第217話 子に託すもの⑦ 父の背中

〈ダゴンとヤバル、ティムガの草原にて〉


「我らが世界に魔神は要らじ、ただ滅することあるのみ。ハドルメ騎士団、突撃せよ!」


 ヤバルの指示の下、黒槍を掲げた騎士団がティムガの草原を駆け、ダゴンに向けて吶喊とっかんする。ダゴンはメルカルトが憑代とするヤバルが近づくのを見て、加勢に来たものと思って鷹揚に構えていたが、足に激痛を感じ、そこに槍が刺さっているのを見て、怒りの形相でヤバルを睨みつけた。


「メルカルト、貴様、我らを裏切るのか!」

「残念ながらメルカルトは手を出さぬそうだ。ダゴンよ、お主に矛を向けているのはメルカルトではない、ハドルメの将軍ヤバルだ!」


 騎士団は人馬共に一陣の風となって、ただその質量と速度を槍の穂先に預けていた。ダゴンの巨腕がうねるように振りまわされ、その大剣は先頭の騎士らを屠っていくが、後続の騎士らは臆することもなく槍を突き刺し、ヤバルの矛はその肉を抉っていくのだ。


「凄い……」


 オシールは、サリーヌと共にハミルカルの鞍上から騎士たちの戦いを眺め嘆息する。


「サリーヌ様、なぜ騎士たちはあんなにも勇ましく戦えるんだろう。あんな化け物に挑めば死んでしまうのはわかりきったことなのに。俺、怖くてたまらないや」

「オシールは正直ね。でもここを落とされればギルアドの城も陥落してしまう。彼らにとって家族を失う方が怖いのよ」


 サリーヌは優しくオシールの頭を撫で、上空からヤバル達を見下ろした。数度の突撃でその数を五騎まで減らした騎士団が、いったん引いて戦列を立て直している。そして入れ替わるようにバルアダンとバァルがダゴンに向けて斬りこんでいくところであった。


「さぁ、オシール、貴方の役目を果たしなさい。きっと貴方の言葉はヤバルの力となるわ」


 少年は大きく息を吸い込み、竜の背に立って大声で叫ぶ。


「ヤバル様、イスカ様が産気づきました! 苦しそうだけどきっとエリシェ様たちが何とかしてくれます。だから勝って、勝って赤ちゃんを抱いてあげて!」


 ともすれば戦場に在って場違いな報告に、騎士たちは相好を崩す。


「やれやれ、ヤバル様に似てそそっかしい。早く戦場に出たいともう生まれてきなさった」

「そうそう、しかし頼もしい若様だ、ぜひ、ハドルメ騎士団を率いてもらわねば」

「おい、まだ若か姫か分からぬぞ。まったく、そそっかしいのはお主らではないか」

「構うまい。どちらであれ、剣を取り、馬に乗って戦場を駆けまわるだろうて」


 口に血糊をつけたまま、騎士たちは哄笑した。ヤバルは照れくささを隠すように謹厳な上官として騎士たちを窘めるが、部下達はヤバルの口調と表情があっていないと、嬉しそうに目を細めるのである。そして生き残った互いの顔を見ながら、深く頷き合った。


「ヤバル様、我らの命は次のハドルメの若者たちに」


 ヤバルは部下に向けて静かに頭を下げた。


 その頃、ダゴンは嬉々としてバァルとバルアダンを迎え撃っていた。宿敵が目の前に飛び込んでくれたのである。しかもバァルは全盛期の力を出せず、また自らの宝剣をヒトに預けている。


「バァル、どうしたのだ、武神と崇められた貴様がまるでヒトの様ではないか!」

「何? ダゴンよ。お前が私に封印をかけ、弱めていたのではなかったのか」

「ふん、貴様やナンナこそ我らに封印をかけておいてからに、自身の力が弱まったのをいい訳がましくこちらの所為にするとはな、見損なったぞ」


 ダゴンではない? バァルは胸の奥で黒いもやがかかるのを感じた。武人肌のメルカルトでもないだろう。なれば我が身を竜に封じたのはモレク、ラシャプのいずれかなのだろうか。


 ダゴンが大剣を振り下ろす。人の倍はあろうかというその大剣をバァルは受け止め、バルアダンが宝剣でわき腹を薙ぎ払う。苦悶の声をあげたダゴンが次にバルアダンに剣を振るえば、今度はバァルによって一撃を与えられるのだ。


「武技では貴様らに勝てぬか。ならば海の神である我の力を使わせてもらおう」


 ダゴンはカルブ河から海嘯を出現させ、バァルとバルアダンを後退させた。草原を満たすかのように広がる大波を、上空のサリーヌが堤防を出現させ、カルブ河へとその流れを戻し激突させることでその勢いを減じよう試みる。彼女は何としても、トゥグラトの力によって出現したこの闘技場のような低地の、その中央にいるイスカたちの安全を守らなければならないのだ。


「見事な力ではあるが、浅はかであったな。海嘯は止まらぬ。むしろ水量を増して呑み込むであろう」

「サリーヌ、少しでいい、持ちこたえて!」


 ニーナの声がサリーヌに届く。サリーヌはその声の芯の強さから赤子が無事に生まれたと確信し、全力で以って兵たちを守る土壁を数層構築した。海嘯により次々と土壁は破壊されていき、兵やイスカの天幕に差し掛かった時、エリシェが現れ、水の流れを押し戻したのである。


「ダゴン、同じ力を持つわたしに貴方の力は通用しない」

「エルシード! バァルと違い、貴様は力を減じてはおらぬのか!」

「兄様のように? アサグ、ダゴンは何をいっているの」

「エリシェ、前を、前を見るのだ、あそこにおわすのは……」

「兄様!」


 アサグの指さす方向を見てエルシードは絶句する。行方知れずであった兄のバァルが王と共に戦っているのだ。

 エルシードの叫びを背に受けて、バァルとバルアダンは左右からダゴンに斬りかかった。中央をヤバルが、そして後背を騎士達が攻め、その中心に在ってダゴンは怒りの咆哮を上げ続け、牙や爪を以って騎士を噛み砕き、心臓を抉る。しかし騎士たちは咬みつかれた牙ごと頭を掻き抱き、胸を貫いた腕を掴みとりその動きを封じたのだ。


「ダゴンよ、ハドルメ騎士団の力を思い知るがいい」


 そして遂にヤバルの矛がダゴンの脳天を貫いたのである。バァルとバルアダンの剣が内臓を突き刺し、ダゴンは痙攣をしながら数歩よろめく。


「おのれバァル、バルアダン。しかし許せぬのはお前だ、メルカルト! ヒトに力を貸し我らの同盟を裏切りおって。貴様だけは今ここで殺してやる」


 ダゴンは仮初の体を爆発させ、自らの血を刃と化して戦士たちを跳ね飛ばした。そしてヤバルの首とわき腹を掴み高々と掲げたのである。


「メルカルトよ、貴様の血肉を啜って我が力としてくれるわ!」


 大量の血が流れだし、それを咀嚼するかのように飲み込んでいく音が響く。薄れゆく意識の中でヤバルは妻の声を聞いたような気がしていた。そしてこれは息子の声だろうか、父上、父上と自分の名を呼んでいる。恐らく死を前にしての幻想だろう。息子は自分に近づこうとしてこけてしまい、盛大に泣き声を上げていた。手を差し伸べた方がいいのだろうか。逡巡するも口から出た言葉は厳しいものであった。


「ハドルメの男が痛みごときで泣くものではない」

「父上、痛くて泣いているのではないのです。貴方の背中を見ているだけで横に立てないのが悔しいのです」


 息子はいつの間にか青年となり、悔しそうに自分を見つめている。その姿は歴戦の自分からみても頼もしく、ヤバルを嬉しくさせた。


「何をいう。お前は立派に強くなった。横に立つどころか、いずれ私を追い越していくだろう。ロト、そんなお前を誇らしく思うぞ」


 ヤバルはそういって息子に背を向けて歩き出す。息子が追いかけようとして手を伸ばす気配を感じても振り返ることはない。共に歩けぬ以上、息子に道標となる背中を見せることだけが自分にできる事だった。


 赤子の泣き声が耳朶じだに響いてヤバルは意識を取り戻した。血は流れ、体はしびれたように動かない中で、彼は妻と産まれたばかりの赤子の姿を見ることができたのである。赤子と幻想の中の青年が重なり、ヤバルは束の間の生を取り戻した。


「家族を守るために戦う、か。バルアダン、悔しいがお前を王と認めよう」


 ヤバルは妻子に背を向けて、残る力を振り絞り、折れた矛でダゴンの脳天を再び貫いた。そして悪神は呪詛の声をあげて地に倒れたのである。戦場に駆け付けたトゥグラトが権能杖を振りかざし、再び赤光が世界を覆う。光が消え去った後にはダゴンの姿はなく、憑代としてのカフ家のアドラムが横たわっていた。


「トゥグラト、何をしたの!」

「……エリシェ、僕は祝福でその力を封じただけだ。いつまでもつかは分からないけどね」


 エリシェは慌ててバァルの姿を探し求める。しかし兄がいたはずの場所にはタニンと呼ばれた巨竜がいるだけだった。


 天幕において、ヤバルは遂に我が子と対面した。

 土気色をしたヤバルに対し、アナトらが必死に治療を試みるも、もはや魂を使い潰した者を救う手立てはなく、彼らには苦痛を和らげるだけしかできない。

 ヤバルは反目していたはずのアナトの手を握り、感謝の言葉を述べた後、妻と息子を抱きかかえた。そして血だらけの自分の顔に、息子が手を指し伸ばし笑っている様子を暫し眺めていた。息子には時折、光を放つような魔障の症状がみられ、長くは生きられないことを嫌でも理解させられる。どうすれば幻想で見た青年のように育ってくれるのだろうか、彼は内なるもう一つの魂に語りかける。


「メルカルト、どうやら私はもうすぐ死ぬらしい」

「そうであろうな。しかしヒトの分際でよくも神に挑んだものよ。見事であった」

「なぜ私に力を貸した、そして魂を喰らわなかったのだ。その所為でお前も復活できなかったのだぞ」

「神たる身だ。いつの日か復活もできよう。たまたま今回は失敗したというだけだ。バァルはともかく、私の力を貸し与えたお前がバルアダンに勝てなかったのは残念であるがな」

「彼らと戦いたいか?」

「勿論だ。最強こそこの身が求めるものである」

「ならば、息子を、ロトを憑代としてくれぬか」

「!」

「息子は一年も生きられぬ。しかしお主がその精神の内にあるならば助かるだろう」

「馬鹿な、子を神に捧げるなぞ聞いたこともない」

「私の息子だぞ? 私よりも強いはずだし、神なんぞに意識を奪われるはずがない」


 メルカルトは自分が笑っているのに気付いた。神なんぞに、とは何という傲慢なヒトであろう。そしてその神に子を託そうというのだ。


「それを親の欲目というのだ。それに魂を喰らわなかったとしても我が抱くバルアダンやバァルへの敵意は抑えられぬ。いずれは赤子の魂に影響するだろう。ヤバル、貴様と同じことを息子に繰り返させる気か?」

「むしろ我が子にこそふさわしい生き方だ。……メルカルト、頼んだぞ」


 ヤバルから光が生まれ、ロトに注がれていった。止めようとするアナトをヤバルは生気のない顔と手で押しとどめ、我が子の魔障が消えるのを見るや、息を引き取ったのである。


 ……メルカルトはヤバルが自分に力を求めた時を思い出していた。

 ヤバルはバルアダンに気圧されて力を求めたのではなかった。恐怖に黒く塗りつぶされたその先には、今、彼が見ている妻と子の姿があったのである。極限に在ってヤバルは守るための力を欲し、そして見事にダゴンを討ち果たしたのだ。


「ヒトの想いとは予想外の力を引き出すものよ」


 ヤバルよ、もう少し貴様に付き合うとしよう。メルカルトはそう呟き、精神の内で赤子が見ていた記憶を、ヤバルがダゴンに挑みかかるその背中の光景を眺めていた。この記憶だけは失わないように自分が留めておこう、メルカルトはそう思った。いずれロトが成長し、父の雄姿とその誇りを受け継いでバルアダンに挑むことができるように。その時こそ自分はバァルを上回る力とは何か、その答えを得るような気がするのだ。


 夫を失った妻の嗚咽が静かに天幕の内に響いていく。赤子が父を求めるように手を動かし、やがてそれが叶わないと知ると大きな声で泣き始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る