄さんをそこの椅子に座らせて治療を継続して、兄さんはそこから赤子の魔力を抑えるの。私は魔障で傷ついたイスカさんの体を回復させる」
「ニーナ、わたしはどうすればいいの?」
「エルは水の祝福で部屋を浄めておいて。それに産湯の準備もお願い。あとは赤子が顔を出したら取り上げて!」
「わ、わたしが? そんなことしたことない……」
「できるわ! この中にいる誰よりもあなたが一番度胸があるの、私は知っているんだから!」
「ニーナ……」
エリシェは逡巡の後、ニーナの射貫くような、それでいて信頼を寄せている視線を受けて頷いた。何故だろう。ニーナがわたしを知っているといってくれたように、わたしはニーナを知っているように思うのだ。快活で、寂しがり屋で、二人で夜空を見上げていたような……。
「兄さん、短剣を寄越してください。赤子がイスカさんのお腹を魔力で無理やりに割く前に、こちらから出口を作ります」
「ニ、ニーナ、もしかしてイスカの腹を斬るのか? それではイスカの体力が持たない!」
「子を産めない男は女の強さを信じていなさい! イスカさん、聞こえていますか? 私が全力で貴女の命を守ります。覚悟はいいですね」
「勿論です。あぁ、でもニーナさん、私よりも赤子の命を守ってくださいませ」
母になろうとしている女性は、苦痛の中、笑顔さえ浮かべて答えた。
「ええ、しかし赤子と共に生きようと思ってください。それこそが赤子の無事につながるのです。いいですか、決して諦めてはだめですよ」
ニーナは頷くイスカに笑顔を返した後、エリシェによって浄められた短剣で腹を慎重に割いていく。ニーナはアナトの助言を受けながら吹き出す血を月の祝福で押しとどめ、必死に赤子のいる場所を求めて刃を当てる。祝福の力を持ってしても恐らくイスカは二度と子に恵まれなくなるだろう。自分のしていることは正しいのだろうか。表情には出さずニーナは心中で悩んだ。親に捨てられ、憎んだこともあった自分が、母親になろうとしている女を助けようとしている。
あぁ、私はこの子に自分のような思いはしてほしくないのだ。
母に抱かれてその胸でまどろんでほしいのだ
そして母親に愛情を込めて自分の名を呼んでほしいのだ。
自分と赤子を重ね合わせ、ニーナはイスカに問いかける。
「イスカさん、赤子の名を呼ぶのです。貴女の家族を、愛しい子の名前を……!」
「あぁ、ロト、私の愛しいロト!」
母がこの名前を連呼する中、刃は子宮筋を切開した。そしてアナトにより魔力を抑えられた赤子の顔が遂に見えたのである。
「イスカさん、ロトの顔が見えました! もうすぐです、さぁ、名前を呼び続けて……」
「ロト、ロト、ロト!」
「エル、赤子を取り上げて!」
エリシェが震える手で赤子を取り上げた。水の祝福を
「イスカ、まだです、まだ意識をもって! エルはイスカの子宮を祝福で浄めて!」
ニーナは胎盤を除去し、月の祝福でイスカの傷口を塞いでいく。そして腹に手を当て血のめぐりが元通りであるか必死に胎内に魔力を走らせた。そして手に冷たい感覚を覚え、イスカの腹部に水滴が溜まっているのに気付いたのだ。何か施術で失敗したのだろうか、背筋が凍り付く感覚を覚えながらその理由を探る。
「ニーナ、あなたの顔……」
目の前には赤子を抱いたエリシェが自分の顔を指し示していた。指で自分の顔をなぞり、水滴が自分の涙と気づいたニーナは安堵し、また体力と気力の限界から後ろに倒れこんだ。アナトが優しくそれを受け止める。
「よくやったな、ニーナ。ほら、イスカとロトを見るがいい」
誇らし気な兄の声を受けてニーナは母と子の姿を見た。エリシェによって浄められ、泣き声を上げていた赤子が、母の胸に抱かれてその母乳を探し求めている。イスカが優しく赤子の口に乳頭を当てると、赤子は安心したように泣く声を止めて吸い付いた。母の、子を慈しむ姿を見てニーナは嬉し涙を流す。自分の母も、私が生まれた時はこのように愛してくれていたのだろうかと。
「幸せになってね、ロト」
シャプシュが生まれた赤子にハドルメの祝福を施し、またエリシェやニーナ、アナトに深々と礼をする。しかし、初産で早産であるため母乳の出が少なく、早急にギルアドの城周辺の村落で乳母を求めなければならないとのことであった。イスカの体力が戻り次第、ニーナの神獣で撤退することを決め一同は暫しの休息をとった。
こうしてヤバルとイスカの子、ロトは戦場の只中に在って母の愛と、周りの祝福を受けて産声を上げた。そして自我さえない体にも関わらずその目に、その魂に父の背中を焼き付けることになるのである。
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