第215話 子に託すもの⑤ ヤバルの誇り

〈赤光がティムガの草原を覆う前〉


 バルアダンがダゴンの首へ致命の一撃を与えた時、敵か味方かに関わらず誰しもが彼の勝利を確信していた。だが、アナトが地に伏せる悪神に止めを刺そうと槍を突き刺した時、ヤバルが長剣を払って退けたのである。驚いたシャプシュがヤバルを咎める。


「ヤバル、何をしておる。この男は魔神に憑かれている、今すぐ殺さねば、後日必ず我らに仇をなすのだぞ!」

「シャプシュ翁、申し訳ないが、同じ魔神として一応義理というものがあるのでな。ダゴンはこちらで預からせてもらおう」

「義理だと、それに預かるとは何のことだ?」


 シャプシュの困惑が猜疑に変わるその一瞬に、アナトが槍を構えなおして両者の間に割って入った。いや、正確にはアナトはシャプシュの側に立ってヤバルに槍を突きつけたのだ。その穂先はシャプシュの首筋を狙ったヤバルの剣を弾き、火花を発した後には驚愕の表情を浮かべた老人と、猜疑が事実と確認できた表情の二人の青年が皮肉な笑みを浮かべていた。


「シャプシュ殿、お下がりください。どうやらヤバルは既にあちら側にいるらしい。いやはや残念なことだ」

「わざとらしいぞ、アスタルトの大神官。平時から疑っていなくば、こうも迅速に対応できまいに。……シャプシュ翁には何も知らぬまま苦痛なき死を迎えて欲しかった」

「ヤ、ヤバル、お主は王を裏切るつもりか。長きにわたるクルケアンとの戦いにようやく終止符が打たれたというのに!」

「裏切るだと? 我ら誇り高きハドルメの民、戦わずして他国の王に膝を屈することこそ裏切りと知れ!」


 ヤバルの背後にハドルメの騎兵が十騎ほど現れ、バルアダン、アナト、シャプシュ、ハガル、タダイを包囲するかのように両翼に広がった。そして副官らしき男がバルアダンを見据えて大声で言い放つ。


「我らが従うのは強者のみ! 僭主バルアダンよ、真にハドルメを支配したくば、最強の戦士ヤバルと我ら騎士団を打ち破るがいい」


 殺気が両者の間でぶつかる中、一人だけ茶会に参加し損ねた招待客のように残念な声をあげた者がいた。クルケアンの神官兵タダイであった。彼は同じクルケアンの将軍ハガルに向かって大仰に両手を広げ慨嘆する。


「あぁ、これは何ということだ。ハガル将軍、我らはどちらにも味方はできませぬぞ。これはハドルメの問題ですからな」

「タダイよ、しかし我らは王と協定を結んでおるのだぞ」

「それはクルケアンとハドルメ、両者の和平の為の協定です。両国の兵がここで相討つなぞどうしてできましょう」

「……私は個人的な友誼で王につく。ここで王が死んだら和平そのものが崩れかねん」

「はぁ、友誼とおっしゃるか。ならば好きになさるがよろしい」


 こうしてタダイは心のこもらない言葉を投げかけ、馬首をめぐらして距離を取ったのである。ヤバルは皮肉気な視線をタダイに向けると、後退し戦列を整えたバルアダンに視線を戻した。砂塵が夕焼けに舞う中、部下達は自分と馬首を並べ、最後の命令を待ち受けている。彼らは死地に誘った自分を恨むだろうか。


「皆の者、すまない。だが、ハドルメの戦士としてこれ以外に方法はないのだ」

「何を弱気な。我らはハドルメの正しい在り方として信じたからこそ貴方についていくのです。さぁ、ご命令を!」


 ハドルメ騎士団はむしろ笑ってヤバルの心配を窘めた。ヤバルは手綱を固く握りしめ、愉快気に声をあげる。


「私は良い部下に恵まれた。さぁハドルメ騎士団、その力を後世に見せつけるのだ」


 ヤバルは突撃、と短く号令を発した。騎士団たちがバルアダンたちに向けて殺到する中、メルカルトの声がヤバルの脳裏に響く。


「ヤバルよ、お主に力を貸してやろう」

「ふん、魔神の力など借りぬ、体も渡さぬ!」

「馬上試合に臨む貧乏騎士に武具と馬を贈ろうというのだ。騎士道とやらに反しはしまい。勿論、これ以上の力が欲しくば遠慮なくいうがよい。その時には代償としてお主の体を奪うがな」

「ほう、変わった神がいるものだ、騎士としての礼節であれば受け取ろう。……感謝するぞ、メルカルト」


 ヤバルは苦笑した。彼の感謝の言葉が予想外であったらしく、メルカルトの魂が困惑している様を感じ取ったためであった。


「……我が武具よ、この手に来りて敵を打ち倒せ。我が愛馬の魂よ、この馬に宿りて共に敵を屠ろうぞ」


 落雷が落ちたかのように強烈な光がヤバルを貫いた。そしてその光の中から巨馬が飛び出す。そしてその馬上には神々しい甲冑を身に纏い、長大な矛をその手に握っているヤバルの姿があった。巨馬は一瞬でバルアダン達との距離を埋め、ヤバルの矛がバルアダンに迫る。


「バルアダン、ハドルメの誇りの為に貴様には死んでもらう!」

「誇りだと? それで家族が、愛する者が守れるというのか!」


 矛と宝剣が正面から叩きつけられ、青白い火花が二人の男の間で飛び散った。


「所詮は流浪の民の王よ。国というものが分かっていない。家族だけを守るのではない、今後数百年にわたって我らが生きるために強い魂が必要なのだ。誇りを捨て、強者によって生かされるということは家畜に等しい!」


 ヤバルの迷いなき純粋な怒気を叩きつけられ、バルアダンは動揺した。彼は家族の関係を横に広げることで民と国を守ろうと考えていたのだ。しかし目の前の男は子孫という縦のつながりで守ろうとしている。それは現在よりも未来を重視した在り方であった。

 自分は正しいのだろうか、バルアダンは自身の正義に冷水を浴びせられたかのように強い衝撃を受けた。数合を撃ち合うものの、振るう剣に迷いが生じ、剣気に劣るバルアダンは次第に追い詰められていった。そして遂に馬上からの一撃を受け止め損ね、肩口を斬られたのである。ヤバルは歓喜の狂声をあげ、この隙を逃すまいと矛を大きく振り上げた。


「バルアダン、この馬鹿野郎!」


 ヤバルがバルアダンに止めを刺す寸前、ハドルメ騎士団を、その祝福の力を以って押しとどめていたアナトが体ごと飛び込んでバルアダンをタニンから突き落とした。ぬかるんだ大地で泥だらけになりながらアナトはバルアダンを殴りつける。


「強い魂だと! 万人のための都市を造ろうとしているお前の弟妹達こそそれではないか。俺はな、バルアダン、武力だけに頼る強さなどいらん。人のために助け合える心の強さこそ必要なのだ。お前は未来を創る、そういう奴らを守るためにいるんだ!」


 バルアダンははっとしてアナトを見た。口から血を流す友を見て激しく動揺する。彼は自分を盾として背にヤバルの矛を受けていたのだ。……あの時と同じだ。あの時も彼は身を犠牲にして魔人を退けたのだ。そして自分は憎まれ口を叩き合いながらも、常に並び立っていた友を失ったのだ。


「アナト!」

「所詮は理想を語る神官か、守るための強さがないと国そのものが滅ぶではないか。ここでバルアダンと共に死んで自らの過ちに気づくがいい!」


 ヤバルの続けざまの斬撃はアナトの槍を両断し、鎧を切り裂いた。バルアダンは崩れ落ちるアナトを左手で受け止め、残る右手でヤバルの斬撃を防ぐ。それは剣術といえるものではなく、友を殺させないための無我夢中の足掻きであった。


「……バルアダン、いい加減に目を覚ませ。お前がそんなに器用には生きられるものか。大事なものに対してしか全力を出せない、ただのお人好しであることを思い出すんだ。王にした責任は俺に在る。そのかわり何処にだってついていくぞ、バルアダン。お前の正体を知っているのは俺だけなのだからな……」


 ハガルとシャプシュの必死の防戦に関わらずハドルメ騎士団はバルアダンとアナトを囲み、上官と共に剣を突き刺した。

 黄金の光が円を描くように発せられ、ヤバルをはじめ騎士たちを弾き飛ばす。驚愕と苦痛に表情をゆがませる騎士たちが見たのは、一閃させた宝剣を大地に突き刺し、友人を静かに横たわらせているバルアダンの姿であった。


「それは私の言葉だ、アナト。お前がどんなに変わろうと、お前のことは俺だけが知っている。戦いが終わるまでもう少しそこで待っていてくれ。君にダレトという男の、そしてアナトという男の素晴らしさを伝えたいんだ」


 バルアダンは宝剣を手に取ると、ヤバルに向かってその切っ先を向ける。


「ヤバル、アスタルトという闖入者によってハドルメの誇りに傷をつけてしまったことを詫びよう。しかし、それでも私はお前を少し否定する。強さとは、誇りの在り方とは一つではない。私は未来のために誇りを持つ全ての者を守るのだ」

「全てだと、何と傲慢な王か!」

「いや、違う。友が気付かせてくれた。全てを大事に想うから、不器用な私は全部守らざるをえないのだ。まったく損な性分だ、苦労ばかり背負いこまされる」


 だからお前にも半分は背負ってもらうぞ、バルアダンは眼下のアナトに向けてそう呟く。


「ヤバル、貴方も含めて私は守ろう」


 その時メルカルトはヤバルの内に在ってバルアダンというヒトに対し恐怖を覚えていた。自分の為に全てを守るとは、まるで我らと反対ではないか。自分の為、全てを屠るしかない神たちと……。

 そして彼は気付いた。そうか、ヤバルよ。これはお主の心が抱いた恐怖でもあるのか、と。


「メルカルト、メルカルト! お前の力を貸せ、私はこいつを倒さねばならぬ!」

「よかろう、しかし約定は守ってもらう」


 再び雷光がヤバルを穿ち、神気を纏ったヤバルはバルアダンに躍りかかった。渾身の力を籠めたそのひと振りを、バルアダンは宝剣で受け止めた。


「ヤバル、私はその生き方を尊敬する。だからこそ私と共にいて欲しい」


 バルアダンは裂帛の気合と共に大きく一歩を踏みこみ、受け止めた大剣ごと剣を一閃させた。


「何時でも挑んでくるがいい。その折れぬ心こそ私が守りたいものだ。私が勝つ限り共に歩んでもらうぞ」


 矛が弾け飛び、力を出し尽くしたヤバルは泥濘に倒れこんだ。バルアダンがヤバルに手を差し伸べた時、赤光が草原を覆ったのである。

 動かなくなったダゴンの体が痙攣したかと思うと、背中には翼が生え、皮膚は不快な音を立てて鱗のように変わり、再び大地に立ったのだ。


「これがイルモートの力か、まったくもって素晴らしい。メルカルトよ、私は先に行くぞ。その力を我が物とし、またエルシードの力を啜ってくれるわ」


 魔神はそうヤバルに向かっていい放つと轟音と共に南方に向けて飛び去った。

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