第212話 魔神の軍勢④ 神とヒト

〈神と王と兵、ティムガの草原にて〉


 兵士たちは目の前の巨人を見て槍を構えた。明らかに人に属するものではなく、また魔獣とも違うその在り方に恐怖を抱く。兵士は神、という言葉を脳裏に浮かぶが誰もそれを口にしようとしなかった。誰かがその名を叫べば自分は崩れるだろう。人の身で神に挑むには彼らはあまりにも人間でありすぎた。しかしそれでも武器を構え、突撃を敢行し、巨人の腕の一振りで薙ぎ倒されていく。

 愚かな行為かもしれないが、それでも彼らは愚直に繰り返していった。前列の歩兵が倒れれば、後列がその屍を超えて剣を突き出した。愛馬ごと蹴散らされれば、騎士は槍を杖代わりにして半歩でも巨人に近づこうとする。あと少し、あと少し持ちこたえるのだ、兵たちはそう呟きながら巨人の歩みを遅らせていく。


 高台の急造の城に陣取るエリシェらこの世界の要人や神官兵たちは、兵の後ろ姿を見ながら何もできない自分たちを恥じていた。剣を取り、彼らと共に戦うのだという声が次第に雄叫びに取って代わり、彼らは城門に次々と詰めかけた。そして開け放たれた門の外に一人の少年を見かけたのである。興奮で敵かと色めき立つ兵士らを、エリシェは大声をあげて制した。その少年は王の従者であったからだ。


「俺はオシール、ハドルメの民にしてバルアダン王の従者だ。王の命令を伝えるためにここに来た!」


 オシールはその頬を赤く染めながら人生で一番大きい声を絞り出す。


「魔神は王とその側近が相手をする、お前たちは東からの襲撃に備えるんだ。王妃が上空で見たところでは、新たな魔獣数百体が東から移動中とのことだ。城に籠り、王の軍勢と挟み撃ちにしろ!」

「東だと? 東から魔獣が来るというのか」


 神官兵たちがざわめきだす。東の方角にはクルケアンしか存在しない。アドラムだけではない、クルケアンの貴族の中でまだ裏切り者がいるというのか。不信と不安が形となって表れようとした時、十二歳のオシールは、大人たちに向かって啖呵を切った。


「クルケアンの臆病共、裏切り者の存在など問題ではないだろう! ここで奴らに勝つかどうかが大事なのだ。俺は弟を守るために戦うぞ! 戦えないのならそこで指を咥えて待っていろ、俺がすぐに片づけてやる」


 そういってオシールは長剣を掲げてクルケアンの神官兵を挑発したのである。身の丈と同じくらいの長剣を掲げ、ややよろめきながら叫ぶオシールの姿に、神官兵達は冷静さを取り戻し、また、苦笑を誘われた。大した小僧だ、自分たちより勇敢で、それでいて分かりやすい。きっと将来はハドルメの大将軍になるのだろう。ならば自分たちも情けない姿は見せられない。この少年に今後数十年に渡って臆病者呼ばわりされるのは勘弁願いたいのだから。

 エリシェ、トゥグラト、アサグはオシールの横に立ち、大声で兵を鼓舞する。


「みんな、前方は王に任せて後方に集中しましょう。私たちにこの少年の勇気のひとかけらもあればきっと魔獣に勝てるはず」

「エリシェのいう通りだ。神殿長として命ずる。我らのいるこの城こそがクルケアンであり、神殿である。穢らわしい魔獣を我らが聖域に近づけるな!」

「さぁ、神官兵よ、陣頭の指揮は私がとる。床弩しょうどを用意し、弓を張れ! 年少や高齢であろうとも戦える術が我らにはあるのだ!」


 アサグの指示の下、神官兵らが大型の牽引式の弩を城の東と南面に配置する。五人がかりで弩の弓を張り、三イル(約一・八メートル)ある矢をつがえて魔獣を迎え撃つ。

 兵達の喧騒の中、エリシェは膝を折ってオシールの手を握り感謝の言葉を伝えた。美しい水色の瞳を見て、オシールは海に吸い込まれたかのように動けない。王妃様も綺麗だが、このクルケアンの姫も美しい。オシールは自分がおとぎ話の世界に迷い込んだような錯覚を覚えていた。やがてエリシェがオシールの額に接吻し、祝福を与えた。


「ありがとう、オシール。君のおかげでみんな立ち直ったわ」

 

 未来の大将軍は赤面をして俯いてしまった。

 

 ティムガの草原の南方でエリシェと神官兵が体勢を立て直した時、北方では王の軍勢が巨人を押しとどめることに成功していた。巨人は拳を天に突きあげ、手を開いて何かを呼び寄せるかのように叫ぶと、雷鳴と共に巨大な剣がその手に握られていた。兵士の多くが死を覚悟しながら、それでも前に進もうとした時、竜が空から現れ、空から巨人にその爪を突き立てた。王とその騎竜であるタニンが数多の魔獣を屠り去り、遂に巨人に辿り着いたのだ。彼らの士気が瞬時に高まり、バルアダンの名を連呼していく。サリーヌが彼らの眼前に現れ、高らかに宣言した。


「バルアダン旅団、よくぞここまで持ちこたえた。この化け物は王に任せるがよい。さぁ、私と共に東方へその剣を向けよ! 新たに出現した魔獣を倒し、この世界の人々を守るのだ!」


 ハミルカルに騎乗したサリーヌが権能杖を振りかざし、稲妻を魔獣の群れに叩きつけた。すでに日が傾き、赤く染まった大地に迸る雷光は、兵の道標のように黒く蠢く集団を撃ちぬいたのだ。

 サリーヌは兵を割いて負傷者らを後送させ、半ばとなった旅団を率いて転進した後、ティムガの草原にはバルアダン、アナト、ヤバル将軍、シャプシュ将軍、ハガル将軍、タダイが残っていた。バルアダンは諸将を円弧上に配置し、自らはダゴンの正面を抑えるため中央に立つ。


「化け物よ、私はバルアダン、アスタルトの王、バルアダンだ」

「我はダゴン、大海の神である。卑しきヒト如きに化け物と呼ばれるとは、落ちぶれたものだ」

「神がなぜ人を襲う?我らの民を、友を害して何とする。理由如何によっては神とはいえ斬り捨ててくれる」


 ダゴンは南の方角を剣で指し示した。


「知れたこと、エルシードを殺す。あの娘を殺せばこの世界に転生したイルモートも出てくるであろう。ふふっ、どうした。獅子のような顔をしおってからに」

「……イルモートをどうするつもりだ?」

「人の器から魂を引きずり出して真なる肉体に埋め戻すのよ。奴の神殺しの力を用いてバァルとナンナらに復讐するのだ。さぁ、弱きヒトの王よ、お主らには関係のないことだ。命が惜しくばそこをどくがよい」

「それだけではあるまい。この時代も、後の時代も、多くの人を殺めるのはなぜだ!」


 バルアダンは激怒した。魔獣も元は人であり、結局は人同士で殺し合いを数百年続けているのだ。神々の争いに、守るべき民を、そして家族を巻き込まれる正当な理由があるのだろうか?


「理由だと?所詮お主らは我らの奴隷。その血を捧げ、我らの復活の贄となるためだけに存在している。生きるも死ぬも我ら次第であるというのにおかしいことを聞くことよ」


 ダゴンは同意を求めるかのようにヤバルに視線を転じ、醜悪な笑顔を見せた。そしてバルアダンに向き直った時、久しく感じたことない激痛を左腕に覚えたのである。タニンが牙を突き立て、喰いちぎろうと激しく首を振り、ダゴンは怒りの声をあげて大剣を握る手に力を籠める。


「卑しい獣如きが!」


 祝福を受けたヒトならば傷つけられることもあろう、しかし、ただの獣に傷を負わされることなど、有り得べからざる事態であった。空気を切り裂き、真空を生み出すほどの峻烈な一撃が獣の首に振り下ろされ、ダゴンはタニンの死を確信した。


「何?」


 ダゴンは目の前の風景をにわかに理解することができなかった。竜の背に乗る人間が無造作に抜き放った剣で受け止めたのだ。それどころか、恐るべき膂力で自分の剣を払い除け、たたらを踏まされる。


「ダゴンよ、悪神よ、そして我らの災厄よ。貴様とは相容れぬということがよく分かったぞ。時代は違えど、私の友を殺させてなるものか、私の弟妹を害させてなるものか!」


 タニンが主の意思を感じ取り、瞬時に後方へ飛び退すざる。巨大な翼を羽ばたかせ、巨大な矢のようにダゴンに向かって突進した。


「ダゴンよ、お前が奴隷と呼ぶ我らによって打ち滅ぼされるがいい」

「驕るな、バルアダンよ。その傲慢さは我ら神にしか許されないものだ」


 ダゴンの剣がバルアダンとタニンを両断するかのように水平に薙ぎ払われたが、タニンは臆することなく、むしろ速度を速め飛び込んでいった。そして剣の切っ先が届くよりも早く、タニンは大剣の柄にその爪を突き立てたのである。巨竜と巨人が正面からぶつかり合い、それぞれが唸り声をあげる。半瞬の後、ダゴンがバルアダンの姿を求めた時、その男が竜の背にいないことに気づいた。肌と魂を刺すような悪寒が走り、ダゴンは視線を正面に戻した。そこにはバルアダンの姿と、その手にかつて自分を打倒したバァルの宝剣が握られているのを彼は知覚したのである。バァルの眷属! ここに至ってダゴンは初めてヒトに戦慄したのだった。


「タニン、ありがとう」


 激突の寸前、バルアダンはタニンの背から飛び上がっていた。そしてその勢いを減じることなくダゴンの眼前に現れたのである。ダゴンは血まみれのタニンに握られたままの大剣を捨て、やむなく魔爪でバルアダンを刺し殺そうとした。しかし背中に強い痛みを感じ、その動作がわずかに遅れたのである。アナトがダゴンの心臓目掛けて月の祝福をかけた槍を投擲したのであった。

 神は怒りと屈辱で血走った眼をヒトに向ける。夕陽を背にして飛ぶバルアダンの姿を、ダゴンはやけにゆっくりと感じていた。


「バルアダン!」

「ダゴン!」


 バルアダンは全身全霊の力を籠めて、すり抜け様にダゴンの首を薙ぎ払った。

 

 ダゴンから迸る血がティムガの草原を浸していき、空と地が赤く染まるその只中にバルアダンは直立している。その姿をヤバルは忌々し気に見つめていた。

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