第211話 子に託すもの④ 生まれてくる我が子へ
〈ヤバル、アスタルト軍に迫るダゴン神を見ながら〉
「ほう、あれがダゴン神とやらか」
「ヤバルよ、神に対して無礼であろう」
「ふん、タダイよ、私にもメルカルト神の魂が入っているのだ。お主こそ私に対して無礼ではないのか」
「……メルカルト様の温情があるとはいえ、ヒトの分際で神の魂を取り込み、ひと月も意識があるのは強靭な意思を持つお主くらいよ。アドラムでさえ魂の力が弱くなれば三日でただの器となった。よほどお主はあのバルアダンに恨みがあると見える」
タダイはやや恨みがましい視線でヤバルを睨みつける。神人ならともかく、ヒトがここまで意識を保つのは尋常ではない。しかしそれは極上の器ということを意味する。しばらく時間がかかっても仕方あるまい、と心中での不満を押さえつけた。
「メルカルト神は他の三柱と比べて、変わった気質をお持ちであった。神は精神の内で思索をしているのか、または旅をしているか、またはおそらく眠っている。どうだ、神を目覚めさせ力を開放してみては?」
「まだだ、バルアダンとダゴン神の戦いを見てからだ。全てを賭け、全てを捨てるに値するかどうか、この一戦で見極める」
「慎重なことだ。
「……」
メルカルトの魂を受け入れた時、ヤバルにはまだ人としての意識はあったが、神の圧倒的な意識に飲み込まれる寸前であったのだ。ヤバルは叫ぶ、想い人ではなく、倒すべき男の名を、そしてハドルメに君臨するはずであった自分にとって代わった男の名を。
「バルアダン、俺は貴様に勝つ。貴様を倒し、この世界の頂点に立つのだ!」
それは慟哭であり、絶叫でもあった。ヤバルは血だらけの手を霊廟にかけ、バルアダンの名を叫び続けたその時、精神の内で興味深そうに語りかけてくる声を聞いたのだ。
「ほう、超えたい者がいるのか、抗いたい者がいるのか」
「メルカルト神か!」
「強靭な魂を持つ戦士よ、汝はなぜ彼の者を倒したいのだ?」
「我が国の為に。そして強き父であるために」
「我が魂を受け入れればそれは成就できよう」
「ならぬ! バルアダンを倒すのは私でなくてはならないのだ。子に残すことができるのは父の栄誉しかない」
メルカルトはヤバルの魂を飲み込んだ。そして彼の魂に刻み込まれた記憶を垣間見たのである。それは愛する妻と、やがて生まれてくる子のために我が身を傷つける父の姿であった。
「イスカ、魔力を私に流し込むのだ。……私たちの子供の為だ、遠慮はいらない」
イスカの魔力が暴走しだしたのは、彼女が身ごもった時からだったろうか。懐妊で喜ぶ夫婦をあざ笑うかのように過剰な魔力は妻と子を苛んでいく。権能杖などの神器ですらその魔力は吸い取れず、ハドルメで一番の勇者であり、夫であるヤバルがその身にイスカの魔力を吸い上げていくのであった。夫は妻を心配させぬため、激痛を受け入れてもなお、その笑みを崩さない。
父になるのだ、そのためには家族を守らずしてどうするのだ。いずれ幸せな家庭を持つのだと思えばこの痛みさえ、幾百度味わおうとも恐れることはない。
ヤバルはイスカの腹部を擦りながら思う。我が子よ、お前の父はハドルメで最高の戦士だ。生まれてくれば私の背中を見よ。そしてそれに付き従う多くの戦士を見るがいい……。
次にメルカルトが見たのは景色ではなく、激烈な感情の洪水であった。バルアダン、自分より強い戦士よ、その叫びは強い嫉妬であり、妬みであり、挫折でもあった。そして病状が悪化する妻と子の将来を憂えた絶望であったのだ。
「面白い、面白いぞヤバル。その体を乗っ取り、魂を追い出そうと考えたが、今しばらくはやめておこう」
「な、んだと……」
「力を預ける故、お主自身でその戦士に決着をつけるがいい。しかしそれは一度だけだ。もしそれ以上の力を望むなら、我は完全に覚醒する。それはお前の死を意味することを忘れるな」
そして意識を取り戻したヤバルが最初に見たのは、神の魂を受け入れながら意識を保っている状況に驚くタダイの姿であった。
「お主、なぜ意識があるのだ。まさか、メルカルト神の魂をおさえつけたわけでもあるまいな」
「タダイよ、貴様に感謝しよう。悪神とはいえ、神は私に力を与えたもうた」
「……メルカルト様はバァルに正面から戦い、敗れた御方であった。王に挑むお主に情けをかけたのであろうか」
「私はバルアダンを討ち果たす。タダイよ、クルケアンの暗部に興味はない。神が復活しようと私にとっては些事だ。しかし、約定通り
タダイは不満げに、恐らく宝物庫であろう廟堂の奥にある一室の封印を解き、神薬が入った瓶をヤバルに放り投げた。
「使え。安心するがいい、メルカルト様がお認めになったお主に紛い物は渡さぬよ。これがあれば一年は子は無事なはずだ」
「一年だと、それでは意味がないではないか! それに魔障は妻のほうだ」
ヤバルは怒気と共に剣を振るった。その剣圧は床に亀裂を生み、壁を粉々に打ち砕く。タダイはバァルと覇を競ったメルカルトの剛力を思い出し身震いをする。
「……魔障は生まれつきのものだ。お主の妻であるならば成人する前に死んでおる。子を孕むなぞあり得ぬ」
「な、ならば魔障を持っているのは……」
「恐らく腹の子よ。哀れよの、生まれて一年で死ぬ運命とは。神薬もそうは手に入らぬし、子の命は諦めるがよい」
こうしてハドルメで最強の戦士は震える手で神薬を抱え、不眠不休で馬を走らせギルアドの城に戻ったのである。ヤバルは気遣う部下の声にも応じることなく、ふらつく足取りで妻の部屋に行き、その膝の上で子供のように泣き続けた。
「イスカよ、すまぬ。せっかく神薬を手に入れたというのに……」
「あなた、何をおっしゃいます。少なくとも我が子が生まれることが叶うのです。それに私たちの子供ですよ、あなたのように強くて、私のようにあきらめが悪い子に違いありません。きっと生き抜いてくれる、そんな気がするのです」
妻は優しく夫の髪を撫で、夫は妻の顔を見上げる。
母になる女性はかほどに美しく、強いものなのか。
ならば私は父として、この子に誇れる男になろう。
「だから、いつものあなたに戻ってください。そうでないと、ロトに笑われますよ」
「ロト?」
「前にいったでしょう。きっと生まれてくる子あなたに似て男の子のはずだって。待ちきれずに名前を考えていたのです」
「あぁ、ロト、ロト!」
ヤバルは立ち上がり、妻を優しく抱擁する。
いつ、自分が神の魂に飲み込まれるかもしれない。しかし我が子よ、ロトよ。父はこれだけは約束しよう。魔障に負けぬお前のように、父も誰にも負けぬと。
メルカルトはヤバルの精神の内でヒトを観察し、思索に耽っていた。なぜ自分はバァルに敗北したのだろうか、と。自分とバァルに力の差はないはずだ。しかし彼我の決定的な違いがどこかに在るはずである。この男の魂を、そしてヒトを観察すればそれが分かるのではないか。
メルカルトはヤバルの目を通して、迫りくるダゴンの姿を見る。そしてバァルの宝剣を抜き放ち、そのダゴンの前に立ちはだかった男の姿も見てしまったのだ。ヤバルが追い求める男、そして自分が敗北を喫したあのバァルに似ている男を。
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